先日、新田義貞と足利尊氏の背水の陣に関する考え方について、筆者は投稿した。最近、室町時代の楽人である豊原統秋が永正9(1512)年応仁の乱による京の雅楽の衰退を憂えて著した楽書『體源鈔』に、「義貞軍記云事」が引用されていることを知り、その内容を確認してみた。
ちなみに豊原家は、代々笙の演奏を家業とする昇殿を許されない地下の楽家である。篳篥の東儀家などと同じ役職(但し、江戸時代の豊原家は京都方、東儀家は天王寺方で所属した楽所は異なる。いわゆる三方楽所のもう1つは南都方)である。
すると、『體源鈔』に背水の陣についても『義貞記』が引用されており、「陣可ㇾ取事」として「我身多勢の時は、山河を前にあて、無勢の時は、山河を後に当と云へり、但是も事の体に随う可き歟、一篇之義を不ㇾ可ㇾ存」云々と有った。
確かに、背水の陣の起源となった韓信が趙を攻撃した時起きた井陘(河北省)の戦いにおいても、韓信軍は劉邦の本軍に援軍を送ったために趙軍と比べて著しく無勢であった。そこで韓信は、『孫子九地篇』の教え通り、兵を死地に置くために川を背にして退路を断つ陣地を構築することで、兵たちを勇戦敢闘させて大勝利を得たのだった。
この故事からわかることは、原則として背水の陣は、兵力劣勢の方が陣地を必死に守り勝つための戦法であったという点だ。兵力が敵より優勢な場合には、むしろ川を前に当てて戦うのが鉄則だったようである。とすれば、寿永3(1184)年正月の木曽義仲や、承久の乱の時の京方のように、兵力劣勢な側が宇治川と勢多川を前に防戦して忽ち敗北したのも肯けるところであろう。
しかし、なぜ『體源鈔』のような超一級の楽書に、わざわざ軍陣の作法が記されているのか。実は、豊原氏は源氏、特に足利家の笙の伝授に大きく関わっていたからである。
笙の伝授に関して最も有名なのは、後三年の役で苦戦する兄義家の援軍に加わるために官職を捨てて奥州に向かった源義光(甲斐武田氏の祖)が、逢坂関(『古今著聞集』では関東の足柄山)で追従してきた豊原時元(『古今著聞集』ではその息子時秋)に秘曲「太食調入調」を伝授したという逸話であろう。
源氏、特に足利尊氏の武功を称える『源威集』では、義光が奥州の戦場で豊原某に「太食調入調」ではなく、笙と舞の最秘曲である「蘭陵王入陣曲」の「荒序」を伝授(御灌頂)したことに話がすり替わっている。
実は尊氏とその息子で初代鎌倉公方の基氏は、いずれも豊原氏嫡流からこの「蘭陵王荒序」を相伝した笙の名手であったのだ。尊氏は将軍家天神講で毎月衆人の前で笙を演奏していたし(三島暁子「将軍が笙を学ぶということ-南北朝・室町時代の足利将軍家と笙の権威化」『東京大学史料編纂所研究紀要』第20号、2010年3月、27頁)、基氏は以前述べた貞治2(1363)年8月に芳賀入道禅可を破った武州苦林野(巌殿山)合戦の前夜、雨中の陣中でわざわざ笙を持ち出して「荒序」を演奏しているほどだった。
この雅楽屈指の秘曲「荒序」であるが、6世紀中頃活躍した北斉の蘭陵武王、高長恭の北周との戦いにおける武勇と「音容兼美」といわれたその眉目秀麗さを称えて作られた、勇壮かつ優美な管絃および舞楽である「蘭陵王入陣曲」中の1つの楽章であると言ってよい。
高長恭は主君である北斉後主に疎まれ、573年に毒薬を賜って享年30代前半の若さで自殺に追い込まれた、我が国で言えばちょうど源義経のような人物である。
『體源鈔』によると、「荒序」は「破陣曲事」として、「陣中向ㇾ敵用ㇾ之、又打取て破陣之曲にも用、悉天下静謐をしても用」云々と記されており、要するに敵を調伏し戦勝を祈願するための曲であって、足利尊氏や基氏のような武家の大将がわざわざ戦陣で演奏するに相応しい曲であったのだ。
事実、弘安4(1281)年8月の蒙古再襲来に際して当時の亀山上皇は、石清水八幡宮において異国降伏報賽の一切経供養と「荒序」の演奏を命じているし、鎌倉幕府打倒を企図した後醍醐天皇は、身分の低い楽人でもないのに、自ら何度も「荒序」を上演したと言われている。
このように、足利氏歴代にとって笙の演奏、とりわけ「荒序」の相伝は、戦場における将軍としての自らの権威付けにとって不可欠な伝統芸の継承であったというわけである。