2015年10月1日木曜日

世界最初の総力戦である南北戦争での旧式戦術の有効性-チャンセラーズヴィルの戦い(2)

 南北戦争の主戦場は、合衆国東部の連邦首都ワシントンD.C.と南部連合の首都であったヴァージニア州リッチモンド周辺の比較的狭い地域であった。この両首都の間は、実は直線距離にしてわずか100マイル(約160km)程しか離れていない。東京と白河間程度の、ほんの目と鼻の先にある。

つまり、双方の境界であるポトマック川を挟んで北軍は南部の本拠地リッチモンドに侵攻しようと何度も試み、対する南軍はシェナンドア渓谷からワシントンD.C.上流のポトマック川を渡河して、北部のメリーランド州とペンシルベニア州に進出して側面から連邦首都に脅威を与えようとしたわけである。例えば最大の激戦地ゲティスバーグは、ペンシルベニア州の州都ハリスバーグの南南西、大都市フィラデルフィアからはほぼ西に位置している。

 当時、兵力物量ともに劣勢であった南軍が敢えて壊滅する危険を冒して北部に侵攻しようとしたのは、合衆国政府のあるワシントンD.C.を取り囲んでいるメリーランド州が奴隷州であったため、積極攻勢をかけてその内部を崩壊させようと意図したことと、合衆国首都への兵站線であったボルティモア&オハイオ鉄道を恐らく遮断しようとしたためだろう。

 それに加えて、リンカーンが18629月に南部連合支配地域での奴隷解放を宣言して大義名分を確立する迄の戦争前半の時期は、もし南軍が北部領土内で北軍を撃破することに成功すれば、英仏両大国の南部連合承認を引き出し得ることが十分想定され、そうなれば事実上南部の独立が国際的に承認される効果が期待できたからであった。

このあたりの南軍北部ヴァージニア軍司令官リー将軍によるリスキーな作戦の選択は、何となく中国三国志時代の蜀漢の丞相、諸葛亮(孔明)の魏に対する5回にわたる北伐(228年春~2348月)作戦を髣髴とさせる。

筆者が思うに、諸葛亮もリー将軍もどちらも歴史上の名将に該当するだろうが、両者の違いとすれば、孔明が部下の将軍魏延の奇襲作戦案を容れずにあくまで正攻法に拘ったのに対して、リー将軍がストーンウォール・ジャクソンなど部下の勇将を駆使した奇襲作戦を逆に好んだことだろうか。

 いずれにしても、リー将軍は、北軍ポトマック軍司令官マクレラン将軍が考案したリッチモンド攻略に向けたヴァージニア半島侵攻作戦を、18626月から7月にかけて大損害を受けながらも撃退することに成功した。そしてその勝利の好機を逃さず、同年9月にポトマック川を渡河してメリーランド州に侵攻したわけである。

 しかし、この南軍北部ヴァージニア軍による第1次北部侵攻作戦は、917日に起きたポトマック軍とのアンティータムの戦いで、両軍とも1万人以上(合計で米国史上1日最大)の死傷者数を出して南軍は撤退に追い込まれた。

 186211月、リンカーン大統領は撤退する南軍を追撃しなかったマクレラン将軍を解任して、アンブローズ・E・バーンサイド少将を後任のポトマック軍司令官に任命した。ちなみに、解任されたジョージ・B・マクレラン少将は1864年の大統領選挙で共和党から再選を狙うリンカーンに対抗する民主党候補に擁立されたが、大統領選には敗れている。

 新任のバーンサイド軍司令官は、フレデリックスバーグでラパハノック川を渡河して南部連合首都リッチモンドを急襲しようとしたが、渡河が遅滞した上に12月上旬対岸に堅固な陣地を構築していたリー軍に対して無策な正面攻撃を仕掛け、その結果12千人以上の死傷者を出して敗退した。そうした不手際もあって、彼もたった81日間で司令官を解任されてしまったわけである。

 北軍ポトマック軍3人目の司令官ジョセフ・フッカー少将は、18631月末に就任後、冬季の間は敗軍を休養させて兵力をリー軍の倍以上に再整備し、426日にフレデリックスバーグ対岸から自軍7個軍団中5個軍団を川の上流へ長途迂回行軍させて、南軍の背後を突く作戦を実施した。この時起きた戦いが、チャンセラーズヴィルの戦いであった。

 筆者が興味深いのは、この戦いが双方とも敵の側面迂回奇襲と強襲という、ナポレオン戦争当時のような旧式戦術を駆使した点にある。北軍はその騎兵部隊を敵騎兵おびき寄せと連絡遮断のために大部分派遣したのだが、南軍騎兵部隊を率いるJ.E.B.スチュアート将軍は全くこの作戦に引っかからなかった。そのため、リー将軍は北軍の動きをほぼ的確に把握することが出来たのである。これが、南軍勝利の一番の勝因だろう。

 次に、初めは積極的な迂回攻撃を仕掛けたフッカー将軍が、南軍の倍以上の兵力を持っていながら、51日はチャンセラーズヴィル周辺の樹海内での陣地構築に費やし、午後に樹海東方に開けた平地に向けて進軍を開始したものの、南軍の斥候部隊に遭遇した途端、陣地に戻って防衛線を張る消極策を選択したことも、いったいどういう意図だったのか、筆者には解せないところだ。

 恐らく、本来偵察任務に当たるはずの北軍騎兵部隊が南軍牽制のために遠方に派遣されて当日不在だったため、南軍の動きが十分把握できずにフッカー将軍が弱気になったのだろう。これで主導権が劣勢であったリー将軍側に移ってしまった。これが、南軍第二の勝因と言えるだろう。

 南軍第三の勝因は、フレデリックスバーグ防衛軍を残したため、さらに兵力が少なくなった自軍約4万人の兵力の過半をリー将軍が部下のストーンウォール・ジャクソンに委ね、北軍陣地のほぼ正面を大胆に迂回機動させたことだ。劣勢な兵力をさらに細分するとは、軍司令官に余程の勝算が無ければ決してできることでは無かったはずだ。

そのジャクソンの率いる南軍第2軍団は、夕刻(午後5時)から夜間にかけて西方から樹海内に突進して、夕食準備中で油断していたハワード将軍の率いる北軍第11軍団を急襲・撃破した。これはまるで、木曽義仲が平家の大軍を破った砺波山(倶利伽羅峠)の戦いのような、旧式の夜襲戦法に他ならないと言えるだろう。

 しかし、歩兵のライフル銃による戦いが主流となった時代には、やはり夜襲戦法は危険を伴っていた。戦い当日の52日は月夜であったとは言え、日没後の暗がりの中、敵軍攻撃のための間道を見つけ出すべく、自ら偵察に出動したストーンウォール・・ジャクソンは、その帰途に味方の警戒兵による誤射を受けて左腕切断の負傷をしてしまい、510日に死亡してしまったのだった。

 その結果、リー将軍は南軍随一の勇将で右腕だった部下を失った。ストーンウォール・ジャクソン将軍の死が、71日から3日にかけて起きたゲティスバーグの決戦で南軍が北軍攻撃に失敗し、戦局が大転換した1つの原因であったのではないだろうかと筆者は考える。

2015年9月29日火曜日

世界最初の総力戦である南北戦争での旧式戦術の有効性-チャンセラーズヴィルの戦い(1)

 エイブラハム・リンカーン第16代合衆国大統領の奴隷解放宣言とゲティスバーグ演説で有名な南北戦争は、世界最初の現代的な総力戦であった。例えば南北戦争における両軍の歩兵の主要装備は、ナポレオン戦争時代の滑空式前装マスケット銃から、前装または後装のライフル銃に進化した。ワーテルローの戦い当時のような重装騎兵の密集突撃は消滅して、銃で武装した軽装騎兵は専ら偵察と歩兵の側面防御に活躍するようになった。

そのため、18614月から654月まで足掛け4年間続いた南北戦争の後半には、日露戦争や第1次世界大戦を先取りしたような要塞構築と塹壕戦が恒常化したのであった。

 その他にも、機関砲と連発銃の実用化、軍事的輸送手段としての鉄道の活用、海軍による港湾封鎖と水雷攻撃の有効性の証明、鋼鉄蒸気艦による水上戦と潜水艦の出現、野戦における通信手段や負傷兵の介護システムの発達、そして徴兵制による大規模動員の実施など、筆者が思いつくだけでも、航空機と戦車の出現以外の現代総力戦の諸要素が南北戦争時点でほぼ出揃っている感じがする。

 そうかと思えば、南北戦争時点の野戦での歩兵戦術はナポレオン戦争時代を髣髴とさせる横隊による戦列歩兵の密集突撃が主体であったりしたため、両軍とも数万人規模で一度会戦した場合の戦死傷者の損害が1万人(2030%)以上に上るような、悲惨な結果をしばしば招いたのであった。

 南部連合軍(南軍)の戦力は合衆国連邦軍(北軍)より遥かに劣勢であったため、最終的には物量の差によって完敗したわけだが、これは先の大戦における日本軍の状況とよく似ていたと言えるかもしれない。

 当時の南北両軍の戦力比較に関する資料を参照すると、人口や鉄道マイル数ではほぼ71で北部優勢、しかも南部の人口約910万人中黒人奴隷が350万人も含まれていたから、北部の2千万人以上の自由民人口とは人的資源の差において比較するべくもなかった。

 製造業などの工業力ではさらに格差が開いており、91で北部優勢、武器製造能力に限定すればそれ以上の格差で、北部の絶対的優勢状態にあった。南部では、黒人奴隷の労働力に依存した原料綿花栽培とその輸出というプランテーション農業経済が主体で、主な物資は英仏など欧米諸国からの輸入に依存していたから、絶対的に優勢な合衆国海軍による南部連合海岸線にある港湾封鎖作戦によって、南部連合の経済はほぼ完全に干上がってしまう状態にあったわけだ。

この辺りの置かれた状態についても、太平洋戦争における日本と南部連合はよく似ていると言えるだろう。

 小説と映画の話題になるが、南北戦争と言えば、アトランタ炎上のシーンで有名なマーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』であろう。

その映画の最初の方で、サウスカロライナ州チャールストンにあるサムター要塞に対するボーレガード将軍の率いる南軍の砲撃開始を契機とした両軍開戦の直後、ヒロインのスカーレット・オハラが愛している貴公子アシュレイ・ウィルクスの屋敷であるトウェルブ・オークスで開かれたバーベキュー・パーティの席で、南部の男性達が戦争について議論を交わすシーンが出てくる。

そのシーンでは、多くの男性が騎士道精神で勇ましい発言をする中、北部滞在経験のあるもう1人のヒーロー、レット・バトラーが「勇ましい言葉だけで戦争は勝てない。南部には砲兵工廠1つ無いが、北部には工場、造船所、炭鉱や南部を餓死させる海軍力がある」と、醒めた発言をして座を白けさせる場面がある。

 アシュレイの発言はさほど勇ましくなく、戦争の大義には懐疑的だが、ヤンキーが南部の連邦離脱を妨害して攻めてくるなら、ジョージア州のために戦うと宣言する。

 筆者が思うに、当時の南部人にとって、このアシュレイの発言に見られるようにあくまでもヤンキーの侵略に対する防衛戦争という大義が感じられていたのだろう。その点で、リンカーン大統領が奴隷解放を宣言する以前の北部の大義名分は「連邦の統一維持」といった比較的ぼやけた内容に過ぎず、ヤンキーが戦争を積極支持する程の実質は無かったものと言えるだろう。

 戦争初期に北軍、特に首都ワシントンの防衛を担当した主力のポトマック軍が、常時兵力劣勢だったロバート・E・リー将軍の率いる南軍の北部ヴァージニア軍にしばしば翻弄されて敗北した1つの要因は、そうした大義名分の不明確さによる志願兵(いわば素人の民兵)たちの士気が十分に上がらなかったせいも有るのではないかと思う。

 もちろん、よく言われるように南軍に参加した将軍たちの多く、例えばリーやジョセフ・E・ジョンストン、そしてトマス・J・(ストーンウォール)・ジャクソンらの能力が高く、北軍の将軍たちに優っていたことも18637月初め迄の南軍優勢の原因だったのは確かであろうが。

 その南軍勝利の典型的戦闘が、1863430日から56日にかけて、北軍フッカー将軍の率いるポトマック軍と南軍リー将軍の率いる北部ヴァージニア軍の間に行われた、チャンセラーズヴィルの戦いであろう。しかし、この戦いの結果、リーの右腕であった勇将ストーンウォール・ジャクソンが510日に戦傷死してしまった。

つまり勝利した南軍の方も、取り返しのつかない程の手痛い損害を、チャンセラーズヴィルの戦いで蒙ったのであった。その後7月にゲティスバーグとヴィックスバーグの戦いに南軍が連敗したため、南北戦争の戦況は北軍優勢に展開したと言われている。そこで次回の筆者の投稿では、この戦いにおける両軍の旧式戦術について考察してみたいと思う。