さて、前年12月の大坂冬の陣和睦の後、周知のとおり豊臣方は徳川方に大坂城の惣構と二の丸を破却され、堀も埋められて本丸のみの裸城にされてしまった。そのため、翌慶長20年4月に起きた大坂夏の陣では、兵力を城外に出して徳川方の大軍に野戦を挑むしか打つ手が無くなった。
4月中、豊臣方は積極攻勢に出た。まず大野修理治長の次弟主馬治房の率いる軍勢が大和郡山や堺を焼き討ちし、また紀州浅野家を攻撃したが、樫井の戦いで逆に浅野勢に敗れて塙団右衛門直之が戦死して豊臣方の攻勢は失敗に終わった。
こうした一連の攻勢失敗を受けた軍議の席で、一説によると真田信繁は、四天王寺付近に全兵力を展開して徳川勢の集結を待って迎撃する決戦案を主張したとされる。しかし、徳川の主力が冬の陣と同じく大和口と河内口に分かれて進撃してくると見越した後藤又兵衛基次は、奈良街道が狭隘の山間部を大坂平野に抜けてくる交通の要衝国分の辺りに出張して、まず敵の出鼻を挫く案を主張した。
結局この後藤の作戦が容認され、5月6日に道明寺と誉田で大和路方面を進んだ約3万5千人の徳川勢との合戦が起きた。この時の豊臣勢は濃霧のためとも言われるが非常に連携が悪く、平野から先発した後藤基次勢は単独で小松山に進出したため、伊達政宗らの率いる軍勢の集中攻撃を受けて壊滅し、基次は討死してしまう(その後到着した薄田兼相も討死)。
天王寺から進発した毛利勝永と真田信繁らの軍勢はさらに遅れた。最も遅く戦場に到着した真田勢が石川を渡河した伊達の先鋒片倉勢を撃退したが、豊臣方は同日起きた若江の合戦で木村重成が井伊直孝の軍勢と戦って討死し、八尾では長宗我部盛親の軍勢が藤堂高虎の軍勢を追い詰めたが援軍の井伊勢が到着したため後退したので、結局誉田と藤井寺に展開した軍勢も大坂城に撤収した。他方で徳川方も朝からの戦闘で疲労していたため、伊達政宗が主張して追撃を行わなかったとされる。
こうして、5月7日に大坂夏の陣最後の決戦である天王寺・岡山の戦いが起きるのであるが、後藤基次の作戦を容れたばかりに豊臣方は多くの部将を失ってしまった。結果的には、真田信繁の当初の作戦案通り、最初から天王寺と岡山に全兵力を展開して徳川勢に決戦を挑んだ方が良かったのではないかと筆者には思われる。
徳川家康は5月5日に京を出発したが、3日分の兵糧だけ用意すれば足りると豪語していたと言われている。結果は家康の予言通り、5月7日の夕方には大坂城が炎上したのだが、正午位から始まった決戦は日本史上最大の大乱戦であり、家康の旗本までも真田勢と毛利勢の攻勢で崩され、三方ヶ原の戦い以来、初めて家康の旗が後退する屈辱的な羽目に陥ったのである。
大久保彦左衛門の『三河物語』によると、戦後激怒した家康が、戦場でうろうろとふらついた旗奉行らを厳しく詮議したことが記されている。この詮議では、槍奉行であった彦左衛門も、その頑固な物言いから家康の逆鱗に触れている。それ程まで、5月7日の決戦で家康が苦戦したという証拠だろう。
この日の両軍の布陣を見てみると、豊臣方は、まず右翼に真田勢とその寄騎の約5千5百人の軍勢が茶臼山辺りに陣取っており、当初の構想では紀州街道と谷町筋をそれぞれ進んでくる徳川勢の大和路方面軍とその後備の紀州浅野勢合わせて約4万人の軍勢を迎え撃つ態勢を取ったようだ。
ところが、この伊達政宗やその娘婿松平忠輝(家康の六男)らの率いる徳川勢約4万人は、決戦当日ほとんど参戦していない。この怠慢は、前日の道明寺と誉田の戦いで消耗していたからという理由だろうか。徳川勢の統率が十分に取れていない印象を受ける。
豊臣方の中央は天王寺に陣取る毛利勝永とその寄騎の軍勢約6千5百人で、その左翼には木村勢や後藤勢の残存兵力4~5千人が布陣した。この天王寺口に進撃した徳川勢は、先鋒が本多忠朝と真田信吉(信繁の兄信之の長男)ら、第二陣が榊原康勝と小笠原秀政ら、第三陣が酒井家次ら、そして家康旗本という縦隊で行軍したようだ。先鋒から第三陣までがそれぞれ約5千人、家康旗本が約1万5千人位の兵力で、天王寺口の徳川勢で実戦に参加した兵力は豊臣勢の約1万人に対して約3万人である。両軍の兵力差は3対1位だったらしい。
統率上問題なのは、越前松平忠直の率いる約1万5千人の大軍が天王寺口の戦列を離れて茶臼山の真田勢攻撃に抜け駆けしたことだろう。結果的にこの越前勢の勝手な奮闘が徳川方の勝利をもたらしたわけだが、祖父の大御所家康の命令を無視した忠直の行動が天王寺口での徳川方の毛利勢、真田勢に対する総崩れの大苦戦を引き起こしたわけである。
奈良街道から続く岡山口を守る豊臣方は大野治房の率いる4~5千人の軍勢で、この方面に向かった徳川勢は先鋒が加賀前田利常らの軍勢約2万人、その後に前日八尾と若江で豊臣勢と戦った藤堂と井伊の軍勢約7千人、さらにその後に将軍秀忠の旗本約2万3千人が続いたので、岡山口の徳川勢は総兵力約5万人といったところか。ちなみに尾張徳川義直(家康九男)の軍勢約1万5千人は最後尾に付いており、当日の実戦には参加しなかった。
実戦に参加しなかったのは秀頼旗本の七手組も同様で、約1万4千人もの予備兵力を右翼の真田勢、中央の毛利勢、左翼岡山口の大野勢の背後に後置していたにも関わらず、秀頼自身が最後まで出馬しなかったためか、船場に布陣した明石全登勢と同様に戦機を逃して参戦できなかった。
結局、徳川勢でこの日実戦に参加したのが約10万人、豊臣勢で実戦に参加したのが約3万人程度と思われるから、やはり兵力差は3対1で徳川勢の圧倒的優勢であっただろう。
それでも天王寺口では家康旗本まで総崩れとなり、先鋒の本多忠朝が戦闘中に討死し、第二陣の小笠原秀政(決戦当日の夜死去)とその長男忠修ら大将クラスが何人も討死する程の徳川勢の大苦戦を招いたのは、毛利勝永の戦闘能力と天王寺口を進んだ徳川四天王の倅たちの戦闘能力の差に起因したものだろう。岡山口でも同様に、大軍の前田利常勢が大野治房勢に押しまくられて将軍秀忠の軍勢まで参戦する羽目に陥ったから、この日の前線部隊指揮官の能力では、豊臣方が勝っていたと筆者には思われる。
その上、徳川勢は参戦しなかった大名や抜け駆けもあって、統率が十分に取れていなかった印象が強い。そうした軍全体の緩みが紀州浅野勢の裏切りの風説を招き、背後の部隊から崩れるいわゆる「裏崩れ」を引き起こしたため、家康旗本さえも右往左往する醜態を招いたのではないだろうか。
この日の真田信繁勢は、確かに越前松平勢を突破して家康本陣まで突入することに成功しているが、その「真田日本一の兵」という薩摩の島津忠恒の高評価は、多分に当日の戦況の偶然性に左右された結果だったのではないだろうか。当日の決戦における勝敗の原因は、両軍の前線指揮官たちの能力の優劣差などではなく、兵力の圧倒的な格差にあったことは間違いないところであろう。
その証拠に、5月7日正午頃に始まった天王寺・岡山口の大坂夏の陣最終決戦は、わずか3時間後の午後3時には決着がついたと言われている。ちなみに大坂城とその城下町が炎上したのは、午後4時頃だったとも言われているのだ。