2016年2月5日金曜日

2016年5月16日、サイクス・ピコ協定100周年後のイラク・シリア周辺情勢に関する見通し

 上記のとおり、今年516日に、英仏露三国間でオスマン帝国崩壊後の勢力圏分割を規定した悪名高いサイクス・ピコ協定が締結されてから、ちょうど100周年を迎える。このサイクス・ピコ協定は、あのIS(イスラーム国)がその打破を大々的に掲げているように、欧米諸国が主導する中東近代国家体制と国境線の線引きの大枠を定めた秘密協定であった。

 ある意味では、この秘密協定などによって残された未処理の問題が再燃したため、2010年末のチュニジアにおけるジャスミン革命から始まったアラブの春の悪影響がシリア内戦とイラクでの宗派間抗争の混乱を引き起こした。その破綻国家化の間隙から生じた力の空白をついて、ISが両国にまたがる自称「カリフ国」の領域支配を確立したのである。

 上記の未処理で残された問題とは、1つはクルド人の民族自決であり、もう1つはセクトあるいは宗派間の適切な勢力均衡確立の問題である。そして、このことは、第1次世界大戦敗戦国であったオスマン帝国の領土に関する戦後処理問題が、欧米諸国対ISを含む非国家主体との対テロ非対称戦争という形に転換して再燃したものであるとも考えることが出来るだろう。

 地政学的視点に立てば、ISが台頭したレバント(シリア)とメソポタミア(イラク)の一部は、ユーラシア・アフリカ世界島のリムランド(縁辺部)三日月地帯の中の、さらに山岳・高原勢力(イランおよびトルコ)と砂漠勢力(アラビア半島およびナイル流域を除くエジプト)に囲まれたハートランドである「肥沃な三日月地帯」を形成している。

 したがって、マッキンダーの有名な言葉を模倣して述べれば、「肥沃な三日月地帯を支配する者はレバントとメソポタミアを支配し、レバントとメソポタミアを支配する者は中東を支配する」という命題を一応提示することが出来るだろう。これが第1の論点である。

実際、人口稠密だが各勢力が地域ごとに分断されていた山岳・高原勢力であるイランとトルコは、肥沃な三日月地帯を支配した統一勢力、例えばアレクサンドロス大王や古代ローマ帝国、預言者ムハンマド死後のイスラーム帝国、あるいはモンゴル帝国の侵略などによって、度々痛い目にあわされてきた屈辱の歴史を持っている。

 さて、アラブの春以後の中東情勢を一言で評すれば、この中東ハートランドの混乱に乗じてISが台頭するとともに、イランとサウジアラビアの両国が中東ハートランドの支配権をめぐって激しい鍔迫り合いを展開しているということになるだろう。このISの台頭と鍔迫り合いが、欧米主導で建国された中東近代国家であるイラクとシリアの国境線を融解させ、両国を破綻国家化させている根本原因なのである。

 だが、筆者の見るところ、シリアについてはその破綻国家再建と国境線の現状維持は極めて困難だ(つまり各々支配者が異なる3ないし4つの地域に今後分断されるだろう)が、少なくともイラクについてはクルド人の民族自決とセクト間の適切な勢力均衡の確立という2つの未処理の問題を解決する方向に欧米が導くことが出来れば、多分ISを駆逐して曲がりなりにも近代国家体制を維持することが可能なのではないか。

 なぜなら、メソポタミアつまりイラクには、レバントつまりシリアのように、外部から介入してくる海洋勢力(例えば十字軍)と、内部からその侵攻に抵抗する山岳・高原あるいは砂漠勢力(イスラーム教徒)との間の顕著な断層線(フォルト・ライン)が存在していないと思われるからである。ただし、イラク政府軍は、北部山岳地帯のクルド人武装勢力と共闘して、ISからモースルを軍事的に奪還しなければならないという困難はなお残されている。

 これに対して、レバントつまりシリアでは、西部に南北に連なるアンティ・レバノン山脈とアンサリヤ山脈を顕著な境界として、上記のような断層線が存在していると思われる。ここでいうアンサリヤ山脈にある断層線の西側とは、現在までのところ地中海沿岸のアサド政権支配地域を意味している。そして、その地域は外部海洋勢力の1つであるロシアの軍事介入によって、事実上アサド政権の支配権が支えられている。

こうした断層線があると、亡くなったハンチントンがかつて賛否両論頻出で話題となった『文明の衝突』で述べたように、フォルト・ライン紛争が多発することによってセクトの分断が進んでいく。シリアにおけるISやヌスラ戦線の台頭は、こうしたフォルト・ライン紛争を扇動することによって可能となったように筆者には思える。

また、アルカーイダ系のヌスラ戦線と異なってISの場合特に厄介なことに、彼らは戦術としてサラフィー・ジハード主義を宣伝することがSNSを介して効果的にできる体制を作り上げていることから、欧米諸国を含む世界中にまで断層線を容易に拡散できるという点である。いわゆるソフトターゲットを狙ったISシンパによるホームグロウン・テロの脅威は、こうしたメカニズムを通じて高まっているわけだ。

 第2の論点は、ポスト冷戦期のパワーシフト問題である。その1つは、昨年起きたユーロ危機と難民・移民流入問題から見えた欧州型統合深化の停滞、つまりEU解体傾向の高まりである。この2つの危機を観察して得られた回答は、とどのつまり相互に経済力が大きく異なるEU諸国が経済政策を未統一のまま統一通貨ユーロを使用することは、結局ドイツが一方的に利益を他国から吸い上げることに他ならないことである。例えば昨春起きたギリシャ債務危機は、その典型例であろう。

 また、昨夏以来ギリシャやイタリアを通じてEUに流入した100万人以上の難民・移民を現行のシェンゲン協定のシステムでは有効に対処できないことから、国境管理がEUを支えるドイツでも再開された。さらにマリーヌ・ル・ペンの率いる国民戦線がフランスで有権者の支持を拡大しているように、現行の移民政策とシェンゲン協定に反対する右派勢力の台頭が各国で目立つようになっている。今後もし仮に、キャメロン首相が率いる保守党政権の英国がEUを脱退したら、EUは本当に解体の方向に向かうことになるかもしれない。

 次にもう1つのパワーシフトは、ロシアの軍事介入問題である。注目すべきはロシアによる2014年のクリミア併合とウクライナへの軍事介入、そして昨年9月以来の対シリア軍事介入が、どれも旧ソ連圏へのNATOの東方拡大を認めないという、プーチン大統領の強固な意思表示のように見えることだ。

 筆者が思うに、こうしたプーチンの攻撃的政策は、一貫して黒海艦隊の地中海進出拠点の権益を確保するための典型的な南下政策のように見える。例えば、G8から弾き出されて欧米の経済制裁を受ける羽目を招いたクリミア併合は、ウクライナのNATO加盟の動きの機先を制して黒海艦隊の根拠地であるセヴァストポリ軍港を確保する目的があったことは確かであろう。なぜなら、もしセヴァストポリ軍港を失えば、ロシア黒海艦隊は黒海の制海権をトルコに奪われてしまうことになってしまうからである。

 昨年9月にロシアがシリアに軍事介入したことも、反体制派の攻勢で劣勢に陥りつつあったアサド政権を軍事支援して、シリアのタルトゥース港にある黒海艦隊補給基地の権益を確保する目的があったことは疑いないだろう。

 もちろん、ISなどイスラーム過激派を掃討することによって、ロシア領内へのイスラーム過激主義の浸透を先制的に防ぐ意図がプーチン大統領にあったことも否定できないとは思うのだが。

 原油価格が低迷する中で制裁が解除されたイランが年内に日量100万バレルの原油増産を実施し、シェール革命の結果アメリカも原油を輸出することになることから、経済制裁にあえぐロシアとシェールとイランへの対抗上OPECでイランとの協調減産に踏み切れないサウジアラビアの両国は、2016年を通じて厳しい財政状況に陥るかもしれない。

だが、だからと言ってこの両国が、アメリカやイランに対抗する積極政策を直ちに止めるとも筆者には思えない。昨年イランとの核問題最終合意を締結してサウジアラビアからイランに提携関係をややシフトさせつつあるアメリカに対抗して、サウジアラビアもロシアを巻き込んで経済的な持久戦を当面の間は続けていくことになるだろう。

2016年2月3日水曜日

甘利明前経済再生担当大臣の辞任に関する、高校後輩としての感想

 『週刊文春』が報じた甘利明大臣あるいはその公設第1秘書と政策秘書による、都市再生機構(UR)へのあっせん(口利き)とその対価として金銭を授受したとの疑惑に関する告発記事の結果、先週木曜日(128日)に甘利氏が大臣職を辞任した。

先週127日の投稿で、筆者はこの公設秘書らのあっせん利得授受の疑いだけにとどまらず、甘利大臣本人が金銭を授受したかどうかという点に問題の焦点が絞られるだろう、と述べた。

ところが甘利氏はこの点について、平成252013)年1114日に大臣室で、平成2621日に大和事務所で、それぞれ50万円を、口利き問題の相手方である建設業者S社の関係者(大臣室では社長から、大和事務所では総務担当者)から受領したことを、比較的あっさりと認めてしまったのである。

 甘利さんの言い分は、概ね以下の様な趣旨だった。すなわち、自分が受領した合計100万円の現金は、それに気付いてから秘書に対して政治資金規正法上「適切に処理」しておくよう指示していた。それゆえ自分は何ら違法行為に加担していない。

だが、自分の現金授受の問題とは別に、公設秘書が平成2588日にS社総務担当者から受け取った500万円の現金のうち、300万円を私的に費消してしまった不始末の監督責任をとって辞任する。それは、秘書に責任をなすりつけないという政治家としての自分の美学を貫くことであり、また盟友である安倍首相の政権運営に迷惑をかけないためにも、自ら辞任の道を選択したという事であるらしい。

 何だか一見とても潔い身の処し方に聞こえるが、一体全体、甘利氏自身に口利きの認識があったのかどうかについては極めて曖昧な説明だ。特に、時系列的に考えて、秘書が88日に500万もの大金を相手側から受領したにもかかわらず、その本質的な「あっせん」の意味について、甘利さんが11月に大臣室で50万円をS社の社長から受け取った際に何も具体的な報告を秘書から受けておらず、大臣就任祝いか何かだと思ったなどと、とぼけた回答をしていたのは明かなごまかしの臭いがする。

 甘利さんはその翌年2月の大和事務所でのS社総務担当者からの説明資料授受と50万円受領についても、舌癌からの快気祝いの意味だと思ったと述べていたが、筆者にはこれも眉唾な説明に思える。そもそも自分が直接S社から受領した合計100万円については、これを政治資金収支報告書に適切に記載しておくよう秘書に指示したのだから、自分に何らやましい所が無いというのでは、直接自分の手で受け取った政治資金(いわゆる企業・団体献金)であっても形式的に政党支部への献金としておけば後は知らないと言っているのに等しく、これでは迂回献金そのものを是認することと異ならないことになってしまうだろう。

 それに、本来政治献金であったはずの300万円を公設秘書が勝手に私的流用したのがもし事実であれば、甘利事務所としては事実上解雇した公設秘書を業務上横領罪の疑いで刑事告発するのが本来の対処法だろう。もし彼を告発しないのであれば、甘利事務所が他の献金者から受領した政治資金あるいは政党助成金(つまり国民が支払った税金の一部)から、その損失を穴埋めすることに他ならず、それはそれで大問題となりかねないだろう。

 やはり、筆者には今回の甘利事務所の現金授受問題の本質は、政治資金規正法上の収支報告書の虚偽記載の問題というよりも、政治家に対する口利きの見返りに企業献金が迂回献金としてなされたという、現行あっせん利得処罰法のザル法化の点にあるのではないかと思われる。

その点で、この際せっかくの機会であるから、現在野党が主張しているような企業・団体献金を全面的に禁止する法案を真剣に議論すべき時ではないか。大体、よく言われているように政党助成金を国庫から受領していながら、企業・団体献金を政党が受領している現状は本来二重取りと言われても仕方がないと筆者は考える。

その上、選挙区ごとに設立された議員が支部長である政党支部がそれを受け取ることは、今回大臣を辞任した甘利さんが主張するように、たとえ政治資金規正法上適切に会計処理されていたとしても、その実態が、不透明な政治腐敗に繋がりかねない企業・団体から政治家個人に対する迂回献金と見なされても、恐らく有効な反論ができないのではないだろうか。

 筆者は先週の投稿で述べたように、甘利明さんの出身高校の後輩である。甘利さんを好意的に評価すれば、政治家としてはやや人の良過ぎるボンボン育ちゆえの今回の失敗であったのだろう。TPP交渉およびアベノミクス推進でこれまで立役者として果たした彼の功績は誰も否定できるものではなく、その意味では筆者と同じ母校の出身者として甘利さんには是非とも再起を果たしてほしいと思う。

 筆者が甘利さんを見て思うのは、古代ギリシャの政治家と軍人としてペルシャ戦争中の紀元前4809月に起きたサラミスの海戦に際して、賄賂と謀略を駆使して劣勢かつ統制の取れない三段櫂船のギリシャ連合艦隊を対ペルシャ艦隊との決戦に結集させ、大勝利に導いたテミストクレスである。テミストクレスは陸戦ではペルシャの大軍にギリシャが勝てないことを見越して、マラトンの戦いで勝利したことでペルシャの軍事力を侮っていたアテナイの海軍力を市民の反対を押し切って整備した先見の明があった。

 現在まで首都アテネの外港としてギリシャ第1の港湾として機能し続けているピレウス(ペイライエウス)港を整備させ、アテナイ市内とピレウス港とを結ぶ長い城壁を建設したのも、テミストクレスの功績であった。

実はテミストクレスは、ヘロドトスの『歴史』やプルタルコスの『英雄伝』の記述によると、ギリシャ連合軍の総司令官であったスパルタの提督エウリュビアデスを説得して反対派(コリントス地峡への撤退論を主張していたコリントスの提督アデイマントスらペロポネソス半島勢)を押し切ってサラミス水道での決戦に引きずり込んだだけではなく、侵略者であったペルシャのクセルクセス王の下に寝返りを約束する偽りの使者を遣わして、決戦前日にペルシャ艦隊をサラミス水道封鎖へと引きずり込む謀略を駆使した程の策士であった。

 日本の武将で言えば、テミストクレスに大変よく似ていたのが、恐らく毛利元就だろう。毛利元就の先祖は京下りの下級官人で鎌倉幕府初代政所別当であった大江広元であるが、実は甘利明さんの生まれた厚木市は平安時代末期に立荘された毛利荘の地そのものであって、そこは大江広元の所領であったのである。

 つまり、戦国時代に中国地方の大大名であった毛利氏発祥の地は、実は厚木市だったのである。筆者が何を言いたいかというと、甘利明さんには甘利虎㤗の子孫だなどとケチな自慢話をするのではなく、テミストクレスや毛利元就の様な危機の際には謀略を駆使できるような清濁併せ持った大政治家にボンボン二世議員から変貌して貰いたいという事だ。

ただし、これほど祖国アテナイに対する功績の大きかったテミストクレスでも、その名誉欲に駆られた強引な政治手法が、ペルシャ戦争後アテナイ市民からの信用を完全に失って僭主に成るかも知れないと疎まれた結果、国家反逆罪で陶片追放の憂き目にあってかつての敵国ペルシャに亡命する羽目に陥ってしまった。そうした民主主義における世論の恐ろしさを、甘利明先輩にも決して忘れないで今後精進して欲しいと筆者は思うのである。