2015年5月8日金曜日

宗派間抗争を激化させる、危険なアラブ合同軍のイエメン空爆

 サウジアラビア空軍が主導するアラブ合同軍によって、サアダなどイエメンのフーシー派拠点が連日空爆されている。3月26日から開始された作戦は、4月21日にフーシー派の脅威を排除して目的が達せられたとして一旦終結が宣言されたが、作戦名が変更されて直ちに再開された。

 「ヒューマンライツ・ウォッチ」は5月3日、この空爆で国際的に使用禁止とされているクラスター爆弾が使用されたと発表した。クラスター爆弾は、大量の子爆弾を散布して主として人的殺傷を目的とする、非人道的な爆弾である。

 そのため、2008年に調印されたオスロ条約で国際的に使用が禁止されている。ただし、サウジアラビアは同条約に署名していない。

 サウジアラビアの軍事的能力は、専門家からは非常に低いと考えられている。大量の最新兵器をアメリカなどから毎年多額の軍事費(米中ロシアに次ぐ世界第4位の額)で購入しているが、その運用能力に欠けていると思われているためだ。

 特に陸軍は、クーデターを恐れるサウド王家に警戒されて主として辺境に配置されており、その士気も低い。したがって、頼りにならないサウジアラビア陸軍の地上部隊がイエメンに投入される可能性はなく、また、仮に投入されてもイランの支援を受けて実戦経験豊富なフーシー派武装勢力に太刀打ちできる見込みはないだろう。

 しかし、サウジアラビア空軍は約200機のF‐15戦闘機を保有しており、これは米空軍を除けば、航空自衛隊に匹敵する実戦配備数である。サウジとしては空爆を続けることで、アデンに迫るフーシー派とこれに結託して復権を図るサーレハ前大統領グループを排除せざるを得ない。

 だが、サウジ主導の空爆だけでフーシー派武装勢力を駆逐することは多分できないだろう。シリアとイラクにおける米空軍の対ISIS空爆が続いているが、依然としてISISの攻勢を排除できないことからも、これは明らかである。

 心配な点は、アラブ合同軍による空爆継続が、イエメンの一般市民に対する付随的損害を引き起こし、深刻な人道的危機をもたらしていることである。クラスター爆弾が使用されているとすれば特に、無辜の一般市民の殺傷は避けられない。この事実が、フーシー派やイランのイスラーム革命防衛隊がスンナ派に対する宗派間抗争を扇動する上で、恰好の大義名分を与えかねない。

 そうなれば、イエメンもイラク内戦と同様の激烈な宗派間抗争状態に陥るだろう。サウジの意図は明らかで、イランとの交渉路線を続けるアメリカのオバマ政権の外交姿勢に不満を抱き、自らイランに対するブラック・メール(脅迫状)を送りつけたのが、今回のイエメンに対する空爆作戦なのである。

 イランは、自らが支援するフーシー派が優勢を保っている現時点では、サウジの脅迫を非難するだけに留めているが、今後の情勢の推移によってフーシー派が不利となれば、自らイエメンに軍事介入する恐れがある。

 もしそうなれば、イランとサウジアラビアの両軍が直接衝突する、危険な地域紛争がペルシャ湾岸に起きるかもしれない。この両国の地域紛争が実際に起きれば、アジアと欧州に向けた原油と天然ガスの供給に、深刻なダメージを与えかねない。よって日本は、イエメン情勢の趨勢を特に注視しておくべきだろう。

2015年5月7日木曜日

毎日新聞の記事「一極社会:結婚「コスパ悪い」」は、ミスタイトルだ。

 今日の毎日新聞の記事「一極社会」では、20代の日本の若者の間で「恋愛の価値」が低下し、結婚が「コスパ(費用対効果)悪い」ものと見なされているというタイトルが付けられていた。面白そうなので読んでみたが、記事のタイトルと主張が合致していない。明らかなミスタイトルで、読者をミスリードしかねない内容であった。

 記事では、少子化が進み、物価が高い東京で、若者の恋愛や結婚観に経済事情が影を落としていると前振りしながら、結婚がコスパの面で割に合わないとする26歳の公務員君の主張の根拠は、もっぱら「特定の相手に一生縛られるのはマイナス」であるという点と、「子供ができれば養育費や教育費もかかる」という2つの点に過ぎない。

 これでは彼は、「何も束縛が無ければ、人は真の自由の喜びを知ることができない」という真理に思い至ることのない、ダン・カイリーの言うところの「ピーターパン症候群」に陥った、幼児性を残した人のように思えてしまう。

 また、彼が本当に子供に対する養育費や教育費を単なる無駄な出費と考えているとすれば、日本社会全体の将来の発展はどうでもよいと考えている、単なる節約主義者か、フリーライダーに過ぎないだろう。彼自身も、恐らく公務員となるまで、両親から養育費や教育費を貰っていたと考えられるからだ。

 「朝倉宗滴話記」に、伊勢宗瑞(北条早雲)を評した話として、宗瑞は「針ほどの細かいものまで蔵に積むほどの倹約をしながら、いざ合戦となれば貴重な玉をも砕いて惜しみなく使う人だ」とあるが、若者は倹約の手段と目的を取り違えてはいけない。

 この公務員君は26歳の若さにして手取り月40万円弱とのことだが、これは恐らく事実ではない。彼がそう主張したのが事実ならば、単なるはったりに過ぎないだろう。公務員は副業が禁止されており、20代のうちは俸給月額も低く抑えられているので、手取り40万円も貰えない。いくら残業しても、不可能だろう。

 記事の主張は、国立社会保障・人口問題研究所の2010年の調査(「第14回出生動向基本調査」のことと思われる)の分析から、日本の結婚適齢期男女の晩婚化が、主として経済的理由にあるとする点にある。非正規雇用が増大して、若い世代の多くが経済的不安を抱いていることが、恋愛と結婚を躊躇させているということが記事の主たる内容である。

 とするならば、単に「コスパが悪い」という心理的理由が、若者の晩婚化の主たる原因ではないだろう。そう思って、原典である調査の結果概要を見てみた。

 すると、いずれは結婚しようと考える未婚者は男女とも8割以上もおり、確かに独身志向の未婚者も増えているが、結婚を先延ばししようとする意識は薄らいでいると分析されている。

 1年以内に結婚しようとする意欲のある未婚者の割合は、男性の非正規雇用者では低い傾向が見られるが、女性では学生を除くと、正規と非正規の雇用者間で余り差が見られないという。

 つまり、晩婚化の原因は、もっぱら家計を支える男性の経済力不足に起因しており、女性では、自分の稼ぎの額はさほど意識されていないということだ。

 独身生活の利点は、男女ともに「行動や生き方が自由」なことと認識されているが、逆に結婚の利点は、「自分の子どもや家族を持てる」が3割強、女性に限ると「経済的余裕がもてる」が15%以上に上昇している。

 したがって、最近の結婚適齢期の日本女性では、特に、独身生活の「自由」と結婚生活の「経済的余裕」のトレードオフについての各人の考え方が、晩婚化の決め手となっている様に思われる。「適当な相手にめぐり会わない」という理由も、相手の「人柄」の他に、現実的には経済力に関する男女双方の要求のミスマッチが起因しているのかもしれない。

 問題は、未婚者のライフスタイルで、「仕事で私生活を犠牲」にしている割合が、男性で50%以上、女性でも45%以上と、1997年の第11回調査と比較してそれぞれ4から6ポイント上昇していることである。これでは、9割以上の未婚者が結婚相手に求める条件として重視している、「家事・育児の能力」を発揮することができないだろう。

 結果を述べれば、今日の日本社会の若者の晩婚化の主たる要因は、単に結婚の「コスパが悪い」と考える若者の心理的な理由などではなく、家計を支える男性の「経済力不足」と、男女ともに「仕事で私生活を犠牲」にしている結果、家事・育児能力を発揮する機会を喪失していることにある。

 このあたりを解決する政策を進めることこそ、日本の少子化対策の決め手となるのではないだろうか。

2015年5月6日水曜日

イスラエルがイランを攻撃した場合に、アメリカはどう反応するか-ベイズ推定による分析

 ベイズの定理とは、結果(D)の発生後に仮説(H)が成立している事後確率を求める公式を意味する。

 すなわち、結果Dの発生後に仮説Hの成立している事後確率・PH|D)=仮説Hの下で結果Dが生じる条件付き確率・P(D|H)×仮説Hが成立する事前確率・P(H)/結果Dが生じる確率・P(D)の式を用いて、イスラエルがイランを攻撃した後のアメリカの反応(不支持、または黙認を含む支持)から、アメリカの政策決定過程における親イスラエル状態の事後的な主観確率を推定することができる[1]

※ベイズの定理(公式)  P(H|D)P(D|H)×P(H)P(D)
P(H|D): 結果Dが生じた場合に仮説Hが成立している確率(事後確率と言う)。
P(D|H): 仮説Hが成立する場合に結果Dが生じる条件付き確率(尤度と言う)。
     P(H): 仮説が成立する確率(事前確率と言う)。
     P(D): 結果Dが生じる確率。

 いま、イスラエルによってイランの核施設が攻撃された後のアメリカの反応を、不支持と(黙認を含む)支持の2つの状態であると考える。その政策決定過程に影響を及ぼすアクターとして、ホワイトハウス、議会の上院と下院、そしてマスメディアの4者を想定する。

 この4つのアクターをそれぞれ支持、不支持因子に置き換えた場合に、下記の表のような割合比を構成するものと考える。

 そして、アメリカの反応が不支持の時には不支持因子が、支持の時には支持因子が現れたとそれぞれ考えるものとする。

 表1  アメリカの反応の支持・不支持因子の割合
政策決定過程の状態
反イスラエル
中 立
親イスラエル
支持・不支持因子の割合比
13
22
31

そうすると、公式に代入すべき結果Dは「不支持」あるいは「(黙認を含む)支持」の過去のデータとなる。また、仮説は3つを考えることができ、H1は「反イスラエル」状態、H2は「中立」状態、H3は「親イスラエル」状態である。

この3つの仮説は相互に排反であり加法定理を適用できるから、公式の分母であるP(D)P(D|H1)P(D|H2)P(D|H3)で計算できる。そして、事前確率については、「反イスラエル」状態のP(H1)0.1、「中立」状態のP(H2)0.3、「親イスラエル」状態のP(H3)0.6と、仮に設定して計算する。

 以上によるアメリカの反応の事後確率に関する計算結果は、以下のとおりである。

 表2  アメリカの反応のベイズ推定

(1) 政策決定過程における状態


反イスラエル(H1
中 立(H2
親イスラエル(H3
不支持因子数
3
2
1
支持因子数
1
2
3

(2) 尤度の算出

結果(D
P(D|H1)
P(D|H2)
P(D|H3)
不支持(D1
0.75
0.5
0.25
支持(D2
0.25
0.5
0.75

(3) 事前確率

反イスラエル・P(H1)
中立・P(H2)
親イスラエル・P(H3)
事前確率(初期設定)
0.1
0.3
0.6

(4) 過去の事例とアメリカの反応の事後確率 ※小数点以下第4位を四捨五入。

攻撃事例

アメリカの反応

反イスラエル
中立
親イスラエル
0.1
0.3
0.6
イラク原子炉
不支持
0.2
0.4
0.4
チュニス・PLO
黙認(支持)
0.091
0.364
0.545
シリア核施設
黙認(支持)
0.037
0.296
0.666
Ifイラン核施設
If不支持
0.082
0.431
0.487
If黙認(支持)
0.014
0.225
0.761

 上記の計算結果によると、イスラエルが200796日にシリアの核施設を空爆して破壊した後のアメリカの親イスラエル状態の事後確率は0.666で、過半数の比率を相当上回っており、逆に反イスラエル状態の事後確率はわずか0.037に過ぎない。

 この時点では、アメリカは非常に親イスラエル的な状態であったと推定することができるだろう。

 しかし、もしも仮に今後イスラエルがイランの核施設を空爆したケースを想定すると、仮にアメリカが黙認(あるいは支持)した場合には親イスラエル状態の事後確率は0.761に上昇するが、逆にアメリカが不支持であった場合には、親イスラエル状態の事後確率が0.487と半分以下の比率に大きく低下することが推定される。

 これはアメリカの恒常的な支持に自国の安全保障を大きく依存しているイスラエルにとって、アメリカの意向を無視してイランの核施設攻撃を決行した場合には、無視し難い大きなリスクを伴う結果を招くことを暗示している。

 したがって、イスラエルがアメリカに無断で、単独でイランの核施設を攻撃することは事後の対米関係を考慮すれば、極めてリスキーで困難な選択肢であることが予想できるのである。

 そのため、イスラエルが対イラン核施設攻撃を実行するためには、付帯条件としてのアメリカの支持が必ず必要であると思われる。


[1]ベイズの定理については、涌井良幸・涌井貞美『Excelでスッキリわかるベイズ統計入門』、39-40頁を参照。

2015年5月5日火曜日

『天皇の料理番』の面白さは、明治大正時代の西欧中心主義と無鉄砲な海外留学による立身出世にある。

 TBS日曜劇場枠で、『天皇の料理番』が放送されている。佐藤健が主人公の秋山篤蔵役で、既に2話が放映された。

 自分としては、1980年10月から翌年3月まで同じTBSで日曜午後8時から放送された堺正章主演のドラマの方が、ギャグ要素満載で面白かった印象が残っている。しかし今回のドラマでも、篤蔵のモデルである秋山徳蔵氏の実際の印象以上にデフォルメされた無鉄砲な人格描写が、各々下積みの身分から立身出世を目指して、あるいは画家としてパリ留学を目指して才能の無さゆえに脱線したり、あるいは成り金を目指して家庭を崩壊させて妻と離縁したりする、2人の友人との対比で面白く描写されそうで、大いに期待しているところだ。

 ところで、『天皇の料理番』が面白いのは、飛行機もない明治時代に、フランス語も碌に話せないのに、大金を捻出して船に何週間も揺られてパリに私費留学しようとする無鉄砲な若者がいた事実と、それが帰国後の彼の立身出世にとって、実際の足がかりとなっているという、今では考えられないような時代背景にある。以下、ネタバレ恐縮ではあるが、自分の感想を述べてみたい。

 80年版ドラマでは、巨匠エスコフィエが総料理長を務めるパリのオテル・リッツの厨房入りを目指して渡仏した篤蔵が、ふとしたきっかけでパン屋で知り合った日本大使館の安達参事官の紹介で働くようになった場末の食堂で、フランス人シェフに人種差別的に苛められたりしたのを乗り越え、リッツに入って修行できることになる。篤蔵がシェフとして成功していくのと対比して、画家を目指して先にパリに留学した鹿賀丈史演じる新太郎は、ピカソの才能と比べて自分に画家としての才能が無いことを悲観して娼婦のヒモになり下がる。

 一方、相場を当てて成金として成功し、篤蔵の渡仏費用を出してくれた明石家さんま演じる辰吉も、その後事業に失敗して妻と別れてしまう。そして、帰国後トントン拍子にフランス料理界で出世の階段を駆け上がって行くにつれ、次第に友人達の気持が理解出来なくなった篤蔵の発する心無い一言と、新太郎、辰吉の感じる悲哀との対比が、何とも言えず真実味があって良かったのである。

 秋山篤蔵のように、才能と努力と人脈、そして無鉄砲さが時宜を得てマッチングしなければ人生の成功は覚束ない。これは現在も同じであろう。しかし、「一将功なりて万骨枯る」、新太郎や辰吉のように上記4つの立身出世に必要な条件のうち、どれかが欠けて失敗するか、平凡に終わる人生の方が、九分九厘位の割合を占めているのも事実だろう。

 真実の『天皇の料理番』秋山徳蔵氏は、その著書から推察される人格は、あくまで堅実な修業を重ねた緻密な料理人であったようであり、努力も並々ならぬものがあっただろう。決して、ドラマの篤蔵から受ける印象のような、才能と人脈、無鉄砲さがデフォルメされていたような人では無かったように思われる。最後に人生の成功のスパイスを効かせるのは、やはり弛まない努力なのであろう。

 

北条氏照の居城移転と境目防衛戦略

 北条陸奥守氏照は、天正18(1590)年春夏の秀吉の小田原征伐で、兄氏政(後北条氏四代目。最後の当主氏直の父)と共に敗戦後切腹を命じられた、対秀吉強硬派の責任者とされる。

 その氏照は、当初武蔵西部の有力国人大石氏の婿養子となって、その所領由井郷を継承した。この由井は、八王子から中村雨紅の童謡『夕焼小焼』で有名な陣馬街道(案下道)を通って和田峠を越え、甲州に通じる交通の要衝を抑えている。齋藤慎一氏の『中世東国の道と城館』(東京大学出版会、2010年)第13章(365‐402頁)によると、氏照が永禄年間に当初入城した由井城を浄福寺城であると推定している。

 同城は北浅川を挟んで後の天正年間に八王子城が築かれた深沢山(城山)と、北に相対するように恩方に張り出した尾根上にある山城で、浄福寺というお寺の墓地の裏山にある。自分も登ったことがあるが、山上の曲輪の削平は大したことはないが、複雑に屈曲した虎口や深い堀切は中々見事で、それなりに攻略困難な山城である。東麓の川原宿が城下町として機能していたようである。

 当時の甲武国境を越える重要な道は、案下道の南に小仏峠を経る後の甲州街道があり、そのさらに南に相模の奥三保(津久井郡)を経る津久井道があった。津久井道を抑える要衝城山には、相模の有力国人内藤氏が城主であった津久井城が築かれており、これも見事な山城だ。

 特に山頂から山麓まで何本も掘られた縦掘りは壮大で、西峰山頂の本城曲輪から高尾山や八王子城方面の眺望と、東峰東端の鷹射場から相模川と相模原台地の眺望は抜群で、もう1つの真ん中の峰には飯縄神社が祀られている。この神社のすぐ脇に、つい数年前まで神奈川県民には知られていた大杉が屹立していたが、落雷で焼失してしまった。相模原台地からでも確認できる程の目立つ名木だったのに、大変残念である。八王子城から狼煙を上げれば、この津久井城を中継して小田原城まで、直ちに緊急事態を伝達できそうであり、この城の戦略的重要性がよくわかる。

 ちなみに奥三保の内藤氏の知行地は、武田方の上野原加藤氏によって「敵半ば所務」という状態であった。

 享徳の乱で関東管領上杉氏と対立した公方足利成氏が鎌倉を捨てて古河に本拠を移転して以後、それ迄ずっと東国武家の本拠地であった鎌倉が衰退したため、鎌倉から小山田(町田市)、府中を経て武蔵、上野を連絡する鎌倉街道上道の戦略的重要性が廃れた。

 かわって後北条氏の本拠小田原城から矢倉沢往還(現在の国道246号線)を通って糟谷(伊勢原市)を経由し、当麻の渡しで相模川を渡河して北上し、椚田要害(高尾周辺)、由井を経て勝沼城(青梅市)に到達し、さらに北上して氏政、氏照の弟で藤田氏の娘婿となって鉢形城主となった氏邦と連絡する山の辺の道が、後北条領国境目を繋ぐ幹線道路となった模様である。

 確かに氏照は永禄年間に三田氏を滅ぼして勝沼領を併合しているし、西方の武田信玄と北方の上杉謙信の侵攻にまず対処するのは、決まって氏照と氏邦の兄弟であった。領国と居城の位置からみて戦略的に武田担当が氏照、上杉担当が氏邦だっただろうが、武田が侵攻してきた場合には氏照が支えて氏邦が後詰めに、上杉が侵攻してきた場合には氏邦が支えて氏照が後詰めで支援する支城体制を取っていたのだろう。

 その氏照が、由井から東方の多摩川南岸の滝山城に拠点を移したのは、恐らく北からの上杉の脅威が高まったからだろう。武田、今川と同盟が締結できたため、当面西からの脅威が無くなったことが考慮されたと思われる。

 ところが永禄11(1568)年、親今川派の長男義信を廃嫡した武田信玄が、北条、今川との同盟を破棄して徳川と今川領国の分割を図って駿河に侵攻すると、後北条氏は今川氏救援のため伊豆から駿河へ出兵した。逆に怒った信玄が、翌年8月碓氷峠を越えて北条領国に侵攻し、9月に氏邦の鉢形城を攻めた。

 さらに南下した武田勢は、拝島に布陣して氏照の居城滝山城を攻撃しようとしたが、この時信玄の命を受けた甲斐郡内の小山田信茂の兵が小仏峠を越えて高尾近くの十々里に侵攻して氏照勢を破ったため、滝山城が包囲されて落城寸前になったと言われている。当時の小仏越えは悪路の難所で、氏照は同方面からの武田勢の侵攻を想定しておらず、檜原村、小河内村からの侵攻に備えていたとされる。氏照としては、予想外の事態に直面したわけだ。

 その後信玄は小田原城まで包囲したわけだが、城下に放火して4日後撤退した帰路に起きたのが、信玄を迎え撃とうと三増峠に陣取った氏照、氏邦勢を返り討ちにした三増峠の戦いである。

 さて、この武田信玄との戦いで北方の鉢形方面への後詰めに備えた滝山城の脆弱性を認識した氏照は、天正年間に大規模な山城である八王子城を築城して、これに移転したとされる。八王子城は豊臣勢力との対決を意識して再度西への備えとして築かれたと言われるが、城への進入経路は東側の城山川下流方面からで、大手口は明らかに東向きである。

 搦め手は城域北側の北浅川、恩方方面で、こちらは先に述べた浄福寺城とその東方の小田野城が支城となって、八王子城の背後を固めていた。

 太田牛一の『信長(公)記』によると、氏照の使者が織田信長の安土城を訪問したことがあり、その総石垣造りの壮大な構えを見習って、山麓の御主殿周辺は枡形虎口を含め関東の中世城郭には珍しく、堅固な石垣が巡らされている。ハイキングとして山頂に登ることも容易で、東京近辺では津久井城と共に大いに見所のある数少ない壮大な山城である。

 その八王子城も天正18年の秀吉の小田原攻めの際に、前田利家と上杉景勝の率いる北国勢に強襲されて、6月23日わずか1日の抗戦で落城した。城主氏照が主力部隊を率いて小田原城に籠城していたため、八王子城には僧侶や老若男女の周辺農民多数を含む約3千人が立て籠もっていたが、上方勢は約1万5千人と言われるから、城主と主力部隊が不在では有効な反撃もできなかっただろう。

 それでも夜陰に乗じて東方から大手口を破って侵攻した前田勢は、山頂付近の要害地区の戦闘でかなりの損害を被った模様である。搦め手から侵攻した上杉勢が小宮曲輪を背後から急襲して落としたため、要害地区の各曲輪の守備が崩れて落城した様である。山上では逃れようもないので、守備側はほぼ壊滅だっただろう。

 八王子城落城で小田原に引き回されて晒された敗残の氏照関係者を目の当たりにして、城内の士気が一気に阻喪した結果、小田原城は降伏して開城するに至ったと言われている。実はこの頃、上方勢も兵糧不足で包囲戦にすっかり参っていた。そのため、小田原城の降伏を急がせる目的で八王子城は生贄にされ、強攻されたという説がある。秀吉は、中国の毛利攻めの際にも同様の残虐な方法を取ったことがあるので、恐らくそういう非情な意図の城攻めだったのだろう。

 鉄砲が普及してからは、岐阜城や八王子城のような堅固な山城に数千人の兵力が籠城しても、1万人以上の兵力で強襲されると1日程度しか抵抗できずに落城している。むしろ平地に水掘と重層的な曲輪を巡らした縄張りの平城の方が、明らかに要塞としての防御機能を果たしている。

 山城では、どんなに技巧をこらしても水堀と多聞櫓等で銃撃を阻止できないし、曲輪の面積が不足する。その結果、銃撃に対する防御が困難となるだろう。どうして北条氏照は、鉄砲が普及した天正年間に、山城の八王子城に再度本拠を移したのか、いささか疑問が残るところである。