2016年4月13日水曜日

2347年ぶりのイラク北部モースル近郊での決戦の可能性(ガウガメラの戦いの分析その3)

 昨日の投稿で述べたように、BC331年夏にアレクサンドロス大王の率いる東征軍はタプサコス(恐らくカルケミシュ付近)でユーフラテス川を渡河した。ユーフラテス川とティグリス川の増水期は、エジプトのナイル川の様に定期的(7月から10月の間)ではないが、源流地である山岳地帯の雪解け水が流れ込む45月頃に川が氾濫することが多かったと思われる。メソポタミア地方で河川対策と灌漑が発展し、それが古代王権と文明の発達に大きく寄与したことは高校世界史の教科書にも掲載されている。

 さて、BC331年の決戦に向かったアレクサンドロスの軍勢は、比較的容易にユーフラテス川の渡河に成功したようだ。夏季でユーフラテスが減水期に入っていたのかもしれないが、バビロニアに集結していたペルシャ軍が河川に防衛線を敷くことを怠ったことも敵軍の渡河作戦を容易ならしめた大きな原因であっただろう。

 1世紀クラウディウス帝時代のローマの歴史家であったクルティウス・ルフスが著した『アレクサンドロス大王伝』によると、ダレイオスはペルシャの名門貴族で当時メソポタミアの総督(サトラップ)であったマザイオスに、6千人の兵を率いてユーフラテス川の浅瀬の渡河地点を確保することを命じている。

ちなみにこのマザイオスは、当時のアケメネス朝ペルシャ帝国軍においては最も優れた軍司令官であったようだ。実際に彼は、101日のガウガメラの戦いにおいてペルシャ軍の右翼部隊を指揮しており、その水際立った指揮ぶりでパルメニオンの率いていたマケドニア・ギリシャ同盟軍の左翼部隊をかなり圧倒している。クルティウス等の記述によると、彼は全軍の敗走後もアルベラに後退せずに敗残兵を纏めて敵中を突破してティグリス川西岸に渡河し、そのままバビロニアでアレクサンドロスに改めて降伏した後、ペルシャ人であったにもかかわらず後日バビロニア総督に任命されている。

 これは恐らく、アレクサンドロスがメソポタミア総督としてマザイオスが現地に精通していたことと、彼の能力を相当評価していた結果なのであろう。

 その有能な将軍のマザイオスであったが、実際には敵軍の接近を知るとあっさりと河川防御を放棄している。どうやら彼はユーフラテス川の北東を流れるティグリス川の流れの速さから、アレクサンドロスの軍勢が渡河することは困難であろうと判断したらしい。そこで、アレクサンドロス軍が直接バビロンに南下するだろうと想定して、タプサコスから南方で敵の糧秣確保を妨げるための焦土作戦を実施したのであった。

 ところがアレクサンドロスは真夏で酷暑のメソポタミアを南進する作戦を取らず、ユーフラテス渡河地点からそのまま東進してニネヴェに向かった。多分、タプサコスからニネヴェ、さらにはアルベラまではBC5世紀にダレイオス1世が整備した「王の道」が当時通じていたから、アレクサンドロス大王の軍勢はそのルートを進撃してティグリス川の渡河地点に向かったのであろう。高地でバビロニアよりは涼しいニネヴェやアルベラ付近で、糧秣を十分確保しようと大王が意図していたのかもしれない。

 いずれにしても、アレクサンドロス軍は急流の危険を顧みずにティグリス川を完全武装のまま、兵士たちは胸の上まで水に浸かりながら渡渉した。恐らく舟橋をかけられない程、川の流れが速かったのだろう。まるで我が国の宇治川の合戦の様だ。実際、アレクサンドロスは兵士たちに腕を組んで身を寄せ合って一塊の隊形を作らせて、何とか全軍を渡河させることに成功したようだ。あるいは源平合戦の宇治平等院の戦いの時のように、騎兵部隊は馬筏を形成して渡河したのかもしれない。

 その無謀な渡河作戦で疲労困憊した兵士たちを休息させるため、クルティウスの記述によるとアレクサンドロスは2日間(920から21日か)、渡河地点で宿営した模様である。

 その頃、ダレイオスの率いていたペルシャ軍主力部隊はバビロニアを既に進発して、ティグリス川東岸のアルベラ付近に軍を集結させていたと言われる。そのダレイオスの意図は、狭隘な地形で大軍を十分に展開させることが出来なかったイッソスの敗戦の結果を踏まえて、アルベラとニネヴェの間の広い平原地帯で敵に決戦を挑もうと考えた結果であったらしい。そのため、連携不十分な混成部隊からなる歩兵部隊の展開訓練や、鎌付き戦車の走路まで予め構築していた模様である(だが、仮に事前に戦車の走路を作っても敵がそこに展開するとは限らないし、実際にその目論みはほとんど無駄になったわけだが)。

 なお、焦土作戦に従事していたマザイオスの別動隊の一部である1千人の騎兵部隊が敵のティグリス渡河を阻止するために派遣されたが、これは渡河後既に戦闘態勢を整えていたマケドニア軍騎兵部隊に一蹴されてしまったと記録されている。

 アレクサンドロス軍はアルベラ方向に向かって東進する途中、渡河後4日目に敵の騎兵部隊と衝突し、その捕虜の口からダレイオス軍がガウガメラ(現在のテル・ゴメル、モースルつまり古代ニネヴェから約20km東方の地点)に展開していることを知ったとされる。なぜか、アレクサンドロスは悠然とその地にさらに4日間留まった後、丘から平原に降りて敵の大軍を目視で発見し、その翌日戦闘態勢でペルシャ軍に向けて進撃し、101日を決戦日と定めて兵士の士気を鼓舞し、宿営したとされる。

 この間のアレクサンドロス大王の態度が、何とも悠長な様子に見えるのが不思議だ。実際に101日の決戦の日になっても、既に太陽が高くなってから漸く大王が目を覚ましたと言われている。これは、東に向かって進撃する自軍の目が眩まないように、日が十分昇ってから決戦を挑むというアレクサンドロスの深い配慮だったのかもしれない。

 これに対するダレイオスは自分から先制攻撃を仕掛けることもなく、敵の夜襲を恐れて全軍にピリピリとした警戒態勢を終夜とらせたおかげで、101日の決戦当日には兵士たちが初めから疲れてしまっていたとも言われている。イッソスで一度大敗しているだけに、ダレイオス3世は過剰に慎重になり過ぎていたのかもしれない。

 結果的には、両翼を斜線形に布陣するとともにギリシャ軍を第2線防御に配置して、大軍であったペルシャ軍の包囲攻撃を阻止することに成功したアレクサンドロス軍が、ダレイオスの縁戚でバクトリア総督のベッソスが率いたペルシャ軍左翼部隊をダレイオスの中央部隊と分断することに成功した。

そして、アレクサンドロス自身が直接指揮した右翼のヘタイロイ騎兵部隊と近衛歩兵部隊の楔をダレイオス本陣に突入させてダレイオス直属部隊の戦列を崩壊させたため、パルメニオンの率いていた左翼ではマザイオスの騎兵部隊に苦戦を強いられたマケドニアとギリシャ同盟軍が、結果的にペルシャ軍に大勝したのであった。クルティウスの『大王伝』によると、ガウガメラの戦いにおけるアレクサンドロス軍の戦死者は3百人、ペルシャ軍の死者は眉唾な数字だが凡そ4万人であったという事らしい。

 敗戦後アルベラまで逃走したダレイオスはアレクサンドロスの激しい追及を何とか逃れ、その後アルメニアを経由して、11月頃には古代メディア王国の首都でアケメネス朝の夏季王宮が存在したエクバタナ(現在のハマダーン)に逃走したとされる。アッリアノスの『東征記』によると、彼に随ったのはバクトリア人騎兵とペルシャ人精鋭部隊「不死隊」の一部、それにギリシャ人傭兵わずか2千人程が合流しただけらしいから、ダレイオス3世には、もはやアレクサンドロスに対して再度の決戦を挑むだけの十分な兵力を動員することは困難な状況に陥ったようである。

 実際、アレクサンドロス軍がBC3305月下旬に既に占領していたペルシャの首都ペルセポリスから、エクバタナに進撃を開始すると、ダレイオスは騎兵3千人と歩兵6千人、そして7千タラントンの軍資金を抱えて縁戚ベッソスが総督を務めていたバクトリアの首都バクトラに向けて逃避するしか方法が無かったのである。

結局、その後彼はそのベッソスに裏切られて捕縛され、 BC3307月か8月頃に殺害されてしまったのであった。この辺りの悲劇は、何だか信頼していた小山田信茂の裏切りにあって天正101582)年311日、天目山麓田野で自害に追い込まれた武田勝頼の悲劇を髣髴とさせるものがあるだろう。

2016年4月12日火曜日

2347年ぶりのイラク北部モースル近郊での決戦の可能性(ガウガメラの戦いの分析その2)

 2世紀ローマ帝国のトラヤヌス帝とハドリアヌス帝時代のギリシャ人政治家かつ歴史家であったアッリアノスが著した『アレクサンドロス大王東征記』には、エジプトから帰還後、大王がガウガメラの決戦に至るまでの進路について、以下のような記述がある。

すなわち、BC331年春に(アレクサンドロスはエジプトの)メンフィスを発ってティルスに至り、そこから内陸に転じて、ヘカトンバイオンの月(78月)にユーフラテス川の渡河点であるタプサコスに到着した、ということである。問題は、渡河地点であるタプサコスの位置と「内陸に転じて」の意味をどう考えるかという点にある。

 まず、フェニキア(レバノン)最大の港湾都市であったティルスからアレクサンドロスの軍勢が内陸に転進したとすると、常識的に考えればレバノン山脈とアンチレバノン山脈を越えてダマスカス方面に向かったことになるだろう。あるいは、ダマスカスには向かわず、両山脈の間に広がるベッカー高原を抜けて直接ホムスに到達したのかもしれない。

 問題はダマスカスかホムスから、その後大王の軍が北方のアレッポに向かったのか、あるいは東方のパルミラ方面に向かったのかが判明しないことである。仮に前者のルートであったならば、アレッポから軍勢は東進してカルケミシュでユーフラテス川を渡河したことになる。もしも後者のルートであったならば、現在ISが首都としているラッカの辺りで軍が渡河したのかもしれない。したがって、タプサコスの位置が特定できないのである。

 記録によれば、アレクサンドロスは2本の舟橋をかけて軍勢を渡したとされるが、渡船も利用した可能性がある。そうであるならば、やはりカルケミシュ付近でユーフラテス川を渡河したと考えるべきかもしれない。先の投稿で述べたとおり、古来カルケミシュはユーフラテス渡河の交通の要衝であり、東進してメソポタミア北部の首邑ニネヴェに直結していたから、やはりこちらのルートを大王が選択したと見るべきだろう。

 また、パルミラ方面を経由するルートは大軍勢がシリアの砂漠地帯を横断することになるから、兵士のみならず騎兵部隊や輜重部隊の軍馬や騾馬に与える糧秣の調達が恐らく困難だったことも、アレクサンドロスがアレッポとカルケミシュ経由の無難なルートを進撃したことの傍証となるのではないかと思われる。

 さて、アレクサンドロスの軍勢がユーフラテス川を渡った頃、敵のダレイオスはバビロンに決戦兵力を集結させていた様だ。その兵力はアッリアノスによると歩兵100万人、騎兵4万人、鎌付き戦車200両というのだが、いくらペルシャ軍が総力を挙げて肥沃な三日月地帯の中心であったバビロニアに集結したとしても、これはいささか多すぎる明らかな誇張であろう。当時の軍隊に、100万人以上の兵力を給養させるだけの補給能力があったとは到底思えない。ペルシャ軍はせいぜい総兵力10万人位で、アレクサンドロス軍の2倍といったところが真相ではないだろうか。

 BC33310月のイッソスの戦いの敗戦で奇しくも露呈したように、マケドニア・ギリシャ同盟軍のファランクス(重装歩兵の密集方陣)と比べてペルシャ軍の弱点は、歩兵の装備が脆弱であったことと、各地の総督に率いられた帝国支配下諸民族の混成部隊で兵力は多いが必ずしも統制と連携が取れていない点であった。

 そのため、ダレイオスは多くのギリシャ人傭兵部隊を抱えて弱点を補っていたわけだが、歩兵で6m位のサリッサ(長槍)で武装したファランクスに対抗するため、ダレイオスは剣と槍の長さをギリシャ風に改造したらしい。だが、結局は諸民族混成部隊の弱点からか、傭兵部隊を除いてファランクスの実戦での運用までは到達できなかったようだ。つまり、最後までペルシャ歩兵部隊はアレクサンドロスの歩兵部隊に劣勢を強いられたと思われる。

 また、騎兵について見れば、両軍とも当時は鐙が発明されていなかったから馬上での安定性が無く、スキタイ人の様な一部の遊牧騎馬民族を除いて弓射騎兵としての運用は恐らく困難だっただろう。したがって、サリッサと剣や重装備で武装したマケドニア軍のヘイタイロイやテッサリア騎兵の方が機動打撃力の点でも、ペルシャ軍より遥かに優越していたのだろう。

実際、三大決戦のいずれも、アレクサンドロス大王が直接率いた騎兵部隊の打撃力によってペルシャ軍の戦列が破られて敗戦している。このような、中央ないし左翼に配置した重装歩兵のファランクスが敵の攻撃を引き受けて防戦している間に、右翼の重装騎兵部隊を敵の戦列にぶつけて包囲あるいは突破する戦術は、アレクサンドロスが得意としたいわゆる「鉄床戦術」だったわけである。

 もう1つの勝敗を決した要素として、アレクサンドロスがBC331年当時まだ25歳で、50歳位の年齢であったダレイオスと比べると非常に若くて気力に溢れており、しかも自らを、トロイア戦争を舞台にしたホメーロスの叙事詩『イーリアス』の主人公である英雄アキレウスになぞらえていた気配があった事だろう。

そのため、戦場でのアレクサンドロスは自ら先頭に立って、何度も敵陣に斬り込むようなギリシャ神話上の英雄並みの蛮勇を常に奮っていた。彼が実戦で負傷し、戦死しかけたことも少なくない。これほど勇敢な騎兵指揮官は、恐らく歴史上アレクサンドロス大王の他には、ナポレオンの妹婿であったジョアシャン・ミュラ元帥がいるくらいではないだろうか。

 結局、イッソスの戦いでもガウガメラの戦いでも、騎兵部隊の先頭に立って本陣に肉薄してきたアレクサンドロスの鬼気迫る攻撃にダレイオスが怖気付いてしまったことが、ペルシャ軍の戦列崩壊と敗戦に繋がってしまったのであろう。唯一マケドニア・ギリシャ同盟軍が保有していなかった鎌付き戦車部隊についても、戦場では有効活用できなかった点がペルシャ軍の大いなる誤算であっただろう。

 さらに、戦場に集結し決戦し敗走あるいは追撃に至った実際の両軍の動きについても、考察しておくべき中々興味深い諸問題があるので、次回の投稿でその点に関する筆者の分析を改めて述べてみたいと思う。

2016年4月11日月曜日

2347年ぶりのイラク北部モースル近郊での決戦の可能性(ガウガメラの戦いの分析その1)

 アメリカが主導する有志連合軍の空爆によって、ティグリス川とユーフラテス川の両岸地帯(メソポタミア)の一部を実効支配するIS(イスラーム国)の支配領域が現在までに40%程度縮小したとする見方がある。そうした見地に立つと、恐らくIS支配下の油田地帯から産出される原油量も日量1万から4万バレル(2014年夏季IS勢力最盛期の約半分)程度にまで減少し、その活動資金の調達はさらに困難になりつつあると思われる。

 現在、イラク国内におけるISの最大かつ最後の拠点は北部油田地帯に位置する大都市モースルであるが、このモースルはイラクの首都バグダードの北西約400km弱のティグリス川両岸を跨ぐ地点に市街地が広がっている。2016年のイラク政府軍の最大目標は、有志連合軍による空爆支援の下でモースルをIS勢力から奪還して、イラク国内からISを追い出すことであろう。これは事実上、イラク政府軍とIS武装勢力との最終決戦となる公算が強い。イラク政府側は遅々としながらも、そのための戦力整備を着々と進めていることだろう。

 このモースルのティグリス川東岸には、古代都市ニネヴェの遺跡が存在する。ニネヴェは古代アッシリア帝国のセンナケリブ王が紀元前8世紀末に都とした場所である。ニネヴェからクルド自治区の首都アルビールまでは85km程度の距離しかない。アルビールは現在もモースルと重要な幹線道路でつながっているが、この幹線道路をモースルからさらに西に向かうと、シリア、トルコ領内を進んでユーフラテス川で最も浅い重要な渡河地点があるカルケミシュ(シリア領内ジャラーブルス付近)に到達する。

 聖書のエレミヤ書によると、紀元前7世紀末(BC605年頃)に新バビロニア王国のネブカドネザル2世とエジプト第26王朝のファラオであったネコ2世がシリア支配をめぐってカルケミシュで戦い、その結果エジプト軍が敗北したとの記述がある。つまり、古来カルケミシュは、メソポタミアとエジプトの両勢力がシリア支配をめぐって支配権を争った、戦略的要衝の地であったわけなのである。

 筆者が本投稿で述べる2347年ぶりのモースル近郊での決戦というのは、今年展開されるかもしれないイラク政府軍とISとの決戦のことであるが、2347年前、つまりBC331年に起きた決戦とは、古代マケドニアのアレクサンドロス3世(大王)がアケメネス朝ペルシャ帝国を滅亡させた東方遠征の最中に起きた三大決戦の最後、つまりガウガメラの戦いを意味している。

 アレクサンドロスは暗殺された父フィリッポス2世のあとマケドニアの王位を継承した後、ギリシャ国内の反乱を鎮圧して父が生前に企図していたペルシャ戦争への復讐を大義名分とした東征にBC334年に着手し、ヘレスポントス(ダーダネルス海峡)を渡って5月にグラニコス河畔の戦いでペルシャのサトラップ(太守あるいは総督)達とギリシャ人傭兵の軍勢を撃破して小アジアを征服し、翌年10月には以前の投稿で述べたイッソスの戦いで、ペルシャから家族連れの大軍で親征してきたアケメネス朝の「諸王の王」ダレイオス3世の軍勢も打ち破って王の母親と妻子を捕虜にした上でレバント地方(シリア及びフェニキア)を制圧した。この際には、BC332年に唯一抵抗した港湾都市ティルスを7か月かかった激しい攻城戦で攻略し、約1万人を殺し、約3万人の市民を奴隷に売却したと言われている。

 その後、アレクサンドロス大王はアケメネス朝の支配が脆弱だったエジプトに侵攻して解放者としてファラオに祭り上げられるとともに、最初の都市アレキサンドリアを建設したのは有名である。さて、小アジア、レバント、そしてエジプトといったペルシャ帝国の西方領土を掌握した後は、当然メソポタミアを攻略することが大王の次の戦略目標となった。

 ところが、マケドニアの戦力に圧倒されたダレイオスの方は、多分アレクサンドロスのエジプトからフェニキアへの帰還後のBC331年春に、2回領土の割譲と和睦の提案を行っている。まず、最初の提案では、小アジアのハリュス(クズルルマク)川から西側の領土、すなわちリュディアとフリュギア(あるいはキリキアも含む)地方と2万タラントン(1タラントン=約26kgか)の銀をアレクサンドロスに贈呈するというものだった。だが、既にエジプトまで征服していたアレクサンドロスの立場からすれば、この提案では征服地から撤退することを意味しているから受け入れるはずが無いだろう。

 そこでダレイオスはさらにユーフラテス川から西側の領土の割譲と3万タラントンの銀、そしてアレクサンドロスを娘婿として帝国の共同統治者とする再提案を行ったとされる。この提案に対し、マケドニア軍の副将で大王の補佐役であった老将パルメニオンはペルシャとの和睦を進言したとされるが、アレクサンドロスは「太陽が2つあれば宇宙の秩序が維持できないように、人間世界でも2人の王は存続できない」趣旨を使者に伝えて、名誉のために自分と決戦を挑むか、自分の命令に服従して王として生きるか、ダレイオスに選択するように強要したと言われている。アレクサンドロスは、余程自分の武力に自信があったのだろう。

 会議後、ギリシャ同盟軍を含む大王の軍勢(約5万人と言われる)はメソポタミアに向かったが、その頃捕虜として連行していたダレイオスの妻で実妹であったスタテイラが死亡したため、アレクサンドロスは彼女を盛大に弔ったとされる。

当時の大王の軍勢の進路は不明な点もあるが、まずカルケミシュでユーフラテス川を舟橋をかけて渡河し、その後現在の幹線道路と同じルートをそのまま東進してティグリス川を渡河してニネヴェに至ったのではないだろうか。その後、BC331101日にニネヴェからアルベラ(現在のアルビール)に向かう途中のガウガメラで、マケドニアとペルシャ両軍の3回目で最後の決戦が行われたのだが、その決戦に関する筆者の分析については次回の投稿で述べてみたいと思う。