来年のNHK大河ドラマのタイトルは「真田丸」だそうである。慶長19(1614)年11月から12月に起きた大坂冬の陣における最大の戦いは、真田左衛門佐信繁が築いた真田丸を巡る攻防戦をきっかけとして12月4日に起きた、東惣堀(猫間川)から西惣堀(東横堀川)に向かって大坂城南端部上町台地を遮断するように文禄3(1594)年に構築された惣構空堀の八丁目口と谷町口での戦闘であった。
実は真田丸については、その位置や規模について現在まで絵図面以外に具体的な情報を得ることが中々困難である。残された絵図の多くは江戸時代の軍学者の想像の産物らしく、信用に足るものは少ないと言われている。
真田丸は、概ね豊臣期大坂城外郭辰巳門(東南)のある平野口から惣堀を隔てた一段高い畑のあった丘上に構築された大型の馬出(城への出入り口である虎口を防御するために外部に築かれた陣地)であったらしく、周囲に空堀を設け銃眼を切った塀を一重、柵を三重にかけ、石落しまで備えた簡易な櫓や井楼も作られていたと言われる。
通説では、東西北の三方を自然の川と湿地帯に囲まれた大坂城は難攻不落の天然の要害に位置していたが、古代の難波京以来の上町台地につながる南方部だけが唯一敵の侵入が容易で脆弱な地点であったため、惣構の守備を補強するために信繁が出丸を築いたとされる。
信繁が大阪に入城したのは同年10月上旬であったから、わずか1、2か月の短期間のうちに堅固かつ広大な出丸を構築したことになる。信繁は、恐らく今日のプレハブ建築工法のような手法を駆使したのではないだろうか。
それにしても、父安房守昌幸が慶長16(1611)年に紀州高野山麓の九度山で亡くなってからは家来も信州に帰国していたため譜代家臣もほとんど持たなかった信繁が、一獲千金を目論んで大坂城に集まった烏合の衆の牢人数千人を見事に訓練し、統率して真田丸に籠城し、しかも前田や井伊、越前松平など名立たる大大名の軍勢を撃破できたことには驚愕する。父とともに徳川の軍勢を2度の上田城合戦で破った際の実戦経験が物を言ったのだろう。
城郭考古学の研究で著名な千田嘉博・奈良大学学長らによる最近の真田丸に関する現地調査では、元広島藩主の所蔵していた図面集「浅野文庫諸国古城之図」の真田丸の史料が最も信頼出来るそうで、それによると、真田丸と惣構との間には冬の陣当時深い崖があったそうで、真田丸は大坂城の構えから孤立した死地に位置する巨大な別城であったと言う。
真田信繁は兵力劣勢である大坂方の事情を鑑み、敢えて死地に自らの率いる手勢を置くことで徳川勢の攻撃を正面から一手に引き受け、その他の大坂方の軍勢に大軍である徳川勢の側面を攻撃させようという作戦を構想したらしい。これは上田城合戦における父真田昌幸の作戦をほとんど踏襲したものと言ってよいだろう。
確かに真田丸の前面には当時小橋村篠山という小さな丘がある他は、一面広漠たる野原だったらしいから、この方面から敵の攻撃が集中することは当然想定することが出来ただろう。実際真田勢は、この篠山から加賀前田勢に鉄砲を打ちかけてその陣地構築を妨害したため、12月4日の真田丸の戦いが起こっている。
常に敵より劣勢を強いられた信州の小大名真田家の戦法は、巧妙に構築した馬出や城内に敵を引き込んで、敵の統率が乱れたところを伏兵で反撃するというものだったと思われる。
徳川勢のような諸大名連合の大軍勢はその致命的な弱点として、統率が十分に取れないことが当然考えられる。真田昌幸と信繁親子はその弱点をうまく突いて、自軍を勝利を導くことに長けていたのであろう。もちろん、真田勢の訓練と統率が行き届いていなければ、こうした乾坤一擲の反撃作戦が成功する見込みもないのであるが。
千田氏らの調査によると、秀吉生存当時大名屋敷が建ち並んでいた大坂城三の丸の南に位置する上町台地東部の現在大阪明星学園がある真田丸の辺りは、当時かなり深い谷が入り組んでいて、大坂城防衛の弱点などでは決してなく、むしろ要害の地点であったらしい。
それに比べると、惣構内の城下町であった上町から惣構の谷町口を出て四天王寺に南下する谷町筋と、その東にある八丁目口を出て四天王寺に南下する上本町筋の辺りは平坦な土地で、大坂城防衛のために寺町が築かれていた。
しかも両寺町の間には、平野郷から住民を移転させて平野町の街区が建設されており、冬の陣当時この辺りに陣取っていた藤堂高虎勢、越前松平忠直勢、そして井伊直孝勢は、街を焼き払わない限り市街戦で苦戦を強いられることになっただろう。
そう考えると、真田信繁が篠山を挟んで広大な野原に面した平野口南部に敢えて真田丸を築いた意味がはっきり見えてくると、筆者には思われる。徳川勢の大軍を誘い込むには、正しくこの真田丸の丘陵地が絶好の位置にあったからだ。
しかも、千田氏の指摘する通り、真田丸の背後が惣構の空堀と深い崖を隔てて必ずしも城内との連絡が容易でないとすれば、いわゆる背水の陣の死地に敵より劣勢な手勢を置いたことになるため、自軍の兵士たちに勇戦敢闘を促す効果も持っていたに違いない。
そう考えると、真田左衛門佐信繁は、長い九度山蟄居期間中、単に2度の上田城攻防戦における徳川勢との実戦経験だけではなく、兵書の軍学についても相当学んでいたことが垣間見られると筆者は考えるのである。
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