サウジアラビアにとって最大の脅威は、アラビア半島西南部を占めるイエメンである。イエメンの現在の人口は約2千5百万人で、サウジアラビアの人口にほぼ匹敵している。イエメンは山岳地帯が多く、国内が分裂しやすいため、内戦に陥りやすい。そして、対IS掃討作戦を通じて北のイラクで影響力を伸ばしているシーア派大国イランが、南方のイエメンでシーア派の反体制武装勢力フーシー派を支援していることは、ヒジャーズにあるスンナ派の二聖都守護者を以て任じるサウジアラビアにとって、シーア派から南北を挟撃されかねない重大な脅威であったと言える。
だが、サウジアラビア軍にイエメンを制圧しきるほどの力は恐らく無い。サウジアラビアは、軍による王政打倒のクーデターを伝統的に恐れ、王家は軍を余り信用していない。サウジアラビア正規軍の兵力は最小限の規模に留められ、兵士は士気が低く、練度も不十分な状態にある。その結果、イエメンに対するサウジアラビアの軍事介入はその出口戦略が見えないまま、曖昧な政治目的の下で空爆を中心に断続的に続けられているのである。
最後にトルコの地政学的立場であるが、データを見ると、トルコは軍事費支出において域内でサウジアラビアに次いでおり、イスラーム圏では突出した軍事大国であることは間違いない。トルコはイランと同様に、中東の最も豊かな農業地帯と技術的に最先端の工業地帯を共に抱えている高原地帯の組織化された強力な国家である。
だが、トルコについては、旧ソ連圏のステップ地帯と、リムランドにあるペルシャ湾岸という、世界の二大エネルギー産出地を架橋する極めて有利な地政学的位置にイランが存在することに比べると、南の地中海と北の黒海に挟まれた押し詰められた広がりの無い陸橋に位置しているため、その周辺地帯への影響力は限定されたものにならざるを得ないのである。
トルコでは、21世紀に入ってレジェップ・タイイップ・エルドアン(Recep Tayyip
Erdoğan)が率いるイスラームに基づく中道保守と経済自由主義の推進による欧州連合(EU)加盟を目指す公正発展党(Adalet ve Kalkınma Partisi, AKP)が政権を握ると、中東よりも欧州に目を向けたケマリズムは次第に力を喪失して、代ってトルコ民族主義が台頭し始めたのである。
現在のトルコはむしろ周辺国との対立を再燃させてでも、シリアのバッシャール・アサド(Baššār al-ʾAsad)大統領の退陣とアメリカが主導する対IS掃討作戦に消極的ながらも協力する方向に方針を転換した。また、最近のエルドアン政権は強大なロシアとの対立も敢えて辞さない独自の気構えを示している。こうしたトルコの強硬姿勢への転換は、2014年以来ISへの対応をめぐって極めて不安定な状態に陥った中東の安全保障環境にとって、イランとサウジアラビアの国交断絶と同じ位に悪影響を及ぼしかねない大きなリスクを孕んでいると言えるだろう。
現在のイラクを取り巻く地政学上の諸問題には、以下のような複雑な論点と多数の行為者が絡み合っていると思われる。それを一言で結論付ければ、重要な空間が対立する諸勢力によって混雑してしまい、中央政府の調整とコントロールによって適切に利益を分配する余裕が失われているという事である。
例えば、イラクではシーア派とスンナ派、そしてクルド人が相互に宗派間、民族間で対立する状況にあるが、シーア派に対してはイランが、スンナ派に対してはサウジアラビアが、クルド人に対してはアメリカとトルコがそれぞれ自分の国益を伸ばすための勝手な思惑から外部より支援を継続している。これだけを見ても、脆弱なバグダードの中央政府が国内外の情勢をコントロールすることは不可能だろう。
さらに言うと、アメリカのイラク戦争遂行とその後の占領統治によって、第1次世界大戦後のオスマン・トルコ帝国アラブ領土の分割に関する基本枠組み、すなわちサイクス・ピコ協定に基づくアラブ近代主権国家体制が崩壊し始めた事実を考慮しなければならないだろう。
もともと、中東アラブ世界の心臓部とも言える肥沃な三日月地帯は歴史的・文化的に一体化された地域であり、それをイラクとシリアに分割すること自体がそもそも無理だったとも言える。サッダーム・フセイン大統領やハーフェズ・アサド大統領の様な強権体制が崩壊した肥沃な三日月地帯では、その力の空白を埋めるようにISの勢力が台頭している。
換言すれば、現在のイラクは広大で貧しい過密都市に流入するユースバルジを統治する困難に見舞われており、それがイラク戦争後に曲りなりにも構築された脆弱な民主主義を崩壊させる原因となりかねない状況をもたらしている。
そして、ISの様な非対称で無国籍な権力が国家の重荷となった空白地帯に浸透し、マスメディアや情報通信技術を利用して自分達のイデオロギーや要求を世界に宣伝し、拡散させることによって若者の間で喪失されたアイデンティティを強化し、海外からの支援と同志を結集させることに成功しつつある。
こうした準国家的な武装勢力はシーア派でも見られるが、こうした勢力は小型武器で大国の軍事力に非対称に対抗できる程の軍事技術を保有している。ISやヒズブッラーのように、一定の領域を支配できる位の暴力手段を集中させているケースも見られるため、それを脅威と見なす大国が外部から介入している。その結果、地域の混乱とパワーシフトが助長されているのが中東の安全保障環境の実情であろう。
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