『週刊文春』が報じた甘利明大臣あるいはその公設第1秘書と政策秘書による、都市再生機構(UR)へのあっせん(口利き)とその対価として金銭を授受したとの疑惑に関する告発記事の結果、先週木曜日(1月28日)に甘利氏が大臣職を辞任した。
先週1月27日の投稿で、筆者はこの公設秘書らのあっせん利得授受の疑いだけにとどまらず、甘利大臣本人が金銭を授受したかどうかという点に問題の焦点が絞られるだろう、と述べた。
ところが甘利氏はこの点について、平成25(2013)年11月14日に大臣室で、平成26年2月1日に大和事務所で、それぞれ50万円を、口利き問題の相手方である建設業者S社の関係者(大臣室では社長から、大和事務所では総務担当者)から受領したことを、比較的あっさりと認めてしまったのである。
甘利さんの言い分は、概ね以下の様な趣旨だった。すなわち、自分が受領した合計100万円の現金は、それに気付いてから秘書に対して政治資金規正法上「適切に処理」しておくよう指示していた。それゆえ自分は何ら違法行為に加担していない。
だが、自分の現金授受の問題とは別に、公設秘書が平成25年8月8日にS社総務担当者から受け取った500万円の現金のうち、300万円を私的に費消してしまった不始末の監督責任をとって辞任する。それは、秘書に責任をなすりつけないという政治家としての自分の美学を貫くことであり、また盟友である安倍首相の政権運営に迷惑をかけないためにも、自ら辞任の道を選択したという事であるらしい。
何だか一見とても潔い身の処し方に聞こえるが、一体全体、甘利氏自身に口利きの認識があったのかどうかについては極めて曖昧な説明だ。特に、時系列的に考えて、秘書が8月8日に500万もの大金を相手側から受領したにもかかわらず、その本質的な「あっせん」の意味について、甘利さんが11月に大臣室で50万円をS社の社長から受け取った際に何も具体的な報告を秘書から受けておらず、大臣就任祝いか何かだと思ったなどと、とぼけた回答をしていたのは明かなごまかしの臭いがする。
甘利さんはその翌年2月の大和事務所でのS社総務担当者からの説明資料授受と50万円受領についても、舌癌からの快気祝いの意味だと思ったと述べていたが、筆者にはこれも眉唾な説明に思える。そもそも自分が直接S社から受領した合計100万円については、これを政治資金収支報告書に適切に記載しておくよう秘書に指示したのだから、自分に何らやましい所が無いというのでは、直接自分の手で受け取った政治資金(いわゆる企業・団体献金)であっても形式的に政党支部への献金としておけば後は知らないと言っているのに等しく、これでは迂回献金そのものを是認することと異ならないことになってしまうだろう。
それに、本来政治献金であったはずの300万円を公設秘書が勝手に私的流用したのがもし事実であれば、甘利事務所としては事実上解雇した公設秘書を業務上横領罪の疑いで刑事告発するのが本来の対処法だろう。もし彼を告発しないのであれば、甘利事務所が他の献金者から受領した政治資金あるいは政党助成金(つまり国民が支払った税金の一部)から、その損失を穴埋めすることに他ならず、それはそれで大問題となりかねないだろう。
やはり、筆者には今回の甘利事務所の現金授受問題の本質は、政治資金規正法上の収支報告書の虚偽記載の問題というよりも、政治家に対する口利きの見返りに企業献金が迂回献金としてなされたという、現行あっせん利得処罰法のザル法化の点にあるのではないかと思われる。
その点で、この際せっかくの機会であるから、現在野党が主張しているような企業・団体献金を全面的に禁止する法案を真剣に議論すべき時ではないか。大体、よく言われているように政党助成金を国庫から受領していながら、企業・団体献金を政党が受領している現状は本来二重取りと言われても仕方がないと筆者は考える。
その上、選挙区ごとに設立された議員が支部長である政党支部がそれを受け取ることは、今回大臣を辞任した甘利さんが主張するように、たとえ政治資金規正法上適切に会計処理されていたとしても、その実態が、不透明な政治腐敗に繋がりかねない企業・団体から政治家個人に対する迂回献金と見なされても、恐らく有効な反論ができないのではないだろうか。
筆者は先週の投稿で述べたように、甘利明さんの出身高校の後輩である。甘利さんを好意的に評価すれば、政治家としてはやや人の良過ぎるボンボン育ちゆえの今回の失敗であったのだろう。TPP交渉およびアベノミクス推進でこれまで立役者として果たした彼の功績は誰も否定できるものではなく、その意味では筆者と同じ母校の出身者として甘利さんには是非とも再起を果たしてほしいと思う。
筆者が甘利さんを見て思うのは、古代ギリシャの政治家と軍人としてペルシャ戦争中の紀元前480年9月に起きたサラミスの海戦に際して、賄賂と謀略を駆使して劣勢かつ統制の取れない三段櫂船のギリシャ連合艦隊を対ペルシャ艦隊との決戦に結集させ、大勝利に導いたテミストクレスである。テミストクレスは陸戦ではペルシャの大軍にギリシャが勝てないことを見越して、マラトンの戦いで勝利したことでペルシャの軍事力を侮っていたアテナイの海軍力を市民の反対を押し切って整備した先見の明があった。
現在まで首都アテネの外港としてギリシャ第1の港湾として機能し続けているピレウス(ペイライエウス)港を整備させ、アテナイ市内とピレウス港とを結ぶ長い城壁を建設したのも、テミストクレスの功績であった。
実はテミストクレスは、ヘロドトスの『歴史』やプルタルコスの『英雄伝』の記述によると、ギリシャ連合軍の総司令官であったスパルタの提督エウリュビアデスを説得して反対派(コリントス地峡への撤退論を主張していたコリントスの提督アデイマントスらペロポネソス半島勢)を押し切ってサラミス水道での決戦に引きずり込んだだけではなく、侵略者であったペルシャのクセルクセス王の下に寝返りを約束する偽りの使者を遣わして、決戦前日にペルシャ艦隊をサラミス水道封鎖へと引きずり込む謀略を駆使した程の策士であった。
日本の武将で言えば、テミストクレスに大変よく似ていたのが、恐らく毛利元就だろう。毛利元就の先祖は京下りの下級官人で鎌倉幕府初代政所別当であった大江広元であるが、実は甘利明さんの生まれた厚木市は平安時代末期に立荘された毛利荘の地そのものであって、そこは大江広元の所領であったのである。
つまり、戦国時代に中国地方の大大名であった毛利氏発祥の地は、実は厚木市だったのである。筆者が何を言いたいかというと、甘利明さんには甘利虎㤗の子孫だなどとケチな自慢話をするのではなく、テミストクレスや毛利元就の様な危機の際には謀略を駆使できるような清濁併せ持った大政治家にボンボン二世議員から変貌して貰いたいという事だ。
ただし、これほど祖国アテナイに対する功績の大きかったテミストクレスでも、その名誉欲に駆られた強引な政治手法が、ペルシャ戦争後アテナイ市民からの信用を完全に失って僭主に成るかも知れないと疎まれた結果、国家反逆罪で陶片追放の憂き目にあってかつての敵国ペルシャに亡命する羽目に陥ってしまった。そうした民主主義における世論の恐ろしさを、甘利明先輩にも決して忘れないで今後精進して欲しいと筆者は思うのである。
0 件のコメント:
コメントを投稿