2015年5月5日火曜日

北条氏照の居城移転と境目防衛戦略

 北条陸奥守氏照は、天正18(1590)年春夏の秀吉の小田原征伐で、兄氏政(後北条氏四代目。最後の当主氏直の父)と共に敗戦後切腹を命じられた、対秀吉強硬派の責任者とされる。

 その氏照は、当初武蔵西部の有力国人大石氏の婿養子となって、その所領由井郷を継承した。この由井は、八王子から中村雨紅の童謡『夕焼小焼』で有名な陣馬街道(案下道)を通って和田峠を越え、甲州に通じる交通の要衝を抑えている。齋藤慎一氏の『中世東国の道と城館』(東京大学出版会、2010年)第13章(365‐402頁)によると、氏照が永禄年間に当初入城した由井城を浄福寺城であると推定している。

 同城は北浅川を挟んで後の天正年間に八王子城が築かれた深沢山(城山)と、北に相対するように恩方に張り出した尾根上にある山城で、浄福寺というお寺の墓地の裏山にある。自分も登ったことがあるが、山上の曲輪の削平は大したことはないが、複雑に屈曲した虎口や深い堀切は中々見事で、それなりに攻略困難な山城である。東麓の川原宿が城下町として機能していたようである。

 当時の甲武国境を越える重要な道は、案下道の南に小仏峠を経る後の甲州街道があり、そのさらに南に相模の奥三保(津久井郡)を経る津久井道があった。津久井道を抑える要衝城山には、相模の有力国人内藤氏が城主であった津久井城が築かれており、これも見事な山城だ。

 特に山頂から山麓まで何本も掘られた縦掘りは壮大で、西峰山頂の本城曲輪から高尾山や八王子城方面の眺望と、東峰東端の鷹射場から相模川と相模原台地の眺望は抜群で、もう1つの真ん中の峰には飯縄神社が祀られている。この神社のすぐ脇に、つい数年前まで神奈川県民には知られていた大杉が屹立していたが、落雷で焼失してしまった。相模原台地からでも確認できる程の目立つ名木だったのに、大変残念である。八王子城から狼煙を上げれば、この津久井城を中継して小田原城まで、直ちに緊急事態を伝達できそうであり、この城の戦略的重要性がよくわかる。

 ちなみに奥三保の内藤氏の知行地は、武田方の上野原加藤氏によって「敵半ば所務」という状態であった。

 享徳の乱で関東管領上杉氏と対立した公方足利成氏が鎌倉を捨てて古河に本拠を移転して以後、それ迄ずっと東国武家の本拠地であった鎌倉が衰退したため、鎌倉から小山田(町田市)、府中を経て武蔵、上野を連絡する鎌倉街道上道の戦略的重要性が廃れた。

 かわって後北条氏の本拠小田原城から矢倉沢往還(現在の国道246号線)を通って糟谷(伊勢原市)を経由し、当麻の渡しで相模川を渡河して北上し、椚田要害(高尾周辺)、由井を経て勝沼城(青梅市)に到達し、さらに北上して氏政、氏照の弟で藤田氏の娘婿となって鉢形城主となった氏邦と連絡する山の辺の道が、後北条領国境目を繋ぐ幹線道路となった模様である。

 確かに氏照は永禄年間に三田氏を滅ぼして勝沼領を併合しているし、西方の武田信玄と北方の上杉謙信の侵攻にまず対処するのは、決まって氏照と氏邦の兄弟であった。領国と居城の位置からみて戦略的に武田担当が氏照、上杉担当が氏邦だっただろうが、武田が侵攻してきた場合には氏照が支えて氏邦が後詰めに、上杉が侵攻してきた場合には氏邦が支えて氏照が後詰めで支援する支城体制を取っていたのだろう。

 その氏照が、由井から東方の多摩川南岸の滝山城に拠点を移したのは、恐らく北からの上杉の脅威が高まったからだろう。武田、今川と同盟が締結できたため、当面西からの脅威が無くなったことが考慮されたと思われる。

 ところが永禄11(1568)年、親今川派の長男義信を廃嫡した武田信玄が、北条、今川との同盟を破棄して徳川と今川領国の分割を図って駿河に侵攻すると、後北条氏は今川氏救援のため伊豆から駿河へ出兵した。逆に怒った信玄が、翌年8月碓氷峠を越えて北条領国に侵攻し、9月に氏邦の鉢形城を攻めた。

 さらに南下した武田勢は、拝島に布陣して氏照の居城滝山城を攻撃しようとしたが、この時信玄の命を受けた甲斐郡内の小山田信茂の兵が小仏峠を越えて高尾近くの十々里に侵攻して氏照勢を破ったため、滝山城が包囲されて落城寸前になったと言われている。当時の小仏越えは悪路の難所で、氏照は同方面からの武田勢の侵攻を想定しておらず、檜原村、小河内村からの侵攻に備えていたとされる。氏照としては、予想外の事態に直面したわけだ。

 その後信玄は小田原城まで包囲したわけだが、城下に放火して4日後撤退した帰路に起きたのが、信玄を迎え撃とうと三増峠に陣取った氏照、氏邦勢を返り討ちにした三増峠の戦いである。

 さて、この武田信玄との戦いで北方の鉢形方面への後詰めに備えた滝山城の脆弱性を認識した氏照は、天正年間に大規模な山城である八王子城を築城して、これに移転したとされる。八王子城は豊臣勢力との対決を意識して再度西への備えとして築かれたと言われるが、城への進入経路は東側の城山川下流方面からで、大手口は明らかに東向きである。

 搦め手は城域北側の北浅川、恩方方面で、こちらは先に述べた浄福寺城とその東方の小田野城が支城となって、八王子城の背後を固めていた。

 太田牛一の『信長(公)記』によると、氏照の使者が織田信長の安土城を訪問したことがあり、その総石垣造りの壮大な構えを見習って、山麓の御主殿周辺は枡形虎口を含め関東の中世城郭には珍しく、堅固な石垣が巡らされている。ハイキングとして山頂に登ることも容易で、東京近辺では津久井城と共に大いに見所のある数少ない壮大な山城である。

 その八王子城も天正18年の秀吉の小田原攻めの際に、前田利家と上杉景勝の率いる北国勢に強襲されて、6月23日わずか1日の抗戦で落城した。城主氏照が主力部隊を率いて小田原城に籠城していたため、八王子城には僧侶や老若男女の周辺農民多数を含む約3千人が立て籠もっていたが、上方勢は約1万5千人と言われるから、城主と主力部隊が不在では有効な反撃もできなかっただろう。

 それでも夜陰に乗じて東方から大手口を破って侵攻した前田勢は、山頂付近の要害地区の戦闘でかなりの損害を被った模様である。搦め手から侵攻した上杉勢が小宮曲輪を背後から急襲して落としたため、要害地区の各曲輪の守備が崩れて落城した様である。山上では逃れようもないので、守備側はほぼ壊滅だっただろう。

 八王子城落城で小田原に引き回されて晒された敗残の氏照関係者を目の当たりにして、城内の士気が一気に阻喪した結果、小田原城は降伏して開城するに至ったと言われている。実はこの頃、上方勢も兵糧不足で包囲戦にすっかり参っていた。そのため、小田原城の降伏を急がせる目的で八王子城は生贄にされ、強攻されたという説がある。秀吉は、中国の毛利攻めの際にも同様の残虐な方法を取ったことがあるので、恐らくそういう非情な意図の城攻めだったのだろう。

 鉄砲が普及してからは、岐阜城や八王子城のような堅固な山城に数千人の兵力が籠城しても、1万人以上の兵力で強襲されると1日程度しか抵抗できずに落城している。むしろ平地に水掘と重層的な曲輪を巡らした縄張りの平城の方が、明らかに要塞としての防御機能を果たしている。

 山城では、どんなに技巧をこらしても水堀と多聞櫓等で銃撃を阻止できないし、曲輪の面積が不足する。その結果、銃撃に対する防御が困難となるだろう。どうして北条氏照は、鉄砲が普及した天正年間に、山城の八王子城に再度本拠を移したのか、いささか疑問が残るところである。

 

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