先日の投稿で、箱根・竹ノ下の戦いにおける新田勢の緩慢な機動と、足利尊氏の足柄峠突破という優れた戦術眼について筆者は述べた。しかし、この戦いの直後、実は新田義貞は名将の誉れ高い逸話を残している。
それは官軍の京都への撤退途中における、天竜川の渡河作戦においての義貞の判断に関するものだ。天竜川は浅瀬が無く、敗軍とは言え大勢であった義貞率いる官軍は馬で渡ることが不可能であった。在地の人々は戦乱を逃れて山林に避難しており、船はあちこちに置いてあった。
義貞は軍勢を船で渡すと時間がかかるので、味方を1人も残さず撤退させるために、急遽浮橋(舟橋)を架けることを現地住民に厳命したのである。この橋を架けるのに3日間を要したという。
義貞が見事な判断を下したのは、その後の対応である。義貞は全軍が1人残らず渡ったのを見届けた後最後に自分が渡河したのだが、軍兵たちが橋を切るように下知したのを聞いて橋の途中から引き返し、渡し守に次のように命じたというのだ。
すなわち、義貞は、「敗軍の自分たちでさえ架けて渡れる橋を切り落としても、勝ちに乗じる足利勢がそれを架け直すのは容易であろう。敵の大軍に立ち向かう際に、小勢の味方が退かないように謀として川を背後にして橋を切ることこそ、武略の手立てと言うものだ。自分が敵にも架けられる橋をわざわざ落として、慌てふためいて落ちて行ったと言われれば末代まで口惜しい。橋はそのまま警護しておいて、敵を渡せ」と言ったとされる。韓信の背水の陣の故事を踏まえた判断である。
これを聞いた人々は皆感涙して、「弓矢の家に生まれれば、誰もがこのように有りたいものである。疑い無き名将だ」と感心したと『梅松論』に記されている。実はこの逸話は、足利尊氏の側近くに仕えていた結城直光が残した軍記物と言われる『源威集』にも、全く同様の記述がある。つまり、足利方でも、この時の新田義貞の堂々たる撤退ぶりが感銘を与えていたわけだ。
ところが太平記では、この時新田義貞は何者かに橋を切り落とされて溺れそうになったが危うく助かり、結果的に追撃してくる足利勢の渡河が妨害されたように書かれている。これでは義貞は、名将の誉れの欠片もない凡将となってしまうだろう。太平記には、こういう意図的な書き換えが多いので、必ずしも信用できないのである。
『源威集』では、この天竜川渡河における新田義貞の故事の直前に、文和4(1355)年2、3月に激戦が展開された東寺合戦の際に、足利尊氏が、南朝と結んで京都を占領していた足利直冬(実は尊氏の庶長子で直義の養子)や山名時氏の軍勢に対し、近江から反撃に出て勢田川を渡河した際の逸話も併せて載せている。
この時尊氏は、近江守護の佐々木道誉に命じて勢田川を渡河するための舟橋を架けさせたのであるが、軍を渡河させた後に自分が渡ると、折角架けた橋を落とすように命じたというのだ。
この時、部下の中には、自軍が撤退した場合に備えて橋を落とさず道誉に警護させておくべきだと進言した者もいたが、尊氏は背水の陣の故事を引いて、味方に退く気持ちを持たせないために、敵方に接近されて落とされ恥辱を受ける可能性がある橋を自ら落とすのだ、と述べたとされている。
天竜川撤退作戦の際の新田義貞の判断とは一見すると正反対の足利尊氏の判断であるが、『源威集』では、どちらも武門の名家河内源氏の名将による背水の陣の故事を踏まえた渡河作戦をめぐる好判断として、同様の位置付けで記載されていることが面白い。
確かに歴史上の京都防衛作戦では、最後は宇治川、勢田川を前にして橋板を外し、柵や逆茂木を設けて矢戦で防戦するのが常道ではあったが、それで都の防衛に成功した試しはほとんど無い。むしろ、川を渡って背水の陣を敷き、侵攻する敵との決戦を挑む勇気を持った方が却って有効であったのかもしれない。
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