さて、ヴィックスバーグの戦いと並んで南北戦争中最も有名な決戦であったゲティスバーグの戦いは、当時劣勢に追い込まれつつあった南軍リー将軍の考案した乾坤一擲の北部ペンシルベニア州への侵攻作戦の結果起こった。
圧倒的に劣勢な立場にある方が、乾坤一擲の勝利を目指して優勢な敵地に侵攻する作戦を選択することが、戦史上ではしばしば見られる。例えば、太平洋戦争劈頭に日本海軍が決行したパール・ハーバー奇襲攻撃作戦はその最も有名な事例の1つであるだろう。
筆者が南北戦争におけるリー将軍の北部侵攻作戦と類似していると考えているのは、時代が相当隔たってはいるが、3世紀中国三国志時代の蜀漢の丞相諸葛亮が合計5回に亘って決行した優勢な魏に対する北伐作戦である。
なぜなら、1863年時点でリー将軍の置かれた立場と同様に、三国志時代の3世紀前半に諸葛亮の置かれた立場もそのまま黙っていれば祖国がじり貧の劣勢に追い込まれてしまうことが明らかだったため、敢えて敵地に侵攻して乾坤一擲の決戦を挑もうとしたことが類似しているからである。
ただ、以前に筆者が投稿で述べたように、リー将軍と諸葛亮とではその実際に取った作戦が随分と異なっている印象を抱く。
リー将軍は言わば日本海軍による真珠湾攻撃と同様に、あくまでも敵の機先を制した奇襲攻撃を意図していたように思われるのだが、諸葛亮の場合は正々堂々の正攻法に徹していたことが大いに異なっているからである。
しかも、南北戦争時点での南軍の北軍に対する劣勢度合いと比較しても、北伐当時の蜀漢の魏に対する劣勢度は遥かに大きかったのではないだろうか。3世紀当時の中国ではまだ揚子江以南がさほど経済的に発展していなかったため、黄河流域の中原を支配した魏の経済力と人口の優勢は江南の孫呉に対してはもとより、西方の僻地に位置する巴蜀地方(益州)だけを支配しているに過ぎない蜀漢に対しては遥かに優勢であったはずである。
恐らく、諸葛亮が当時北伐に動員できた総兵力は、せいぜい3万人から4万人といったところではないだろうか。祁山の戦いで魏軍に大勝した231年2月の第4回北伐と五丈原での司馬懿との対峙で有名な234年2月の最後の第5回北伐では、蜀軍も6万人以上の充実した兵力を動員したと言われているが、対する魏軍の動員兵力は優に10万人を超えていたと思われる。
しかも、諸葛亮が出師の表を蜀漢の後主劉禅に奉呈した後、228年春に軍を率いて前線基地を置いた漢中から魏の領土である長安を中心とした渭水盆地に進出するためには、いわゆる蜀の桟道の険路を通って標高2千から3千メートル級の山々が連なる秦嶺山脈を遥々超えて行かなければならない。自動車の無い当時に、数万の軍隊を率いて補給を確保しつつこの作戦を遂行することは、途轍もない難事業であったに違いない。
諸葛亮は231年2月の祁山進出に当たって輸送車両として木牛流馬を発明して輜重の便を図ったと言われているが、それにしても恐らく手押し車の類であったに過ぎないそうした人力車両を駆使して道なき道の高山地帯を突破して見事作戦を遂行したのだから、カルタゴのハンニバルやナポレオンのアルプス越えに匹敵する位凄い実績と言えるのではないだろうか。
北伐の基本資料は恐らく魏の後継王朝である西晋に仕えた陳寿の書いた正史『三国志』中『蜀書』の中の「諸葛亮伝」であろうが、陳寿による評価では諸葛亮の政治手腕と軍の統率能力については最大限の賛辞を加えているが、臨機応変の将略については聊か疑問を投げかけている。その結果、何度も北伐を実施したにも関わらず成功しなかったのではないか、と評している。
しかし、劣勢の兵力を補給も儘ならない大山脈を越えて敢えて敵地に何度も侵入させることに成功しているだけでも、諸葛亮の将軍としての才能は相当に優れたものであったに違いないと筆者は考える。この点では、リー将軍も同様であるだろう。
諸葛亮の作戦は、最終的には前漢建国時の首都であった長安を占領することであったと思う。しかし、部下の勇将魏延が度々進言したように、別働隊を派遣して秦嶺山脈東部に走る子午谷を突破して直接長安を奇襲占領する作戦を採ったとしても、洛陽方面から進撃してくる優勢な魏の大軍を迎え撃って長安を守り切ることは多分不可能であっただろう。
やはり実際に諸葛亮が当時採用した作戦のように、秦嶺山脈西部のルートを突破して天水郡方面をまず先に制圧して、しっかりとした自給体制を構築した方が蜀軍に有利に展開したはずであっただろう。
魏軍が大挙進出してきた場合には、祁山の様な山間部か、渭水盆地西部の狭いエリアで迎撃することが兵力劣勢な蜀軍には有利であったと筆者は考える。実際、第1回北伐では前線部隊司令官に抜擢した経験不足の馬謖のミスによって街亭の戦いで敗北を喫して、蜀軍は撤退に追い込まれたが、229年春に行った第3回北伐以降は、諸葛亮の率いる蜀軍が何度か魏の大軍に勝利を収めている。
特に231年の第4回北伐の際、補給が途絶える可能性がある事を懸念して撤退する時に、馬謖を街亭で破った魏の名将張郃を木門谷に置いた伏兵に迎撃させて見事討ち取ることに成功するなど、北伐の経験を重ねれば重ねる程、諸葛亮は冴えた采配を振るっている。
結局、劣勢な兵力で敵地に大胆に乗り込む作戦を遂行すること自体が、補給を維持し続けることの本質的困難を伴ったために、諸葛亮の北伐作戦は成功しなかったと言えるだろう。この点は、南北戦争におけるリー将軍の北部侵攻作戦を考察する際にも、類似の比較対象として検討すべき余地があると、筆者は考えている。