1812年6月、イギリスに対する大陸封鎖令を遵守しないロシアを懲罰するため、ナポレオンは50万人以上の大軍を率いてロシア遠征を開始した。ナポレオンの当初の作戦は国境付近まで進んで会戦に持ち込み、ロシアの野戦軍を撃滅する意図であった様である。スモレンスクよりさらに東方、よもや首都モスクワまで進撃するとはナポレオンは全く想定していなかったと思われる。
ナポレオンの大陸軍がロシア領奥深くまで引き込まれてしまったのは、当初のロシア軍総司令官バルクライ・ド・トーリが有名な焦土作戦で決戦を回避し後退し続けたためであるが、その消極的な作戦指導と国土の荒廃は皇帝アレクサンドル1世に嫌悪された。
そのため、バルクライは皇帝に解任されてしまい、1805年12月2日のアウステルリッツの戦いでも慎重な作戦指導を提言したミハイル・クトゥーゾフ元帥が代ってロシア軍総司令官に就任した。
クトゥーゾフは皇帝の意向を受けて、モスクワから西方約110kmのモスクワ川が街道を横切る地点に位置するボロジノ村付近の小丘陵地に野戦陣地を構築して、1812年9月7日、フランス軍を迎撃したのである。
レフ・トルストイの小説『戦争と平和』でもクライマックスの戦闘シーンで有名なこのボロジノの戦いでは、ナポレオンはアウステルリッツの戦いの時とは比べ物に成らない位拙劣な作戦指導を行った。つまり、各軍団に敵の野戦陣地に対する正面からの強襲攻撃を命令したのである。
実はこの日の戦闘開始以前に、大陸軍中で最優秀の軍団司令官であった第1軍団を率いるダヴー元帥が、ロシア軍左翼を迂回して南から攻撃する作戦を提案した。しかし、ナポレオンは、スモレンスクでロシア軍を容易に撤退させて取り逃がしてしまった苦い経験で懲りていたためか、このダヴーの妥当な提案を却下して、ロシア軍左翼部隊が守備する3つの突角堡に対する夜明けからの正面攻撃を命じたのである。
ロシア軍はこの突角堡の右の戦場中央部にラエフスキーが守る大多面堡も構築していたから、フランス大陸軍の正面攻撃は大損害を出すことを覚悟の上での極めて無謀な作戦だったと言えるだろう。
一説によると、ボロジノ戦い当日のナポレオンは風邪による高熱で極めて体調が悪かったため、普段の戦闘の時のような判断力を欠いていたとも言われている。兵力ではロシア軍約12万人に対して大陸軍約13万人でやや優勢であったが、野砲の数ではロシア軍は600門以上で600門に満たない大陸軍を圧倒していた。
そのためミュラ元帥の率いるフランス軍騎兵予備隊はロシア軍砲兵の連続砲撃で大きな被害を蒙っている。しかし、拙劣な正面攻撃作戦で大陸軍の歩兵軍団が大損害を出し、ダヴーが負傷して戦闘を指揮できなくなった後のミュラとネイ元帥の率いる第3軍団の攻撃で突角堡が占領でき、その結果ロシア軍の戦列を中央突破することに成功したのである。
このボロジノ戦いではフランス軍胸甲騎兵が突撃によって銃剣で武装したロシア軍の大隊密集方陣を撃破しているが、これは当時非常に困難な作戦だと考えられていたようだ。実際、火力に乏しい騎兵の突撃で歩兵大隊の密集方陣を突破することは難しかっただろう。
騎兵軍団司令官ミュラの信じ難い蛮勇の発揮や、ボロジノ村占拠後モスクワ川を渡河してロシア軍多面堡への攻撃で苦戦していたウージェーヌ公の率いる第4軍団を支援するため派遣されたコランクール将軍(攻撃中戦死した)が率いる胸甲騎兵が多面堡を迂回攻撃して占領するなど、この日の大陸軍では苦戦の連続だった歩兵軍団に比較すると騎兵部隊の大活躍が顕著であり、その結果ロシア軍を撤退させることが出来た模様である。
『孫子』九地篇では、敵国内部に深く侵入した「重地」では、自軍の結束が固まるから敵の迎撃では敗北しないという記述があるが、ボロジノの戦いにおける大陸軍騎兵部隊の活躍は、正しく「重地」における結束と士気の高さが影響した結果なのではないだろうか。
これに対するロシア軍騎兵は、コサックと軽騎兵の部隊がウージェーヌ公の第4軍団の左翼を大迂回してフランス軍後方の輜重部隊を襲撃しようと試みたものの、ナポレオンが派遣したグルーシー将軍の率いる軽騎兵部隊に簡単に蹴散らされて相当な損害を出している。
クトゥーゾフが皇帝に宛てた戦闘報告でも勝手な軽騎兵の攻撃が非難されているから、やはり両軍騎兵部隊の戦闘能力の差がボロジノの戦いの勝敗を決定付けた模様だ。それにしても、コサックは軽装の槍騎兵で規律を守らず無慈悲であったとされるから、戦場では余り役に立たなかったのではないだろうか。
とは言え、この日のナポレオンはミュラとネイの軍団の奮闘でロシア軍を中央突破した後も予備の近衛軍の投入を見送ってしまい、ロシア軍の堡塁からの後退と戦列建て直しを手助けしてしまうなど、戦術上のミスが目立った。その結果、クトゥーゾフ軍は5万人もの死傷者を出したもののモスクワへ撤退することが出来たのである。
ナポレオンの拙劣な作戦で大陸軍も約3万人の兵力を失ったため、ロシア軍を追撃する余力が無く、1週間後にモスクワを占領した。しかし、ロシア軍の放火でナポレオン軍の補給線は完全に崩壊し、冬将軍の到来とともに大陸軍は壊滅してしまったのであった。
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