2016年8月30日火曜日

ポール・ウォルフォウィッツ、米大統領選でヒラリー・クリントンに投票検討という記事に関する感想

 27日付のCNNの記事で、ブッシュJr政権期に2003年のイラク戦争開戦を主導したとされるネオコン(neo-conservative=新保守主義派)の代表格であるポール・ウォルフォウィッツ元国防副長官が、26日付の独誌シュピーゲルのインタビューの中で118日の米大統領選本選では共和党候補のドナルド・トランプ氏ではなく、民主党候補のヒラリー・クリントン氏に投票せざるを得ないだろうと言及したことを報じている。

そもそもウォルフォウィッツ氏は、力による正義と(民主主義や自由などの)価値の拡大を掲げる介入主義的な新保守主義の立場に依拠する論客であり、米国第一主義(America First=不介入主義)と反グローバリズムを掲げる原保守主義者(paleo-conservative、パレオコン)の立場に立つトランプ候補とは、同じ保守主義(共和党)陣営に属するとは言っても全く逆の思想的背景を持っているから、こんなことを言明するのも当然と言えるだろう。

 今回の米大統領選をめぐる政治的背景としてよく言われていることに、ポスト冷戦期に大いに進展したグローバリズム(つまり、ヒト、モノ、カネの自由移動による貧富の格差の拡大)の結果、米国内の白人中間層が没落して政治的な分極化が生じたことが挙げられる。

それは従来の大きな政府と小さな政府をめぐる民主党と共和党間の左右イデオロギーの対立によるものではなく、むしろ2008年のリーマン・ショック以降明らかになった資本主義社会、あるいはマーケット・エコノミーにおける「勝ち組」と「負け組」との間の激烈な感情的対立に伴うものなのである。

 トマ・ピケティが指摘したように、現在のアメリカでは上位1%の富裕層が富の4分の1を独占しており、「トランプ現象」を支持しているかつての白人中間層は今や非正規労働者等の低所得層に陥ってしまい、その怒りの矛先をヒラリー・クリントンに代表されるような東部のエスタブリッシュメントや、(不法)移民たち、さらには日本などの同盟国にさえ向け始めている。

 トランプの公約はわずか7つだけであり、彼の思想は保護貿易主義と言える。その主張はゼロ・サム思考に立っており、短期的な損得勘定を重視していて日本など相手側と長期的に信頼関係を構築していこうとする発想が見られない。そうした発想が、メキシコ政府に壁の建設費用を負担させるとか、日本の防衛費負担増大がなければ在日米軍を縮小・撤退させるといった安保タダ乗り論につながっていると言えるだろう。トランプの外交政策は通商問題に還元された単純かつ稚拙な内容で、ウォルフォウィッツのようなネオコンの立場から見れば、政策的に無意味で逆に危険な主張に映るものだろう。

 ただ、歴史的に見ると、もともとアメリカの保守主義の潮流は5つないし6つの派閥に分裂しており、いわゆるアメリカ版保守合同は、実は1981年のロナルド・レーガン政権誕生によってようやく実現したものに過ぎないのである。そして、それは反共主義だけを共通目標に掲げた「連合」であっただけなのだから、ポスト冷戦期に入るとたちまち瓦解して、再び以前のように分裂したというのが実態なのであろう。

 アメリカを代表する保守思想史の権威であるジョージ・ナッシュが、『中央公論』8月号に「アメリカ保守を破壊する“トランピズム”の意味」という講演録を発表している(同上、80-85頁)。ナッシュ博士によると、アメリカの保守主義は多様な潮流がつくる連合体であり、それは、外交では孤立主義の伝統に立ち、政府の介入を極力否定し市場経済と個人の自由を徹底追及する「リバタリアン」(libertarian)、道徳相対化に抵抗して宗教・倫理的な伝統への回帰を主張する「伝統主義者」(evangelical)、そして、左翼からの転向者も加わった「反共産主義者」が保守主流派であるということだ。

 筆者の見方では、ニクソンやキッシンジャーに代表される現状維持・勢力均衡重視の武力行使に慎重な外交姿勢を追及する、対外政策上の「保守穏健派」も存在すると考える。いずれにしても、「ネオコン」や「パレオコン」、さらには草の根宗教覚醒運動の「宗教右派」や「社会問題保守」などは、いずれも保守本流とは言い難く、保守派内の少数派に属しているようである。これらの各派閥の間で、1991年のソ連崩壊で反共産主義の結束が緩むとともに対立が再燃したとナッシュは分析する。

 問題は、トランプも属するとみられるパレオコンが、保守陣営の伝統にそぐわないナショナリズムとポピュリズムの融合体であるナショナリスト・ポピュリズム、すなわち、ナッシュの定義するところの「トランピズム」を保守主義に持ち込んで、白人中間層のエリート層に対する怒りを煽り、対外的に敵を求める危険な姿勢を助長していることである。

パレオコンの代表は92年の大統領予備選に参戦したパトリック・ブキャナンだが、2008年の世界金融危機以後明白になった、無制限のヒト、モノ、カネの移動とセーフティーネットを欠く貧富の格差拡大が、経済の停滞と高失業率、難民と移民の流入、そしてテロの危険の増大を解決できないエスタブリッシュメントに対する反対と反知性主義の台頭を招いていることが、90年代と現在の「トランピズム」の時代との相違であると言えるだろう。

 だが、11月の大統領本選を考えてみた場合には、有権者全体のうち約3分の1を占めるヒスパニックや黒人などのマイノリティ票を相当獲得できない限り(それはほぼ期待できないだろうが)、トランプがヒラリーに勝つ可能性は極めて小さいことも間違いないところだろう。トランプの支持基盤は白人男性の労働者層であるが、彼の女性蔑視発言もあって白人女性票の獲得もなかなか困難な状況ではないだろうか。

 トランプに対するヒラリー・クリントンとしては、2012年大統領選でのオバマと同様に非白人マイノリティ票の8割程度を獲得できることを前提に、11州あるともいわれる浮動票の多い激戦州(スウィング・ステイト)のいくつかを制することができれば、女性初の米大統領就任の道が開けてくるだろう。

ただ、彼女の国務長官時代の私用メール・アドレス利用問題が再燃する恐れも、いまだ否定できないと筆者は考える。我が国の安全保障上は、支離滅裂なトランプではなく、経験豊富なヒラリーが大統領選を制した方が勿論明らかに好ましいが、なお本選当日を迎えるまで予断を許さないことは日本人も心しておいた方がよいと思われる。