昨日の投稿で述べたように、BC331年夏にアレクサンドロス大王の率いる東征軍はタプサコス(恐らくカルケミシュ付近)でユーフラテス川を渡河した。ユーフラテス川とティグリス川の増水期は、エジプトのナイル川の様に定期的(7月から10月の間)ではないが、源流地である山岳地帯の雪解け水が流れ込む4、5月頃に川が氾濫することが多かったと思われる。メソポタミア地方で河川対策と灌漑が発展し、それが古代王権と文明の発達に大きく寄与したことは高校世界史の教科書にも掲載されている。
さて、BC331年の決戦に向かったアレクサンドロスの軍勢は、比較的容易にユーフラテス川の渡河に成功したようだ。夏季でユーフラテスが減水期に入っていたのかもしれないが、バビロニアに集結していたペルシャ軍が河川に防衛線を敷くことを怠ったことも敵軍の渡河作戦を容易ならしめた大きな原因であっただろう。
1世紀クラウディウス帝時代のローマの歴史家であったクルティウス・ルフスが著した『アレクサンドロス大王伝』によると、ダレイオスはペルシャの名門貴族で当時メソポタミアの総督(サトラップ)であったマザイオスに、6千人の兵を率いてユーフラテス川の浅瀬の渡河地点を確保することを命じている。
ちなみにこのマザイオスは、当時のアケメネス朝ペルシャ帝国軍においては最も優れた軍司令官であったようだ。実際に彼は、10月1日のガウガメラの戦いにおいてペルシャ軍の右翼部隊を指揮しており、その水際立った指揮ぶりでパルメニオンの率いていたマケドニア・ギリシャ同盟軍の左翼部隊をかなり圧倒している。クルティウス等の記述によると、彼は全軍の敗走後もアルベラに後退せずに敗残兵を纏めて敵中を突破してティグリス川西岸に渡河し、そのままバビロニアでアレクサンドロスに改めて降伏した後、ペルシャ人であったにもかかわらず後日バビロニア総督に任命されている。
これは恐らく、アレクサンドロスがメソポタミア総督としてマザイオスが現地に精通していたことと、彼の能力を相当評価していた結果なのであろう。
その有能な将軍のマザイオスであったが、実際には敵軍の接近を知るとあっさりと河川防御を放棄している。どうやら彼はユーフラテス川の北東を流れるティグリス川の流れの速さから、アレクサンドロスの軍勢が渡河することは困難であろうと判断したらしい。そこで、アレクサンドロス軍が直接バビロンに南下するだろうと想定して、タプサコスから南方で敵の糧秣確保を妨げるための焦土作戦を実施したのであった。
ところがアレクサンドロスは真夏で酷暑のメソポタミアを南進する作戦を取らず、ユーフラテス渡河地点からそのまま東進してニネヴェに向かった。多分、タプサコスからニネヴェ、さらにはアルベラまではBC5世紀にダレイオス1世が整備した「王の道」が当時通じていたから、アレクサンドロス大王の軍勢はそのルートを進撃してティグリス川の渡河地点に向かったのであろう。高地でバビロニアよりは涼しいニネヴェやアルベラ付近で、糧秣を十分確保しようと大王が意図していたのかもしれない。
いずれにしても、アレクサンドロス軍は急流の危険を顧みずにティグリス川を完全武装のまま、兵士たちは胸の上まで水に浸かりながら渡渉した。恐らく舟橋をかけられない程、川の流れが速かったのだろう。まるで我が国の宇治川の合戦の様だ。実際、アレクサンドロスは兵士たちに腕を組んで身を寄せ合って一塊の隊形を作らせて、何とか全軍を渡河させることに成功したようだ。あるいは源平合戦の宇治平等院の戦いの時のように、騎兵部隊は馬筏を形成して渡河したのかもしれない。
その無謀な渡河作戦で疲労困憊した兵士たちを休息させるため、クルティウスの記述によるとアレクサンドロスは2日間(9月20から21日か)、渡河地点で宿営した模様である。
その頃、ダレイオスの率いていたペルシャ軍主力部隊はバビロニアを既に進発して、ティグリス川東岸のアルベラ付近に軍を集結させていたと言われる。そのダレイオスの意図は、狭隘な地形で大軍を十分に展開させることが出来なかったイッソスの敗戦の結果を踏まえて、アルベラとニネヴェの間の広い平原地帯で敵に決戦を挑もうと考えた結果であったらしい。そのため、連携不十分な混成部隊からなる歩兵部隊の展開訓練や、鎌付き戦車の走路まで予め構築していた模様である(だが、仮に事前に戦車の走路を作っても敵がそこに展開するとは限らないし、実際にその目論みはほとんど無駄になったわけだが)。
なお、焦土作戦に従事していたマザイオスの別動隊の一部である1千人の騎兵部隊が敵のティグリス渡河を阻止するために派遣されたが、これは渡河後既に戦闘態勢を整えていたマケドニア軍騎兵部隊に一蹴されてしまったと記録されている。
アレクサンドロス軍はアルベラ方向に向かって東進する途中、渡河後4日目に敵の騎兵部隊と衝突し、その捕虜の口からダレイオス軍がガウガメラ(現在のテル・ゴメル、モースルつまり古代ニネヴェから約20km東方の地点)に展開していることを知ったとされる。なぜか、アレクサンドロスは悠然とその地にさらに4日間留まった後、丘から平原に降りて敵の大軍を目視で発見し、その翌日戦闘態勢でペルシャ軍に向けて進撃し、10月1日を決戦日と定めて兵士の士気を鼓舞し、宿営したとされる。
この間のアレクサンドロス大王の態度が、何とも悠長な様子に見えるのが不思議だ。実際に10月1日の決戦の日になっても、既に太陽が高くなってから漸く大王が目を覚ましたと言われている。これは、東に向かって進撃する自軍の目が眩まないように、日が十分昇ってから決戦を挑むというアレクサンドロスの深い配慮だったのかもしれない。
これに対するダレイオスは自分から先制攻撃を仕掛けることもなく、敵の夜襲を恐れて全軍にピリピリとした警戒態勢を終夜とらせたおかげで、10月1日の決戦当日には兵士たちが初めから疲れてしまっていたとも言われている。イッソスで一度大敗しているだけに、ダレイオス3世は過剰に慎重になり過ぎていたのかもしれない。
結果的には、両翼を斜線形に布陣するとともにギリシャ軍を第2線防御に配置して、大軍であったペルシャ軍の包囲攻撃を阻止することに成功したアレクサンドロス軍が、ダレイオスの縁戚でバクトリア総督のベッソスが率いたペルシャ軍左翼部隊をダレイオスの中央部隊と分断することに成功した。
そして、アレクサンドロス自身が直接指揮した右翼のヘタイロイ騎兵部隊と近衛歩兵部隊の楔をダレイオス本陣に突入させてダレイオス直属部隊の戦列を崩壊させたため、パルメニオンの率いていた左翼ではマザイオスの騎兵部隊に苦戦を強いられたマケドニアとギリシャ同盟軍が、結果的にペルシャ軍に大勝したのであった。クルティウスの『大王伝』によると、ガウガメラの戦いにおけるアレクサンドロス軍の戦死者は3百人、ペルシャ軍の死者は眉唾な数字だが凡そ4万人であったという事らしい。
敗戦後アルベラまで逃走したダレイオスはアレクサンドロスの激しい追及を何とか逃れ、その後アルメニアを経由して、11月頃には古代メディア王国の首都でアケメネス朝の夏季王宮が存在したエクバタナ(現在のハマダーン)に逃走したとされる。アッリアノスの『東征記』によると、彼に随ったのはバクトリア人騎兵とペルシャ人精鋭部隊「不死隊」の一部、それにギリシャ人傭兵わずか2千人程が合流しただけらしいから、ダレイオス3世には、もはやアレクサンドロスに対して再度の決戦を挑むだけの十分な兵力を動員することは困難な状況に陥ったようである。
実際、アレクサンドロス軍がBC330年5月下旬に既に占領していたペルシャの首都ペルセポリスから、エクバタナに進撃を開始すると、ダレイオスは騎兵3千人と歩兵6千人、そして7千タラントンの軍資金を抱えて縁戚ベッソスが総督を務めていたバクトリアの首都バクトラに向けて逃避するしか方法が無かったのである。
結局、その後彼はそのベッソスに裏切られて捕縛され、 BC330年7月か8月頃に殺害されてしまったのであった。この辺りの悲劇は、何だか信頼していた小山田信茂の裏切りにあって天正10(1582)年3月11日、天目山麓田野で自害に追い込まれた武田勝頼の悲劇を髣髴とさせるものがあるだろう。