南北戦争の主戦場は、合衆国東部の連邦首都ワシントンD.C.と南部連合の首都であったヴァージニア州リッチモンド周辺の比較的狭い地域であった。この両首都の間は、実は直線距離にしてわずか100マイル(約160km)程しか離れていない。東京と白河間程度の、ほんの目と鼻の先にある。
つまり、双方の境界であるポトマック川を挟んで北軍は南部の本拠地リッチモンドに侵攻しようと何度も試み、対する南軍はシェナンドア渓谷からワシントンD.C.上流のポトマック川を渡河して、北部のメリーランド州とペンシルベニア州に進出して側面から連邦首都に脅威を与えようとしたわけである。例えば最大の激戦地ゲティスバーグは、ペンシルベニア州の州都ハリスバーグの南南西、大都市フィラデルフィアからはほぼ西に位置している。
当時、兵力物量ともに劣勢であった南軍が敢えて壊滅する危険を冒して北部に侵攻しようとしたのは、合衆国政府のあるワシントンD.C.を取り囲んでいるメリーランド州が奴隷州であったため、積極攻勢をかけてその内部を崩壊させようと意図したことと、合衆国首都への兵站線であったボルティモア&オハイオ鉄道を恐らく遮断しようとしたためだろう。
それに加えて、リンカーンが1862年9月に南部連合支配地域での奴隷解放を宣言して大義名分を確立する迄の戦争前半の時期は、もし南軍が北部領土内で北軍を撃破することに成功すれば、英仏両大国の南部連合承認を引き出し得ることが十分想定され、そうなれば事実上南部の独立が国際的に承認される効果が期待できたからであった。
このあたりの南軍北部ヴァージニア軍司令官リー将軍によるリスキーな作戦の選択は、何となく中国三国志時代の蜀漢の丞相、諸葛亮(孔明)の魏に対する5回にわたる北伐(228年春~234年8月)作戦を髣髴とさせる。
筆者が思うに、諸葛亮もリー将軍もどちらも歴史上の名将に該当するだろうが、両者の違いとすれば、孔明が部下の将軍魏延の奇襲作戦案を容れずにあくまで正攻法に拘ったのに対して、リー将軍がストーンウォール・ジャクソンなど部下の勇将を駆使した奇襲作戦を逆に好んだことだろうか。
いずれにしても、リー将軍は、北軍ポトマック軍司令官マクレラン将軍が考案したリッチモンド攻略に向けたヴァージニア半島侵攻作戦を、1862年6月から7月にかけて大損害を受けながらも撃退することに成功した。そしてその勝利の好機を逃さず、同年9月にポトマック川を渡河してメリーランド州に侵攻したわけである。
しかし、この南軍北部ヴァージニア軍による第1次北部侵攻作戦は、9月17日に起きたポトマック軍とのアンティータムの戦いで、両軍とも1万人以上(合計で米国史上1日最大)の死傷者数を出して南軍は撤退に追い込まれた。
1862年11月、リンカーン大統領は撤退する南軍を追撃しなかったマクレラン将軍を解任して、アンブローズ・E・バーンサイド少将を後任のポトマック軍司令官に任命した。ちなみに、解任されたジョージ・B・マクレラン少将は1864年の大統領選挙で共和党から再選を狙うリンカーンに対抗する民主党候補に擁立されたが、大統領選には敗れている。
新任のバーンサイド軍司令官は、フレデリックスバーグでラパハノック川を渡河して南部連合首都リッチモンドを急襲しようとしたが、渡河が遅滞した上に12月上旬対岸に堅固な陣地を構築していたリー軍に対して無策な正面攻撃を仕掛け、その結果1万2千人以上の死傷者を出して敗退した。そうした不手際もあって、彼もたった81日間で司令官を解任されてしまったわけである。
北軍ポトマック軍3人目の司令官ジョセフ・フッカー少将は、1863年1月末に就任後、冬季の間は敗軍を休養させて兵力をリー軍の倍以上に再整備し、4月26日にフレデリックスバーグ対岸から自軍7個軍団中5個軍団を川の上流へ長途迂回行軍させて、南軍の背後を突く作戦を実施した。この時起きた戦いが、チャンセラーズヴィルの戦いであった。
筆者が興味深いのは、この戦いが双方とも敵の側面迂回奇襲と強襲という、ナポレオン戦争当時のような旧式戦術を駆使した点にある。北軍はその騎兵部隊を敵騎兵おびき寄せと連絡遮断のために大部分派遣したのだが、南軍騎兵部隊を率いるJ.E.B.スチュアート将軍は全くこの作戦に引っかからなかった。そのため、リー将軍は北軍の動きをほぼ的確に把握することが出来たのである。これが、南軍勝利の一番の勝因だろう。
次に、初めは積極的な迂回攻撃を仕掛けたフッカー将軍が、南軍の倍以上の兵力を持っていながら、5月1日はチャンセラーズヴィル周辺の樹海内での陣地構築に費やし、午後に樹海東方に開けた平地に向けて進軍を開始したものの、南軍の斥候部隊に遭遇した途端、陣地に戻って防衛線を張る消極策を選択したことも、いったいどういう意図だったのか、筆者には解せないところだ。
恐らく、本来偵察任務に当たるはずの北軍騎兵部隊が南軍牽制のために遠方に派遣されて当日不在だったため、南軍の動きが十分把握できずにフッカー将軍が弱気になったのだろう。これで主導権が劣勢であったリー将軍側に移ってしまった。これが、南軍第二の勝因と言えるだろう。
恐らく、本来偵察任務に当たるはずの北軍騎兵部隊が南軍牽制のために遠方に派遣されて当日不在だったため、南軍の動きが十分把握できずにフッカー将軍が弱気になったのだろう。これで主導権が劣勢であったリー将軍側に移ってしまった。これが、南軍第二の勝因と言えるだろう。
南軍第三の勝因は、フレデリックスバーグ防衛軍を残したため、さらに兵力が少なくなった自軍約4万人の兵力の過半をリー将軍が部下のストーンウォール・ジャクソンに委ね、北軍陣地のほぼ正面を大胆に迂回機動させたことだ。劣勢な兵力をさらに細分するとは、軍司令官に余程の勝算が無ければ決してできることでは無かったはずだ。
そのジャクソンの率いる南軍第2軍団は、夕刻(午後5時)から夜間にかけて西方から樹海内に突進して、夕食準備中で油断していたハワード将軍の率いる北軍第11軍団を急襲・撃破した。これはまるで、木曽義仲が平家の大軍を破った砺波山(倶利伽羅峠)の戦いのような、旧式の夜襲戦法に他ならないと言えるだろう。
しかし、歩兵のライフル銃による戦いが主流となった時代には、やはり夜襲戦法は危険を伴っていた。戦い当日の5月2日は月夜であったとは言え、日没後の暗がりの中、敵軍攻撃のための間道を見つけ出すべく、自ら偵察に出動したストーンウォール・・ジャクソンは、その帰途に味方の警戒兵による誤射を受けて左腕切断の負傷をしてしまい、5月10日に死亡してしまったのだった。
その結果、リー将軍は南軍随一の勇将で右腕だった部下を失った。ストーンウォール・ジャクソン将軍の死が、7月1日から3日にかけて起きたゲティスバーグの決戦で南軍が北軍攻撃に失敗し、戦局が大転換した1つの原因であったのではないだろうかと筆者は考える。