2世紀ローマ帝国のトラヤヌス帝とハドリアヌス帝時代のギリシャ人政治家かつ歴史家であったアッリアノスが著した『アレクサンドロス大王東征記』には、エジプトから帰還後、大王がガウガメラの決戦に至るまでの進路について、以下のような記述がある。
すなわち、BC331年春に(アレクサンドロスはエジプトの)メンフィスを発ってティルスに至り、そこから内陸に転じて、ヘカトンバイオンの月(7・8月)にユーフラテス川の渡河点であるタプサコスに到着した、ということである。問題は、渡河地点であるタプサコスの位置と「内陸に転じて」の意味をどう考えるかという点にある。
まず、フェニキア(レバノン)最大の港湾都市であったティルスからアレクサンドロスの軍勢が内陸に転進したとすると、常識的に考えればレバノン山脈とアンチレバノン山脈を越えてダマスカス方面に向かったことになるだろう。あるいは、ダマスカスには向かわず、両山脈の間に広がるベッカー高原を抜けて直接ホムスに到達したのかもしれない。
問題はダマスカスかホムスから、その後大王の軍が北方のアレッポに向かったのか、あるいは東方のパルミラ方面に向かったのかが判明しないことである。仮に前者のルートであったならば、アレッポから軍勢は東進してカルケミシュでユーフラテス川を渡河したことになる。もしも後者のルートであったならば、現在ISが首都としているラッカの辺りで軍が渡河したのかもしれない。したがって、タプサコスの位置が特定できないのである。
記録によれば、アレクサンドロスは2本の舟橋をかけて軍勢を渡したとされるが、渡船も利用した可能性がある。そうであるならば、やはりカルケミシュ付近でユーフラテス川を渡河したと考えるべきかもしれない。先の投稿で述べたとおり、古来カルケミシュはユーフラテス渡河の交通の要衝であり、東進してメソポタミア北部の首邑ニネヴェに直結していたから、やはりこちらのルートを大王が選択したと見るべきだろう。
また、パルミラ方面を経由するルートは大軍勢がシリアの砂漠地帯を横断することになるから、兵士のみならず騎兵部隊や輜重部隊の軍馬や騾馬に与える糧秣の調達が恐らく困難だったことも、アレクサンドロスがアレッポとカルケミシュ経由の無難なルートを進撃したことの傍証となるのではないかと思われる。
さて、アレクサンドロスの軍勢がユーフラテス川を渡った頃、敵のダレイオスはバビロンに決戦兵力を集結させていた様だ。その兵力はアッリアノスによると歩兵100万人、騎兵4万人、鎌付き戦車200両というのだが、いくらペルシャ軍が総力を挙げて肥沃な三日月地帯の中心であったバビロニアに集結したとしても、これはいささか多すぎる明らかな誇張であろう。当時の軍隊に、100万人以上の兵力を給養させるだけの補給能力があったとは到底思えない。ペルシャ軍はせいぜい総兵力10万人位で、アレクサンドロス軍の2倍といったところが真相ではないだろうか。
BC333年10月のイッソスの戦いの敗戦で奇しくも露呈したように、マケドニア・ギリシャ同盟軍のファランクス(重装歩兵の密集方陣)と比べてペルシャ軍の弱点は、歩兵の装備が脆弱であったことと、各地の総督に率いられた帝国支配下諸民族の混成部隊で兵力は多いが必ずしも統制と連携が取れていない点であった。
そのため、ダレイオスは多くのギリシャ人傭兵部隊を抱えて弱点を補っていたわけだが、歩兵で6m位のサリッサ(長槍)で武装したファランクスに対抗するため、ダレイオスは剣と槍の長さをギリシャ風に改造したらしい。だが、結局は諸民族混成部隊の弱点からか、傭兵部隊を除いてファランクスの実戦での運用までは到達できなかったようだ。つまり、最後までペルシャ歩兵部隊はアレクサンドロスの歩兵部隊に劣勢を強いられたと思われる。
また、騎兵について見れば、両軍とも当時は鐙が発明されていなかったから馬上での安定性が無く、スキタイ人の様な一部の遊牧騎馬民族を除いて弓射騎兵としての運用は恐らく困難だっただろう。したがって、サリッサと剣や重装備で武装したマケドニア軍のヘイタイロイやテッサリア騎兵の方が機動打撃力の点でも、ペルシャ軍より遥かに優越していたのだろう。
実際、三大決戦のいずれも、アレクサンドロス大王が直接率いた騎兵部隊の打撃力によってペルシャ軍の戦列が破られて敗戦している。このような、中央ないし左翼に配置した重装歩兵のファランクスが敵の攻撃を引き受けて防戦している間に、右翼の重装騎兵部隊を敵の戦列にぶつけて包囲あるいは突破する戦術は、アレクサンドロスが得意としたいわゆる「鉄床戦術」だったわけである。
もう1つの勝敗を決した要素として、アレクサンドロスがBC331年当時まだ25歳で、50歳位の年齢であったダレイオスと比べると非常に若くて気力に溢れており、しかも自らを、トロイア戦争を舞台にしたホメーロスの叙事詩『イーリアス』の主人公である英雄アキレウスになぞらえていた気配があった事だろう。
そのため、戦場でのアレクサンドロスは自ら先頭に立って、何度も敵陣に斬り込むようなギリシャ神話上の英雄並みの蛮勇を常に奮っていた。彼が実戦で負傷し、戦死しかけたことも少なくない。これほど勇敢な騎兵指揮官は、恐らく歴史上アレクサンドロス大王の他には、ナポレオンの妹婿であったジョアシャン・ミュラ元帥がいるくらいではないだろうか。
結局、イッソスの戦いでもガウガメラの戦いでも、騎兵部隊の先頭に立って本陣に肉薄してきたアレクサンドロスの鬼気迫る攻撃にダレイオスが怖気付いてしまったことが、ペルシャ軍の戦列崩壊と敗戦に繋がってしまったのであろう。唯一マケドニア・ギリシャ同盟軍が保有していなかった鎌付き戦車部隊についても、戦場では有効活用できなかった点がペルシャ軍の大いなる誤算であっただろう。
さらに、戦場に集結し決戦し敗走あるいは追撃に至った実際の両軍の動きについても、考察しておくべき中々興味深い諸問題があるので、次回の投稿でその点に関する筆者の分析を改めて述べてみたいと思う。
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