上記のとおり、今年5月16日に、英仏露三国間でオスマン帝国崩壊後の勢力圏分割を規定した悪名高いサイクス・ピコ協定が締結されてから、ちょうど100周年を迎える。このサイクス・ピコ協定は、あのIS(イスラーム国)がその打破を大々的に掲げているように、欧米諸国が主導する中東近代国家体制と国境線の線引きの大枠を定めた秘密協定であった。
ある意味では、この秘密協定などによって残された未処理の問題が再燃したため、2010年末のチュニジアにおけるジャスミン革命から始まったアラブの春の悪影響がシリア内戦とイラクでの宗派間抗争の混乱を引き起こした。その破綻国家化の間隙から生じた力の空白をついて、ISが両国にまたがる自称「カリフ国」の領域支配を確立したのである。
上記の未処理で残された問題とは、1つはクルド人の民族自決であり、もう1つはセクトあるいは宗派間の適切な勢力均衡確立の問題である。そして、このことは、第1次世界大戦敗戦国であったオスマン帝国の領土に関する戦後処理問題が、欧米諸国対ISを含む非国家主体との対テロ非対称戦争という形に転換して再燃したものであるとも考えることが出来るだろう。
地政学的視点に立てば、ISが台頭したレバント(シリア)とメソポタミア(イラク)の一部は、ユーラシア・アフリカ世界島のリムランド(縁辺部)三日月地帯の中の、さらに山岳・高原勢力(イランおよびトルコ)と砂漠勢力(アラビア半島およびナイル流域を除くエジプト)に囲まれたハートランドである「肥沃な三日月地帯」を形成している。
したがって、マッキンダーの有名な言葉を模倣して述べれば、「肥沃な三日月地帯を支配する者はレバントとメソポタミアを支配し、レバントとメソポタミアを支配する者は中東を支配する」という命題を一応提示することが出来るだろう。これが第1の論点である。
実際、人口稠密だが各勢力が地域ごとに分断されていた山岳・高原勢力であるイランとトルコは、肥沃な三日月地帯を支配した統一勢力、例えばアレクサンドロス大王や古代ローマ帝国、預言者ムハンマド死後のイスラーム帝国、あるいはモンゴル帝国の侵略などによって、度々痛い目にあわされてきた屈辱の歴史を持っている。
さて、アラブの春以後の中東情勢を一言で評すれば、この中東ハートランドの混乱に乗じてISが台頭するとともに、イランとサウジアラビアの両国が中東ハートランドの支配権をめぐって激しい鍔迫り合いを展開しているということになるだろう。このISの台頭と鍔迫り合いが、欧米主導で建国された中東近代国家であるイラクとシリアの国境線を融解させ、両国を破綻国家化させている根本原因なのである。
だが、筆者の見るところ、シリアについてはその破綻国家再建と国境線の現状維持は極めて困難だ(つまり各々支配者が異なる3ないし4つの地域に今後分断されるだろう)が、少なくともイラクについてはクルド人の民族自決とセクト間の適切な勢力均衡の確立という2つの未処理の問題を解決する方向に欧米が導くことが出来れば、多分ISを駆逐して曲がりなりにも近代国家体制を維持することが可能なのではないか。
なぜなら、メソポタミアつまりイラクには、レバントつまりシリアのように、外部から介入してくる海洋勢力(例えば十字軍)と、内部からその侵攻に抵抗する山岳・高原あるいは砂漠勢力(イスラーム教徒)との間の顕著な断層線(フォルト・ライン)が存在していないと思われるからである。ただし、イラク政府軍は、北部山岳地帯のクルド人武装勢力と共闘して、ISからモースルを軍事的に奪還しなければならないという困難はなお残されている。
これに対して、レバントつまりシリアでは、西部に南北に連なるアンティ・レバノン山脈とアンサリヤ山脈を顕著な境界として、上記のような断層線が存在していると思われる。ここでいうアンサリヤ山脈にある断層線の西側とは、現在までのところ地中海沿岸のアサド政権支配地域を意味している。そして、その地域は外部海洋勢力の1つであるロシアの軍事介入によって、事実上アサド政権の支配権が支えられている。
こうした断層線があると、亡くなったハンチントンがかつて賛否両論頻出で話題となった『文明の衝突』で述べたように、フォルト・ライン紛争が多発することによってセクトの分断が進んでいく。シリアにおけるISやヌスラ戦線の台頭は、こうしたフォルト・ライン紛争を扇動することによって可能となったように筆者には思える。
また、アルカーイダ系のヌスラ戦線と異なってISの場合特に厄介なことに、彼らは戦術としてサラフィー・ジハード主義を宣伝することがSNSを介して効果的にできる体制を作り上げていることから、欧米諸国を含む世界中にまで断層線を容易に拡散できるという点である。いわゆるソフトターゲットを狙ったISシンパによるホームグロウン・テロの脅威は、こうしたメカニズムを通じて高まっているわけだ。
第2の論点は、ポスト冷戦期のパワーシフト問題である。その1つは、昨年起きたユーロ危機と難民・移民流入問題から見えた欧州型統合深化の停滞、つまりEU解体傾向の高まりである。この2つの危機を観察して得られた回答は、とどのつまり相互に経済力が大きく異なるEU諸国が経済政策を未統一のまま統一通貨ユーロを使用することは、結局ドイツが一方的に利益を他国から吸い上げることに他ならないことである。例えば昨春起きたギリシャ債務危機は、その典型例であろう。
また、昨夏以来ギリシャやイタリアを通じてEUに流入した100万人以上の難民・移民を現行のシェンゲン協定のシステムでは有効に対処できないことから、国境管理がEUを支えるドイツでも再開された。さらにマリーヌ・ル・ペンの率いる国民戦線がフランスで有権者の支持を拡大しているように、現行の移民政策とシェンゲン協定に反対する右派勢力の台頭が各国で目立つようになっている。今後もし仮に、キャメロン首相が率いる保守党政権の英国がEUを脱退したら、EUは本当に解体の方向に向かうことになるかもしれない。
次にもう1つのパワーシフトは、ロシアの軍事介入問題である。注目すべきはロシアによる2014年のクリミア併合とウクライナへの軍事介入、そして昨年9月以来の対シリア軍事介入が、どれも旧ソ連圏へのNATOの東方拡大を認めないという、プーチン大統領の強固な意思表示のように見えることだ。
筆者が思うに、こうしたプーチンの攻撃的政策は、一貫して黒海艦隊の地中海進出拠点の権益を確保するための典型的な南下政策のように見える。例えば、G8から弾き出されて欧米の経済制裁を受ける羽目を招いたクリミア併合は、ウクライナのNATO加盟の動きの機先を制して黒海艦隊の根拠地であるセヴァストポリ軍港を確保する目的があったことは確かであろう。なぜなら、もしセヴァストポリ軍港を失えば、ロシア黒海艦隊は黒海の制海権をトルコに奪われてしまうことになってしまうからである。
昨年9月にロシアがシリアに軍事介入したことも、反体制派の攻勢で劣勢に陥りつつあったアサド政権を軍事支援して、シリアのタルトゥース港にある黒海艦隊補給基地の権益を確保する目的があったことは疑いないだろう。
もちろん、ISなどイスラーム過激派を掃討することによって、ロシア領内へのイスラーム過激主義の浸透を先制的に防ぐ意図がプーチン大統領にあったことも否定できないとは思うのだが。
原油価格が低迷する中で制裁が解除されたイランが年内に日量100万バレルの原油増産を実施し、シェール革命の結果アメリカも原油を輸出することになることから、経済制裁にあえぐロシアとシェールとイランへの対抗上OPECでイランとの協調減産に踏み切れないサウジアラビアの両国は、2016年を通じて厳しい財政状況に陥るかもしれない。
だが、だからと言ってこの両国が、アメリカやイランに対抗する積極政策を直ちに止めるとも筆者には思えない。昨年イランとの核問題最終合意を締結してサウジアラビアからイランに提携関係をややシフトさせつつあるアメリカに対抗して、サウジアラビアもロシアを巻き込んで経済的な持久戦を当面の間は続けていくことになるだろう。