2015年10月23日金曜日

永禄12(1569)年10月6日三増合戦の勝敗と、信玄の駿河制圧の関連性に関する考察(1)

 一昨日の投稿で、筆者は永禄12年秋の武田信玄による武相侵攻作戦の時点において、北条氏照の居城滝山城が防御上脆弱であったために天正年間に氏照が八王子城に移転したとする通説の根拠が薄く、北からの脅威に対しては滝山城が終始十分に機能していたのではないかと指摘した。

 実は、この時の信玄の武相侵攻と滝山城攻防戦、あるいはその後に起こった小田原城攻囲や三増峠での著名な山岳戦に関しては、具体的に記した一次資料がほとんど無い。

多少なりとも当時の状況を把握し得る信頼できる資料としては、北条氏政と氏照兄弟が越後の上杉謙信に宛てて援軍を求めて合戦前後に情勢を報告した書状や、廿里出陣前に小山田信茂が諏訪大社へ奉納した願文、そして越相同盟に敵対した信玄が、帰国後に諏訪大祝氏に出した書状などに限られている。

 そこで、合戦当日の状況については、従来から主として『甲陽軍鑑』の記述に皆依拠してきたわけである。だが、言うまでもなく『甲陽軍鑑』は、小幡景憲が元和年間頃に自らが創始した甲州流軍学を広めるために編纂した書物であるから、当然武田家の勝利が強調され過ぎている嫌いがある。したがって、その記述が本当に信用できるかどうかについては、当時の状況を鑑みて慎重に分析する必要がある。

 実際、廿里合戦や滝山城攻防戦の具体的な日時も実は不明などである。ちなみに小山田信茂の願文は9月吉日付であるし、氏照の弟である藤田新太郎氏邦の居城であった鉢形城外曲輪が武田勢に攻められたのが910日であったことは、氏邦自身が上杉謙信の側近山吉孫次郎に宛てた援軍要請の書状から明らかである。

とすると、信玄率いる武田勢は鉢形から滝山まで移動するのに、何と15日以上も費やしたことになってしまう。これは聊か時間がかかり過ぎていて、非常に不審な点だ。

ただ、一次資料から信玄の小田原攻囲が101日から4日までであることがほぼ明らかであるから、そこから逆算して927日が滝山城の戦いで、廿里合戦がその前日の26日であると今日推定できるだけなのである。なぜなら、氏照の河田重親宛て1024日付書状から、信玄の滝山陣取りが「両日」で、3日目夜中に滝山を離れて杉山峠に向かったことが判るからである。

 つまり、武田勢は928日夜(早朝か)に滝山城下を離脱して武相国境に位置する杉山(御殿)峠を越えて、町田市と相模原市方面に行軍した模様である。『甲陽軍鑑』では、この経路について、つし(図師)→小山田→二つ田→きそ(木曽、以上町田市内)→かつ坂(勝坂、相模原市内)まで陣取ったと記載されている。

この勝坂には縄文時代中期の大集落遺跡(国指定史跡)があって、発掘された「勝坂式土器」や原始農耕論提唱の根拠となった打製石斧でとても有名である。実は筆者は、中学校卒業まで相模原市内に住んでいたため、勝坂遺跡や当麻の渡し(当麻宿には、一遍上人が開山した時宗旧大本山の当麻山無量光寺がある)に関しては今でも土地勘がある。

 さて、『甲陽軍鑑』によると、武田勢は先衆が当麻、二の手は磯辺、信玄旗本は新道、跡備えは座間で渡河したとある。さらに相模川を左にして、岡田、厚木、金田、三田、妻田に各軍勢が陣取ったらしい。このあたりの地名についても、筆者の母校が厚木高校だったので土地勘があるのだ。この武田勢の相模川渡河と陣取りの日時は、恐らく929日であったのだろう。

 そして翌930日、武田勢は田村、大神、八幡、平塚に陣取ったとされる。多分この日あった出来事だろうが、相模国一宮の寒川神社には、信玄が奉納したと言われる甲冑一式が残っている。その後武田勢は、平塚から相模湾沿いを進軍して酒匂川まで押し寄せたのだった。つまり、翌日の101日から4日に包囲を解くまで小田原城が武田勢に攻囲されたということになる。

 当時北条氏の軍勢は、その多くが今川氏支援のため駿河方面に出動していたため、小田原城の守りが手薄だった模様である。これは当主氏政自身が104日付の謙信宛て書状で、「不及一戦事、無念千萬候」と書き送っているから明らかだ。ただ、武田勢は城下を放火しただけで、積極的な攻城戦は実施しなかったらしい。そして、早々に撤退に移ったという。

信玄としては、早晩背後から押し寄せてくるはずの武蔵国(江戸衆や河越衆)や相模東郡(玉縄衆)などから動員された後詰の北条勢が到着するまでの短期間に、敵の本城である小田原城を落城させることは困難だと判断したのであろう。これは、敵地で挟み撃ちに会う不利を避ける点で、信玄の全く正しい判断だと筆者は思う。

 もともと永禄12年時点での信玄の武相侵攻目的は、後北条氏に北からの脅威の恐ろしさを植え付けることで、自らが侵略を狙う駿河方面に出張ってくることの危険性を再認識させることにあったのだろう。その戦略目的からすれば、小田原城を攻略する必要など全く無いし、鉢形城や滝山城など支城を攻め落とすことも無駄な行動だっただろう。

 信玄としては、行く先々で放火略奪と刈田狼藉をして後北条領内を荒らし回るだけで、十分に氏康と氏政親子に対して武田勢の威力と脅威を知らしめることが出来たからである。実際に信玄は永禄12年当時、そうした方針に沿って行動したと筆者は考えるのである。

2015年10月21日水曜日

永禄12(1569)年9月27日滝山城攻防戦-城は本当に脆弱であったのか

 筆者は先週末、八王子市丹木町にある滝山城址に登ってみた。ここは、全国でも屈指の保存状態の良さを誇る戦国期後北条氏の城郭史跡である。また、同城では永禄121569)年秋の武田信玄による武相侵攻(小田原城攻囲と帰途に起きた三増峠の合戦で有名である)において、約2万人と言われる武田勢が武蔵国内を南下して侵攻する途中に、927日に激しく攻撃した攻防戦でも有名である。

 なぜ有名なのかというと、小田原北条氏康の三男で当時城主であった由井源三(後の北条陸奥守)氏照が、武田勝頼の率いる武田勢の猛攻に三の曲輪を落とされ、二の曲輪まで攻め込まれたため、本城であった丘城滝山城の防御力の脆弱さを認識したことを契機として、後の天正年間に峻険な山城で南西に位置する八王子城に移転したと言われているからである。

 筆者はこの通説の認識が、多分誤りであろうと考える。その理由は、まず第1に、残存する滝山城の縄張りから感じられるその防御力の堅固さの点であり、第2に、当時の小田原に通じる主要街道の位置と、重点対処すべき脅威の方向性(つまり北方方面重視か西方方面重視か)が永禄年間と天正年間では明らかに異なっている点からである。

 そこで今日の投稿では、筆者が実見してきた滝山城址を巡る永禄129月の北条・武田の攻防戦について分析してみたい。なお、滝山城については、齋藤慎一氏著『中世東国の道と城館』(東京大学出版会、2010年)第14章の考察を参考にした。

 まず、滝山城の位置であるが、昭島市拝島町から拝島橋を通って多摩川を南に渡河した南岸部、いわゆる加住丘陵に築城されており、秋川と多摩川の合流点のすぐ南東部にある。城址は標高200m(比高80m)以下で東西の尾根沿い約800m、南北の複雑な谷戸を取り込んで約500mにわたって約30に上る多くの曲輪と、空堀や切岸、土塁、枡形などの防御施設を巧妙に連ねて構築されていた。

 城の搦手は本丸北西部の多摩川対岸にあり、こちら側はほとんどが急な崖であって敵の侵入は恐らく困難であっただろう。したがって、城への攻撃方向は南方の大手滝山街道側からでなければ、ほとんど不可能だったと思われる。

現在の国道16号線を南下して、左入町で右折すると西北方向に谷地川の左岸を並行して国道411号線が青梅(かつて山内上杉氏側で永禄6(1563)年に氏照に滅ぼされた、三田氏の居城勝沼城が有った)方面に通じている。これが滝山街道で、当時は甲州へ通じる裏街道であった。そして氏照在城時代には、この滝山街道沿いに北西側から八幡、八日市、横山といった三宿の城下町が形成されていたと言われている(齋藤慎一、前掲書、408頁)。

 したがって、武田勢は城下を焼き払って城を裸城にして大手口から滝山城を攻撃したのかもしれない。なお、信玄は攻城戦を勝頼らに任せたらしく、自身の本隊は当初多摩川対岸の拝島に置いていた。そうなると、勝頼らが率いた武田勢恐らく1万人以上は、現在の拝島橋よりやや多摩川下流にあった大神・平の渡しから南岸に渡河して滝山城下に攻め込んだのであろう。

 平の渡しは、後北条氏のもう1つの重要支城であった河越に通じる街道上にあった。筆者が思うに、永禄12年当時信玄の採った武相侵攻ルートは、『甲陽軍鑑』によると824日に甲府を発している(実際の甲府進発は、9月になってからであったかもしれない)。その後、佐久平から碓氷峠を上野国に越境し、安中を経て9月9日に児玉郡の御嶽城、910日に氏照の弟氏邦の居城である寄居の荒川南岸にあった鉢形城を攻めた後、恐らく秩父方面から鎌倉街道山ノ道を通って武蔵国を南下し拝島に至っていたと思われる。その理由は、このルートを通れば、滝山城や鉢形城と並ぶ武蔵国内の後北条氏の重要支城であった河越城での衝突を回避できたからである。

 事実、10月の信玄の小田原攻囲後の帰途に起きた三増峠の戦いでは、武田勢を迎撃した氏照、氏邦勢の中に河越衆も無傷で参戦していると言われている。そうであるならば、9月の信玄の武蔵国南下時点では、河越城での戦闘は発生しなかったと考えられるからだ。

 さて、武田勢を迎え撃った氏照の軍勢は3千人程度の兵力だったと考える。滝山城攻防戦の勃発した9月末時点では、各地からの援軍が未到着であったからである。氏照は、「宿三口」すなわち、谷地川に沿った滝山街道から平の渡しに出る城下東方口と、秋川を渡河して満地峠を越えて勝沼に向かう城下西方口、そして八幡と八日市の境界付近から南方に向かう鎌倉街道口(現在の国道16号で杉山(御殿)峠を越え、当麻の渡しで相模川を渡河する地点に向かう)方面に守備隊を派遣したようだ(齋藤慎一、前掲書、412頁)。

 ところが、以下の点が武田信玄の策略が巧みなところなのだが、信玄は郡内の小山田信茂に命じて、その軍勢約1千人を926日、小仏峠越えで高尾近くの十々里(廿里)に侵攻させて滝山城の背後を突かせる作戦に出たのである。

 そのため氏照は、重臣布施出羽守や横地監物らが率いる約2千人の軍勢を急遽十々里に送って一戦に及んだのであったが、この戦いに敗れてしまった。打撃を受けた撤収部隊を城に収容した後起きたのが927日の滝山城の攻防戦であった。

 したがって、兵力および士気の点で、この時点で武田勢が圧倒的に優勢な状態であったことは間違いないと筆者は考える。それにもかかわらず、武田勢は三の曲輪を陥落させただけで攻城を諦めて小田原に向かった。これは、滝山城の構えが非常に堅固であったために、落城させるまでには時間と損害を要することから、信玄が城攻めを中止したことに他ならないだろう。つまり、通説の述べるような滝山城の防御上の脆弱性は当たらないと考える。

 なぜなら、現在の滝山城址に残る縄張り図を見ればすぐわかるように、滝山城の心臓部は本丸と、それと引橋でつながった中の丸であり、その2つの曲輪に至る南方に二の丸が配置されている。この3つの曲輪が滝山城の中核に他ならない。

 そして二の丸から大手口まで南側に連なる千畳敷や三の丸、小宮曲輪と、二の丸東側の尾根伝いに連なる信濃屋敷や刑部屋敷といった重臣の屋敷が有ったと思われる各曲輪は、3つの曲輪からなる城の中核部から見れば外延部に過ぎない。

 今となっては、永禄12年当時の縄張りが現城址に見られる通りの規模に達していたかどうかが不明である。そのため、武田勢が落とした三の曲輪の位置が明白でないきらいがあるものの、筆者が見るところ、当時武田勢が達成できたのは滝山城外延部のそれもほんの一部のみを陥落させることに成功しただけだったと考える。

 よって、筆者の城址を実見した後の考察によると、滝山城の防御は脆弱などでは全くなく、よく敵の武田勢の10分の1程度の兵力で守り切ったものだと感心する。

 もちろん、この年の信玄の武相侵攻の狙いが前年の自身による駿河侵攻で甲相同盟が決裂した後、後北条氏が今川氏救援のために駿河に出兵したことに対する言わば報復攻撃であったから、その作戦が北条領内を荒らし回ってすぐ撤退することにあったことも滝山城が守備しきれた大きな原因であっただろう。

 もともと滝山城は、上杉氏による北からの脅威に備えるために鉢形城とともに取立てられた南北ルートを見据えた城郭であったと思う。それに比較すると、元亀・天正年間に築城された山城の八王子城は、明らかに甲州方面の西からの脅威に備えた東西ルートを前提とした構えを持っている。

 永禄年間当時人馬が往来しにくく狭かった小仏峠越えの甲州街道が本道化したのは、江戸時代以降であって、それまでは八王子城搦手の北浅川沿いに通じていた和田峠を越える陣馬街道が甲州本街道であったと言われている。

氏照支配時代には、陣馬街道を抑える支城として浄福寺(由井)城も北浅川北岸に取り立てられていたから、天正年間に北からの脅威が消えて西からの脅威が高じた結果、氏照は八王子城に移転したのが恐らく真実であったのだろう。

したがって、従来北からの脅威に備える本城としての機能を十分に発揮してきた滝山城の防御の脆弱性について、彼が不安を抱いたから八王子城に移転したわけでは決してなかったのではないだろうか。

2015年10月19日月曜日

ゲティスバーグの戦いでの南軍の敗因-索敵の軽視、曖昧な命令による攻撃に関する分析(2)

 先の投稿で述べたとおり、1863628日に北軍ポトマック軍がメリーランド州フレデリックに集結した時点で軍司令官が交代し、ミード少将がフッカー少将から指揮権を引き継いだ。

 この北軍の指揮官交代の事実は、北上中の南軍リー将軍も28日当日に知ったようだ。しかし、リー将軍としては、北軍が山脈を挟んで自軍のすぐ東方地点にまで進出していることは全く想定外であっただろう。

なぜなら、当時南軍3個軍団はメリーランド州からその北のペンシルベニア州にかけて広範囲の地域に散らばっていたため、集結してポトマック軍との決戦に臨む態勢が未だ出来ていなかったからである。

南軍先鋒のユーエル第2軍団はペンシルベニア州チェンバーズバーグを既に通過してカーライルに向かって北進を続けており、ジュバル・A・アーリー少将に率いる1個師団は分派されて東方のゲティスバーグでの北軍の散発的抵抗を排除し、628日にはヨークからサスケハナ河畔のライツヴィルにまで進出していた。

 これに対する北軍は、先鋒のジョン・ビュフォード将軍の率いる騎兵師団が630日にエミッツバーグ街道からゲティスバーグに入って街の北西にあるルーテル派神学校のあるセミナリー・リッジの外側に位置するマクファーソン・リッジに布陣して防御態勢を敷いた。

このビュフォードの的確な判断の結果、南北両軍の決戦地がゲティスバーグに決定されたのであろう。ゲティスバーグは東西南北方向から合計9本の街道とターンパイクが集中する交通の要衝であったから、ここに両軍が集結することが最適であったからだ。

そして、71日以降、両軍が次々に援軍を投入した中で、結果的に見れば、戦力に勝る北軍がゲティスバーグ周辺に散在する丘陵地帯を南軍より先に抑えて陣地を構築することに成功したことが、南軍敗退の最大の原因になったと筆者は考える。

 当時南方から迫る北軍歩兵軍団は、南西のエミッツバーグ街道と南方のテイニータウン街道、そして南東のボルティモア・ターンパイクから、それぞれ2個軍団が分進したようである。

北軍ビュフォード騎兵師団を援護するために先着した歩兵軍団は、南西から進撃してきたジョン・F・レイノルズ将軍の率いる第1軍団とオリヴァー・O・ハワード将軍の率いる第11軍団であったが、71日決戦初日の戦いではゲティスバーグ北西方向からチェンバーズバーグ・ターンパイクを進んできた南軍A.P.ヒル第3軍団と、北方カーライル街道から南下してきたユーエル第2軍団の攻撃によってレイノルズ将軍が戦死してしまった。

このように、初日の戦いでは北軍がゲティスバーグを防衛することに失敗して街の南方にあるセメタリー・ヒルに撤退した。ここで非常に不思議なのは、当日午後2時頃に戦場に到着していたリー将軍が、戦況判断を誤ってユーエル軍団のセメタリー・ヒルへの攻撃続行の進言を退け、この日の戦闘中止を命令してしまった重大な判断ミスであろう。

 恐らくリー将軍は、スチュワート騎兵部隊からの斥候の報告が入って来なかったために、北軍の集結が遅れていることに気付かなかったのであろう。そのため、敵軍の戦力を過大に見積もってしまい、進撃中の第1軍団の到着を待って南軍の兵力集結後に攻撃を再開することにしたのだろう。このリー軍司令官の判断ミスによって、南軍の唯一の勝機が失われたと言えるだろう。

 なぜなら、セメタリー・ヒルの守備についたハワード第11軍団は、わずか2か月前に故ストーンウォール・ジャクソン将軍の迂回奇襲攻撃を受けて真っ先に敗走し、チャンセラーズビルにおける北軍敗北の原因を直接作った屈辱から未だ立ち直っていなかったからである。

 したがって、南軍が決戦初日の勝利に乗じて好機を逃さずハワード軍団攻撃を続けていれば、恐らくこの時点で兵力が不足していた北軍をゲティスバーグ南方の丘陵地帯から掃討することに成功したであろう。それはすなわち、決戦における南軍の決定的勝利を意味していたに違いない。

 結果的に見れば、この71日決戦初日に南軍が中途半端に攻撃を中止してしまったために、ミード将軍に先行して前線指揮官として北軍の陣地構築に派遣されたウィンフィールド・スコット・ハンコック少将が丘陵地帯に堅固な陣地を構築してしまったわけである。これで北軍の勝利にゲティスバーグ決戦の帰趨が決まったというのが、筆者の感想である。

北軍の布陣は、右翼(北方)のカルプス・ヒルとセメタリー・ヒル、中央部(西方)のセメタリー・リッジ、そして左翼(南方)の2つの円丘(ラウンドトップ)に堅固な陣地を構築し、それぞれ砲列と最終的に6個軍団を配置することに成功した。この状況では、翌日以降に展開された兵力劣勢な南軍の正面攻撃が成功するはずが無いだろう。

 実際、72日決戦2日目の北軍両翼に対する南軍の猛攻も、その翌日決戦3日目(最終日)の北軍中央に対するピケットの突撃も、いずれも無惨な失敗に終わってしまったわけだ。

 3日間にわたって南北両軍の激戦が展開されたゲティスバーグの戦いでは、南軍の死傷者数は約28千人、北軍の死傷者数は約23千人に上ったと言われている。ゲティスバーグの戦いの有様は、正に日露戦争や第1次世界大戦における塹壕戦の先駆けとなる近代戦の大量殺戮の結果をもたらしたと言えるだろう。

そして北部侵攻とこの決戦に敗退した南軍は、それ以後兵力の補充を十分に行うことが出来ないまま、18654月に首都リッチモンドが陥落し、49日にヴァージニア州アポマトックス・コートハウスでリー将軍が北軍総司令官に就任していたグラント将軍に降伏して、南北戦争は事実上終結するに至ったのであった。

ゲティスバーグの戦いでの南軍の敗因-索敵の軽視、曖昧な命令による攻撃に関する分析(1)

 18636月、南部連合北部ヴァージニア軍司令官のリー将軍は、前年9月の北軍ポトマック軍とのアンティータムの戦いの結果頓挫した北部侵攻を再度決行する決断をした。

 リー将軍の作戦意図は、北部のペンシルベニア州に積極的に侵攻することで北軍に対する主導権を再度奪還し、北部領内でポトマック軍を撃破することで英仏両国の南部連合承認を引き出すことにより、南北戦争を最終的に終結させることにあったのだろう。

 同時に、西部戦線でグラント将軍の北軍テネシー軍に既に完全包囲され、当時飢餓状態に陥っていたペンバートン将軍の率いるヴィックスバーグ守備隊を危機から救う付随的意図もあったのではないだろうか

当時の西部戦線における北軍圧倒的優勢の戦況から見れば、いささか甘い判断であったかもしれないが、南軍の北部侵攻によってミシシッピ川流域に展開している北軍を撤退させることが可能になるとも想定できたからである。

 当時、より直接的にヴィックスバーグの北軍包囲網を解くためには、東部戦線から一部の軍団を抽出して西部戦線に援軍として派遣する案も考えられただろう。だが、リー将軍は首都リッチモンドでのデイヴィス大統領や閣僚たちとの会談後、北部再侵攻作戦を決定して準備に取り掛かったのであった。

これは恐らく、西部戦線でのヴィックスバーグ陥落による想定内の失点を、東部戦線での北軍に対する決定的勝利によって相殺する方を南部連合指導部が冷徹に選択した結果であったのだろう。

 いずれにせよ、兵力劣勢かつ勇将ジャクソン将軍をチャンセラーズビルの戦いで失っていたリー将軍率いる北部ヴァージニア軍が優勢なポトマック軍に敵地で対抗するためには、騎兵部隊による十分な索敵により敵の動きを正確に把握することを前提として、敵の弱点を急襲する積極的作戦を考案するしか有効な手立てが無かっただろう。

 北部再侵攻作戦に際して南軍の北部ヴァージニア軍では、チャンセラーズビルの戦い当時分派されていて参戦していなかったジェームズ・ロングストリート中将の率いる第1軍団が帰還しており、作戦に参加可能な兵力が増強されていた。

また、ジャクソン将軍が率いていた第2軍団は新任のリチャード・S・ユーエル中将が指揮を引き継いでおり、第3軍団にもAP・ヒル中将が新司令官として抜擢されていた。

 つまり侵攻作戦に参加した南軍は、3個軍団(9個師団)で総兵力約73千人であった。これに対する北軍ポトマック軍は、7個軍団(19個師団)で総兵力約95千人であったと言われている。つまり、かなり北軍が優勢であったわけである。

 両軍の索敵作戦遂行上、極めて重要な役割を果たした騎兵戦力については、南軍がJ.E.B.スチュワート少将の率いる約1万人、北軍がアルフレッド・プレザントン少将の率いる約11千人の騎兵部隊が参戦した。

北部ヴァージニア軍に対するリー将軍の作戦発動命令は63日で、ラパハノック河畔の基地フレデリックスバーグに第3軍団を後発部隊として残して、第1と第2軍団を北西のオレンジ・アレクサンドリア鉄道上にあるカルペパー・コート・ハウスに集結させた。

 スチュワート騎兵部隊はカルペパー北のブランディー駅で閲兵式を実施したが、これに対して69日、北軍のプレザントン騎兵部隊が先制攻撃を仕掛けて南北戦争中最大の騎兵戦闘が勃発した。

結果的に見れば、この時後手を踏んでしまったスチュワート将軍が失策の名誉回復を急ぎ、南軍歩兵軍団の右翼を並進して索敵活動を行うという本来の任務を忘れて北軍右翼を大きく迂回し側面攻撃を仕掛けることに熱中してしまった事から、南軍の事後の作戦遂行が齟齬を来したわけである。

そのため、敵地でリー将軍は北軍の行動を6月末まで把握することが出来ないまま、ペンシルベニア州内部に深く侵入することになってしまったのであった。敵地に侵入した南軍がこのように敵情把握に失敗したことこそ、71日から3日のゲティスバーグの戦いで南軍が敗退する大きな原因を作ってしまったと言えるだろう。

 筆者には、ゲティスバーグに集結するまでの南軍の行動は、実に計算されていて見事な機動作戦であったと思われる。南軍の機動は、まず先発の第1軍団が、カルペパー・コート・ハウスからブルーリッジ山脈をシェナンドア渓谷に抜ける隘路であるスニッカーズ・ギャップとアシュビーズ・ギャップを確保する。

その間に第2軍団が、さらに南方のチェスター・ギャップを通過して渓谷内に侵入し、北軍守備隊を蹴散らしながらウインチェスターに進撃した。ユーエル軍団は、614日のウインチェスターの戦闘で北軍師団約5千人を捕虜にしている。その後、第2軍団は全軍の先頭を切ってポトマック川を渡河し、メリーランド州シャープスバーグに侵攻した。

 後方に待機していたヒル将軍の率いる南軍第3軍団は、614日にフレデリックスバーグを出発してアシュビーズ・ギャップを越え、第1軍団を追い越して第2陣としてポトマック川を渡河したようである。つまり、南軍は時間差を置いて、東西2縦隊で渡河地点に進撃したことになる。これは北軍の目を欺く見事な機動作戦であったと筆者は考える。

 なおスチュワート騎兵部隊の迂回攻撃については、625日にセイレム付近からブルラン山地を東南に抜けて北軍後方を遮断する形で開始されたが、リー将軍は北軍が南軍の侵攻を察知してポトマック川を超えた時点で本隊に合流するよう事前にスチュワートに命令を下していたのだが、これは結局実現しなかった。

結果的にスチュワート騎兵部隊の合流は、72日決戦2日目の晩の時点迄遅延してしまったわけである。これは索敵を軽視して2つの作戦目標を立てて戦果の拡大を欲張ったために敗北した、日本海軍のミッドウェイ海戦と同様の南軍の大失態であったと筆者は思う。

リー将軍はその結果北軍の行動把握に失敗したわけであるから、北軍の展開が予想以上に早く、かつ広大であったため、南軍歩兵軍団との距離が想定外に離れてしまった点を考慮に入れても、これはスチュワート少将の重大な命令違反であったと言えるだろう。

 南軍の失態と言えば、ロングストリート将軍の遅い行動も解せぬところだ。第1軍団は先発したにもかかわらず、後続軍団に追い抜かれてゲティスバーグの決戦2日目にようやく参戦出来たに過ぎなかった。第1軍団最後尾を進んだジョージ・E・ピケット少将の率いる師団については、決戦2日目夕刻に戦場に到着して、73日北軍陣地中央部セメタリー・リッジに対する無謀な正面攻撃(ピケットの突撃)で壊滅してしまっている。

北軍ポトマック軍を率いたフッカー将軍による南軍の北部侵攻察知は予想外に早く、南軍の行動の逆を突いてフレデリックスバーグに残っていた南軍ヒル第3軍団を撃破してリッチモンドを急襲する提案をワシントン対して行ったが、リンカーン大統領にあっさり却下されて南軍追撃のために北進を開始した。

これはリンカーン大統領が、チャンセラーズビルの戦いにおけるフッカーの指揮官としての能力に不信感を抱いていたためだと言われている。結局、リンカーンはポトマック川渡河後の北軍がフレデリックに集結した628日にフッカーを解任して、ジョージ・ゴードン・ミード少将にポトマック軍の指揮を継承させたのであった。 

作戦遂行中の司令官解任とは、はなはだ異例な措置であるから、北軍の指揮統制の建て直しは非常に大変だっただろう。ともあれ、6月中に南北両軍の決戦に向けた準備は整ったことになる。