2016年4月11日月曜日

2347年ぶりのイラク北部モースル近郊での決戦の可能性(ガウガメラの戦いの分析その1)

 アメリカが主導する有志連合軍の空爆によって、ティグリス川とユーフラテス川の両岸地帯(メソポタミア)の一部を実効支配するIS(イスラーム国)の支配領域が現在までに40%程度縮小したとする見方がある。そうした見地に立つと、恐らくIS支配下の油田地帯から産出される原油量も日量1万から4万バレル(2014年夏季IS勢力最盛期の約半分)程度にまで減少し、その活動資金の調達はさらに困難になりつつあると思われる。

 現在、イラク国内におけるISの最大かつ最後の拠点は北部油田地帯に位置する大都市モースルであるが、このモースルはイラクの首都バグダードの北西約400km弱のティグリス川両岸を跨ぐ地点に市街地が広がっている。2016年のイラク政府軍の最大目標は、有志連合軍による空爆支援の下でモースルをIS勢力から奪還して、イラク国内からISを追い出すことであろう。これは事実上、イラク政府軍とIS武装勢力との最終決戦となる公算が強い。イラク政府側は遅々としながらも、そのための戦力整備を着々と進めていることだろう。

 このモースルのティグリス川東岸には、古代都市ニネヴェの遺跡が存在する。ニネヴェは古代アッシリア帝国のセンナケリブ王が紀元前8世紀末に都とした場所である。ニネヴェからクルド自治区の首都アルビールまでは85km程度の距離しかない。アルビールは現在もモースルと重要な幹線道路でつながっているが、この幹線道路をモースルからさらに西に向かうと、シリア、トルコ領内を進んでユーフラテス川で最も浅い重要な渡河地点があるカルケミシュ(シリア領内ジャラーブルス付近)に到達する。

 聖書のエレミヤ書によると、紀元前7世紀末(BC605年頃)に新バビロニア王国のネブカドネザル2世とエジプト第26王朝のファラオであったネコ2世がシリア支配をめぐってカルケミシュで戦い、その結果エジプト軍が敗北したとの記述がある。つまり、古来カルケミシュは、メソポタミアとエジプトの両勢力がシリア支配をめぐって支配権を争った、戦略的要衝の地であったわけなのである。

 筆者が本投稿で述べる2347年ぶりのモースル近郊での決戦というのは、今年展開されるかもしれないイラク政府軍とISとの決戦のことであるが、2347年前、つまりBC331年に起きた決戦とは、古代マケドニアのアレクサンドロス3世(大王)がアケメネス朝ペルシャ帝国を滅亡させた東方遠征の最中に起きた三大決戦の最後、つまりガウガメラの戦いを意味している。

 アレクサンドロスは暗殺された父フィリッポス2世のあとマケドニアの王位を継承した後、ギリシャ国内の反乱を鎮圧して父が生前に企図していたペルシャ戦争への復讐を大義名分とした東征にBC334年に着手し、ヘレスポントス(ダーダネルス海峡)を渡って5月にグラニコス河畔の戦いでペルシャのサトラップ(太守あるいは総督)達とギリシャ人傭兵の軍勢を撃破して小アジアを征服し、翌年10月には以前の投稿で述べたイッソスの戦いで、ペルシャから家族連れの大軍で親征してきたアケメネス朝の「諸王の王」ダレイオス3世の軍勢も打ち破って王の母親と妻子を捕虜にした上でレバント地方(シリア及びフェニキア)を制圧した。この際には、BC332年に唯一抵抗した港湾都市ティルスを7か月かかった激しい攻城戦で攻略し、約1万人を殺し、約3万人の市民を奴隷に売却したと言われている。

 その後、アレクサンドロス大王はアケメネス朝の支配が脆弱だったエジプトに侵攻して解放者としてファラオに祭り上げられるとともに、最初の都市アレキサンドリアを建設したのは有名である。さて、小アジア、レバント、そしてエジプトといったペルシャ帝国の西方領土を掌握した後は、当然メソポタミアを攻略することが大王の次の戦略目標となった。

 ところが、マケドニアの戦力に圧倒されたダレイオスの方は、多分アレクサンドロスのエジプトからフェニキアへの帰還後のBC331年春に、2回領土の割譲と和睦の提案を行っている。まず、最初の提案では、小アジアのハリュス(クズルルマク)川から西側の領土、すなわちリュディアとフリュギア(あるいはキリキアも含む)地方と2万タラントン(1タラントン=約26kgか)の銀をアレクサンドロスに贈呈するというものだった。だが、既にエジプトまで征服していたアレクサンドロスの立場からすれば、この提案では征服地から撤退することを意味しているから受け入れるはずが無いだろう。

 そこでダレイオスはさらにユーフラテス川から西側の領土の割譲と3万タラントンの銀、そしてアレクサンドロスを娘婿として帝国の共同統治者とする再提案を行ったとされる。この提案に対し、マケドニア軍の副将で大王の補佐役であった老将パルメニオンはペルシャとの和睦を進言したとされるが、アレクサンドロスは「太陽が2つあれば宇宙の秩序が維持できないように、人間世界でも2人の王は存続できない」趣旨を使者に伝えて、名誉のために自分と決戦を挑むか、自分の命令に服従して王として生きるか、ダレイオスに選択するように強要したと言われている。アレクサンドロスは、余程自分の武力に自信があったのだろう。

 会議後、ギリシャ同盟軍を含む大王の軍勢(約5万人と言われる)はメソポタミアに向かったが、その頃捕虜として連行していたダレイオスの妻で実妹であったスタテイラが死亡したため、アレクサンドロスは彼女を盛大に弔ったとされる。

当時の大王の軍勢の進路は不明な点もあるが、まずカルケミシュでユーフラテス川を舟橋をかけて渡河し、その後現在の幹線道路と同じルートをそのまま東進してティグリス川を渡河してニネヴェに至ったのではないだろうか。その後、BC331101日にニネヴェからアルベラ(現在のアルビール)に向かう途中のガウガメラで、マケドニアとペルシャ両軍の3回目で最後の決戦が行われたのだが、その決戦に関する筆者の分析については次回の投稿で述べてみたいと思う。

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