2015年6月4日木曜日

源氏の軍陣と、笙の秘曲「蘭陵王荒序」の演奏

 先日、新田義貞と足利尊氏の背水の陣に関する考え方について、筆者は投稿した。最近、室町時代の楽人である豊原統秋が永正9(1512)年応仁の乱による京の雅楽の衰退を憂えて著した楽書『體源鈔』に、「義貞軍記云事」が引用されていることを知り、その内容を確認してみた。

ちなみに豊原家は、代々笙の演奏を家業とする昇殿を許されない地下の楽家である。篳篥の東儀家などと同じ役職(但し、江戸時代の豊原家は京都方、東儀家は天王寺方で所属した楽所は異なる。いわゆる三方楽所のもう1つは南都方)である。

 すると、『體源鈔』に背水の陣についても『義貞記』が引用されており、「陣可ㇾ取事」として「我身多勢の時は、山河を前にあて、無勢の時は、山河を後に当と云へり、但是も事の体に随う可き歟、一篇之義を不ㇾ可ㇾ存」云々と有った。

 確かに、背水の陣の起源となった韓信が趙を攻撃した時起きた井陘(河北省)の戦いにおいても、韓信軍は劉邦の本軍に援軍を送ったために趙軍と比べて著しく無勢であった。そこで韓信は、『孫子九地篇』の教え通り、兵を死地に置くために川を背にして退路を断つ陣地を構築することで、兵たちを勇戦敢闘させて大勝利を得たのだった。

 この故事からわかることは、原則として背水の陣は、兵力劣勢の方が陣地を必死に守り勝つための戦法であったという点だ。兵力が敵より優勢な場合には、むしろ川を前に当てて戦うのが鉄則だったようである。とすれば、寿永3(1184)年正月の木曽義仲や、承久の乱の時の京方のように、兵力劣勢な側が宇治川と勢多川を前に防戦して忽ち敗北したのも肯けるところであろう。

 しかし、なぜ『體源鈔』のような超一級の楽書に、わざわざ軍陣の作法が記されているのか。実は、豊原氏は源氏、特に足利家の笙の伝授に大きく関わっていたからである。

 笙の伝授に関して最も有名なのは、後三年の役で苦戦する兄義家の援軍に加わるために官職を捨てて奥州に向かった源義光(甲斐武田氏の祖)が、逢坂関(『古今著聞集』では関東の足柄山)で追従してきた豊原時元(『古今著聞集』ではその息子時秋)に秘曲「太食調入調」を伝授したという逸話であろう。

 源氏、特に足利尊氏の武功を称える『源威集』では、義光が奥州の戦場で豊原某に「太食調入調」ではなく、笙と舞の最秘曲である「蘭陵王入陣曲」の「荒序」を伝授(御灌頂)したことに話がすり替わっている。

 実は尊氏とその息子で初代鎌倉公方の基氏は、いずれも豊原氏嫡流からこの「陵王荒序」を相伝した笙の名手であったのだ。尊氏は将軍家天神講で毎月衆人の前で笙を演奏していたし(三島暁子「将軍が笙を学ぶということ-南北朝・室町時代の足利将軍家と笙の権威化」『東京大学史料編纂所研究紀要』第20号、2010年3月、27頁)、基氏は以前述べた貞治2(1363)年8月に芳賀入道禅可を破った武州苦林野(巌殿山)合戦の前夜、雨中の陣中でわざわざ笙を持ち出して「荒序」を演奏しているほどだった。

 この雅楽屈指の秘曲「荒序」であるが、6世紀中頃活躍した北斉の蘭陵武王、高長恭の北周との戦いにおける武勇と「音容兼美」といわれたその眉目秀麗さを称えて作られた、勇壮かつ優美な管絃および舞楽である「蘭陵王入陣曲」中の1つの楽章であると言ってよい。

 高長恭は主君である北斉後主に疎まれ、573年に毒薬を賜って享年30代前半の若さで自殺に追い込まれた、我が国で言えばちょうど源義経のような人物である。

 『體源鈔』によると、「荒序」は「破陣曲事」として、「陣中向ㇾ敵用ㇾ之、又打取て破陣之曲にも用、悉天下静謐をしても用」云々と記されており、要するに敵を調伏し戦勝を祈願するための曲であって、足利尊氏や基氏のような武家の大将がわざわざ戦陣で演奏するに相応しい曲であったのだ。

 事実、弘安4(1281)年8月の蒙古再襲来に際して当時の亀山上皇は、石清水八幡宮において異国降伏報賽の一切経供養と「荒序」の演奏を命じているし、鎌倉幕府打倒を企図した後醍醐天皇は、身分の低い楽人でもないのに、自ら何度も「荒序」を上演したと言われている。

 このように、足利氏歴代にとって笙の演奏、とりわけ「荒序」の相伝は、戦場における将軍としての自らの権威付けにとって不可欠な伝統芸の継承であったというわけである。

2015年6月3日水曜日

イランとの核交渉に関する「共同行動計画」(ジュネーブ暫定合意)に対する評価

  2013年11月24日イランとP5プラス1(国連安保理常任理事国5カ国とドイツ)の間で妥結されたジュネーブ暫定合意による「合同行動計画」の内容は多岐にわたるが、イランから引き出すべき譲歩における重要なポイントは、イランの核爆弾製造を促進しかねない5パーセントを超えるウラン濃縮活動をどの程度停止させるか(論点1)という点と、プルトニウム抽出疑惑がもたれているアラク重水炉を稼働させるかどうか(論点2)という2つの点であった[1]

 論点1については、以下の3つの譲歩がイラン側によって合意された。すなわち、まず第1に、イランがすでに保有している医療用と主張する純度20パーセントの濃縮ウランを兵器化できない酸化物に転換するか、あるいは純度水準を何分の1かに希釈すること。第2に、5パーセントを超える純度にウランを濃縮できる遠心分離機を遮断すること。第3に、イランはいかなる新しい遠心分離機も設置せず、旧式の遠心分離機を新しい装置に転換しないこと。同時に、イラン国内にある濃縮施設の数を増やさないこと、である[2]

 この譲歩によって、イランは純度5パーセントを超えるウラン濃縮活動を、短くとも暫定合意の有効期間である6か月間は全面的に停止する義務を負ったことになる。ただし、その見返りとしてP5+1は(NPT4条によって認められた)イランが平和的な原子力にアクセスする権利を承認したのである[3]。この承認に対する評価が、後述するようにイスラエル国内で割れている問題がある。

 次に、論点2のアラク重水炉の稼働問題については、イラン側は暫定合意の期間中、同重水炉での作業を一切進展させないことを約束した[4]。ただし、逆に言うと、イランは暫定合意期間の半年間、アラクの重水炉を廃棄ないし廃棄を開始しないという言質をP5+1から得たことになる。アラクでイランが建設中の重水炉の取り扱いについては、フランスが協議の過程において非軍事利用での合理性を欠くものとしてイラン側に全面的な解体を要求し、アメリカもこれに同調したため、イラン側がこの要求に対する譲歩として同重水炉に対するIAEAの査察の大幅強化を受け入れるとともに、暫定合意期間中に稼働させないことを約束した経緯があった[5]

 P5+1側が認めた経済制裁緩和は、約60~70億ドルのイランに対する救済措置に相当するものである。その主要な内容は、イランの石油化学輸出品と金・貴金属取引に関する制裁の停止、イラン自動車産業に影響する制裁の大半の停止、レーダーなど軍事関連部品を除く航空機部品に対する制裁の緩和、海外からの送金が停止されている原油輸出代金約42億ドルをイランが受領できるように欧米諸国が作業を開始すること、そして、制限されているイランの資金について、欧米側の一定の監視の下で医療機器の購入など人道目的のためにイランがアクセスできるよう改善すること、である[6]

 ジュネーブ暫定合意については、その内容を肯定的に評価する意見と、その効果を懐疑的に見る意見がイスラエル国内で対立している。まず肯定的な意見としては、例えば、シモン・ペレス元首相やアモス・ヤドリン前軍情報部長が今後半年間にP5+1とイランが交渉で詰める恒久的合意の詳細の方を重視して、ジュネーブ暫定合意を一定の成果と見なす意見がある[7]

 これは、イランのブレイク・アウト(暫定合意離脱)、すなわち、イランが兵器級のウラン濃縮を再開する決断を選択した場合には暫定合意がない場合よりも数週間ないし数か月間長い期間を必要とすることから、国際社会が時間を稼ぐことができるとともに、イランの合意離脱の試みを察知することができるとする、P5+1側の評価をほぼ承認する見解である。

 一方、懐疑論としては、例えば、ネタニヤフ首相がジュネーブ暫定合意を「歴史的な失敗」と非難した20131124日の閣議の席で、アヴィグドール・リーバーマン外相が、ジュネーブ暫定合意について「1979年のイスラーム革命以来となる、イランの大いなる外交的勝利である」と語ったとされる[8]

 このジュネーブ暫定合意をめぐる是非の論争は、ネタニヤフ現政権の採用してきた対イラン強硬政策の効果の有無と、外交を中心として今後イスラエルの採るべき政策オプションを変更するかどうかの論点に及んでいる。従来の政策を肯定する意見として、例えばINSS研究員のヨエル・グザンスキーは、イランに与えたネタニヤフ政権の脅威と抑止的行動の結果、イランが協議のテーブルに着く決断をしたと見なして評価している[9]

 一方、ネタニヤフ政権の従来の政策が失敗した点として、過度にアメリカのオバマ政権などと対立的になりすぎたために、イランではなくむしろイスラエルの国際的な孤立を招いてしまい、現状で味方はサウジアラビアと米国議会だけになってしまったと評価する見方もある[10]

 しかし、いずれの立場に立つにせよ、P5+1とイランの今後の交渉でもたらされるはずの最終合意において、イランのウラン濃縮計画を廃棄させない限りイスラエルにとって実存的脅威となるとする点で双方の考えは一致している[11]。イスラエル国内では、核開発を放置すればイランが核武装に向かうことは必然であると見なされているのである[12]

 そうした現状の共通認識を踏まえて、イスラエルの外交・安全保障コミュニティにおいては、2009年の政権発足以来ネタニヤフ首相を中心に展開してきた対イラン強硬姿勢のアピールが、今回のジュネーブでの協議の過程でほとんど影響を及ぼさなかった点が反省されつつある。


[1] “Iran nuclear deal: Key points,” BBC News Middle East, 20 January 2014, <http://www.bbc.com/news/world-middle-east-25080217>, accessed on 17 March 2014.
[2] Ibid.
[3] Jonathan Marcus, “Pessimism pervades Iran nuclear deal talks,” BBC News Middle East, 18 February 2014, <http://www.bbc.com/news/world-middle-east-26243520>, accessed on 17 March 2014.
[4] Ibid.
[5] 「欧米とイラン、核協議で合意―核兵器級のウラン濃縮停止」『ウォール・ストリート・ジャーナル』日本語ウェブ版、20131125日、<http://jp.wsj.com/article/SB10001424052702303735804579218651491373932.html>2014312日アクセス。
[6] 「イランと主要6カ国の核協議の合意内容」『ウォール・ストリート・ジャーナル』日本語ウェブ版、20131125日、<http://jp.wsj.com/article/SB10001424052702303735804579218580728133324.html>2014312日アクセス。
[7] 「イスラエルで外交路線めぐる論争―イラン核協議の合意受け」『ウォール・ストリート・ジャーナル』日本語ウェブ版、20131125日。
[8] 同上。“‘Historic mistake’: Netanyahu says world is 'more dangerous place' after Iran deal,” Russia Today, November 24, 2013.
[9] 「イスラエルで外交路線めぐる論争―イラン核協議の合意受け」『ウォール・ストリート・ジャーナル』日本語ウェブ版、20131125日。
[10] 同上。
[11] 同上。
[12] Shmuel Even, "The Israeli Strategy against the Iranian Nuclear Project," p. 8.

2015年6月2日火曜日

労働者派遣法改正は、就職氷河期世代の救済案をセットにしなければ将来に禍根を残す。

今国会で審議されている労働者派遣法改正案の主要目的は、最長3年の派遣期間制限を事実上撤廃することにあり、同法案が可決されれば、企業側としては雇用の調整弁としての派遣労働者の活用をさらに行いやすくなるはずである。

 この改正案が成立すれば、短期的な企業の国際競争力の向上と人件費の圧縮に大いに寄与することは確かであろう。その意味では、アベノミクスの成長戦略を後押しする効果が期待できる。

 しかし、他の先進国と異なる日本の労働市場の顕著な特徴として、1993年から概ね10年ほど続いた就職氷河期世代の大量の非正規雇用者を抱えている大問題がある。彼らは現在34歳から44歳くらいの中高年齢層に到達しており、もはや正規雇用への転換が望めない年齢になりつつある。

 NIRA(総合研究開発機構)が2008年4月に出した研究報告書「就職氷河期世代のきわどさ 高まる雇用リスクにどう対応すべきか」によると、就職氷河期世代の非正規雇用者は100万人以上の規模で残存しており、彼らが低賃金水準のまま十分な年金が確保されないままに退職後に生活保護受給状態に陥ったとすると、国は20兆円程度の追加的財政負担を強いられると試算されている(同上、3頁)。

 とすると、今回の派遣法改正は、こうした大量の就職氷河期世代の非正規雇用状態を永続化させる効果をもたらしかねないのではないだろうか。短期的には日本経済の競争力回復にとって効果があったとしても、20年から30年後に国の財政を逆に悪化させる可能性があるのでは、もう少し慎重に考える必要があるだろう。

 例えば、正規雇用者に対するOJT中心の日本企業の能力開発支援制度の下では、非正規雇用者が正規雇用への転換を望んで転職市場に参入しても、それまでの職務経験からは、自己の能力を十分に開発できるような雇用環境に置かれていなかったと思われる。

 また、企業サイドが非正規雇用者を中途で正規雇用者として採用しようとしても、そもそも客観的な能力評価システムがないために情報の非対称性の問題から採用時の評価が困難であるし、日本の未発達な外部労働市場の状態では、就職氷河期世代の正規雇用への転換を政策的に支援することは恐らく困難であろう(同上、15頁)。

 そういうわけで、今回の労働者派遣法改正案が成立して就職氷河期世代が大量に非正規雇用に常態的に留まる結果を招くと、日本は恐らく将来、彼らの貧困化の問題に直面せざるを得ない羽目に陥るだろう。

 非正規雇用者の多数派である既に中高年齢化しつつある就職氷河期世代の人たちに対しては、法案にあるような派遣元による能力開発支援や派遣先への直接雇用依頼だけでは、彼らの正規雇用への転換を促進することはできないだろう。

 おりしも来年1月からマイナンバー制度の導入が始まるが、就職氷河期世代の貧困化を救済するために、我が国も給付付き税額控除制度の導入を本格的に検討すべき時期かもしれない。

もちろん、給付付き税額控除制度を導入するためには、マイナンバーによる名寄せなど税務当局の事務量の厖大化にどう対処するか、源泉分離課税が認められている国民の金融資産所得を税務当局が正確に捕捉するシステムをいかに確立するかとか、また事業所得者と農林漁業所得者の所得捕捉率の向上(いわゆる「クロヨン(964)問題」)などの様々な困難な検討課題が残されているのも事実である。

 しかし、給付付き税額控除制度をうまく設計できれば、増大する非正規雇用者の労働インセンティブの向上や、貧困率の改善などの政策効果が期待できることも確かであろう。

参考文献 
OECD日本カントリーノート「格差縮小に向けて なぜ格差縮小は皆の利益となり得るか」2015年5月21日、

2015年6月1日月曜日

南北朝時代の名将の条件-河川防御態勢と背水の陣

 先日の投稿で、箱根・竹ノ下の戦いにおける新田勢の緩慢な機動と、足利尊氏の足柄峠突破という優れた戦術眼について筆者は述べた。しかし、この戦いの直後、実は新田義貞は名将の誉れ高い逸話を残している。

 それは官軍の京都への撤退途中における、天竜川の渡河作戦においての義貞の判断に関するものだ。天竜川は浅瀬が無く、敗軍とは言え大勢であった義貞率いる官軍は馬で渡ることが不可能であった。在地の人々は戦乱を逃れて山林に避難しており、船はあちこちに置いてあった。

 義貞は軍勢を船で渡すと時間がかかるので、味方を1人も残さず撤退させるために、急遽浮橋(舟橋)を架けることを現地住民に厳命したのである。この橋を架けるのに3日間を要したという。

 義貞が見事な判断を下したのは、その後の対応である。義貞は全軍が1人残らず渡ったのを見届けた後最後に自分が渡河したのだが、軍兵たちが橋を切るように下知したのを聞いて橋の途中から引き返し、渡し守に次のように命じたというのだ。

 すなわち、義貞は、「敗軍の自分たちでさえ架けて渡れる橋を切り落としても、勝ちに乗じる足利勢がそれを架け直すのは容易であろう。敵の大軍に立ち向かう際に、小勢の味方が退かないように謀として川を背後にして橋を切ることこそ、武略の手立てと言うものだ。自分が敵にも架けられる橋をわざわざ落として、慌てふためいて落ちて行ったと言われれば末代まで口惜しい。橋はそのまま警護しておいて、敵を渡せ」と言ったとされる。韓信の背水の陣の故事を踏まえた判断である。

 これを聞いた人々は皆感涙して、「弓矢の家に生まれれば、誰もがこのように有りたいものである。疑い無き名将だ」と感心したと『梅松論』に記されている。実はこの逸話は、足利尊氏の側近くに仕えていた結城直光が残した軍記物と言われる『源威集』にも、全く同様の記述がある。つまり、足利方でも、この時の新田義貞の堂々たる撤退ぶりが感銘を与えていたわけだ。

 ところが太平記では、この時新田義貞は何者かに橋を切り落とされて溺れそうになったが危うく助かり、結果的に追撃してくる足利勢の渡河が妨害されたように書かれている。これでは義貞は、名将の誉れの欠片もない凡将となってしまうだろう。太平記には、こういう意図的な書き換えが多いので、必ずしも信用できないのである。

 『源威集』では、この天竜川渡河における新田義貞の故事の直前に、文和4(1355)年2、3月に激戦が展開された東寺合戦の際に、足利尊氏が、南朝と結んで京都を占領していた足利直冬(実は尊氏の庶長子で直義の養子)や山名時氏の軍勢に対し、近江から反撃に出て勢田川を渡河した際の逸話も併せて載せている。

 この時尊氏は、近江守護の佐々木道誉に命じて勢田川を渡河するための舟橋を架けさせたのであるが、軍を渡河させた後に自分が渡ると、折角架けた橋を落とすように命じたというのだ。

 この時、部下の中には、自軍が撤退した場合に備えて橋を落とさず道誉に警護させておくべきだと進言した者もいたが、尊氏は背水の陣の故事を引いて、味方に退く気持ちを持たせないために、敵方に接近されて落とされ恥辱を受ける可能性がある橋を自ら落とすのだ、と述べたとされている。

 天竜川撤退作戦の際の新田義貞の判断とは一見すると正反対の足利尊氏の判断であるが、『源威集』では、どちらも武門の名家河内源氏の名将による背水の陣の故事を踏まえた渡河作戦をめぐる好判断として、同様の位置付けで記載されていることが面白い。

 確かに歴史上の京都防衛作戦では、最後は宇治川、勢田川を前にして橋板を外し、柵や逆茂木を設けて矢戦で防戦するのが常道ではあったが、それで都の防衛に成功した試しはほとんど無い。むしろ、川を渡って背水の陣を敷き、侵攻する敵との決戦を挑む勇気を持った方が却って有効であったのかもしれない。 

NHK戦後70年ニッポンの肖像第2回 「"バブル"と"失われた20年"」の感想

 昨夜21時からNHK総合テレビで、戦後70年ニッポンの肖像第2回「 "バブル"と"失われた20年"」が放送された。

 放送では、ディスコで踊るワンレングス、ボディコンの女性達の映像が流れていたが、当時大学院生だった筆者でさえ、高校時代の同級生に誘われて六本木や渋谷のディスコによく行ったものである。

 まあ自分が誘われたのは、女性ナンパ目的の慶應大学経済学部出の同級生に、主として合コンの員数合わせとして呼ばれたのに過ぎないのであるが。それにしても、バブル当時の合コンでは、JALのフライト・アテンダントさんや宝塚の女優の卵さん達が出てくることもあって、何だが大学院生の身分には眩しすぎる程の経験をした記憶がある。

 ともかく、とても派手で綺麗な女性が大勢いたからだ。実は筆者の妻も、そういうバブル期女性の典型の1人だったらしいのである。確かに、今でも妻は投資好きであるし、その消費性向は貯蓄性向よりも著しく強い感じがする。

 それはともかく、興味深かったのは80年代のマネー経済に十分に対応できず、財テクに邁進してバブル崩壊後は不良債権処理に苦しむ企業の姿である。番組では阪和興業の事例が取り上げられていたが、当時東京銀行の一銀行員であった筆者も、阪和興業の名前は大口取引先としてよく記憶に残っている。ああ、当時毎日頻繁に繰り返された外為取引は、阪和興業さんの財テクの一環だったのだ、と改めて思ったのである。無軌道な金融緩和と企業の財テクのリスクが、同番組ではよく表わされていた。

 1985年9月のプラザ合意でアメリカの貿易赤字を背景にドル安誘導が決まったのだが、この当時の日米貿易摩擦は深刻で、アメリカが日本に対して対米輸出抑制のために円高誘導と金融緩和を求めてきたのであった。日本が金融緩和を行うと景気が上向いて内需が拡大し、アメリカ製品を日本に輸出できるというわけである。しかし金融緩和の際に日銀が公定歩合を利下げして、市場に出回る資金量を増やしたため、地価の上昇が加速した。このメカニズムが、日本のバブル経済を引き起こしたのである。

 バブル崩壊後の「失われた20年」と呼ばれる日本の長期経済停滞に際して、崩壊直後に、日本経済界を代表する企業のトップ達がこの事態を明治維新、1945年の敗戦に次ぐ日本の第三の転換点と位置付けて、その対応について議論を重ねていたことも面白かった。

 オリックスの宮内義彦さんが、現在に繋がる日本型終身雇用の見直しなど構造改革の推進を提唱していたこと、それとは逆に元経団連会長の今井敬さんが、日本型雇用を維持しようと努力されていたことが印象に残った。筆者個人としては、国内消費を向上させるために日本型雇用を維持することになお意義があると考えているが、さすがに日本を代表する経営者とも言われる方々は、大所高所に立って物事を考えているなあ、という感想を持ったのである。