一昨日の投稿で、筆者は永禄12年秋の武田信玄による武相侵攻作戦の時点において、北条氏照の居城滝山城が防御上脆弱であったために天正年間に氏照が八王子城に移転したとする通説の根拠が薄く、北からの脅威に対しては滝山城が終始十分に機能していたのではないかと指摘した。
実は、この時の信玄の武相侵攻と滝山城攻防戦、あるいはその後に起こった小田原城攻囲や三増峠での著名な山岳戦に関しては、具体的に記した一次資料がほとんど無い。
多少なりとも当時の状況を把握し得る信頼できる資料としては、北条氏政と氏照兄弟が越後の上杉謙信に宛てて援軍を求めて合戦前後に情勢を報告した書状や、廿里出陣前に小山田信茂が諏訪大社へ奉納した願文、そして越相同盟に敵対した信玄が、帰国後に諏訪大祝氏に出した書状などに限られている。
そこで、合戦当日の状況については、従来から主として『甲陽軍鑑』の記述に皆依拠してきたわけである。だが、言うまでもなく『甲陽軍鑑』は、小幡景憲が元和年間頃に自らが創始した甲州流軍学を広めるために編纂した書物であるから、当然武田家の勝利が強調され過ぎている嫌いがある。したがって、その記述が本当に信用できるかどうかについては、当時の状況を鑑みて慎重に分析する必要がある。
実際、廿里合戦や滝山城攻防戦の具体的な日時も実は不明などである。ちなみに小山田信茂の願文は9月吉日付であるし、氏照の弟である藤田新太郎氏邦の居城であった鉢形城外曲輪が武田勢に攻められたのが9月10日であったことは、氏邦自身が上杉謙信の側近山吉孫次郎に宛てた援軍要請の書状から明らかである。
とすると、信玄率いる武田勢は鉢形から滝山まで移動するのに、何と15日以上も費やしたことになってしまう。これは聊か時間がかかり過ぎていて、非常に不審な点だ。
ただ、一次資料から信玄の小田原攻囲が10月1日から4日までであることがほぼ明らかであるから、そこから逆算して9月27日が滝山城の戦いで、廿里合戦がその前日の26日であると今日推定できるだけなのである。なぜなら、氏照の河田重親宛て10月24日付書状から、信玄の滝山陣取りが「両日」で、3日目夜中に滝山を離れて杉山峠に向かったことが判るからである。
つまり、武田勢は9月28日夜(早朝か)に滝山城下を離脱して武相国境に位置する杉山(御殿)峠を越えて、町田市と相模原市方面に行軍した模様である。『甲陽軍鑑』では、この経路について、つし(図師)→小山田→二つ田→きそ(木曽、以上町田市内)→かつ坂(勝坂、相模原市内)まで陣取ったと記載されている。
この勝坂には縄文時代中期の大集落遺跡(国指定史跡)があって、発掘された「勝坂式土器」や原始農耕論提唱の根拠となった打製石斧でとても有名である。実は筆者は、中学校卒業まで相模原市内に住んでいたため、勝坂遺跡や当麻の渡し(当麻宿には、一遍上人が開山した時宗旧大本山の当麻山無量光寺がある)に関しては今でも土地勘がある。
さて、『甲陽軍鑑』によると、武田勢は先衆が当麻、二の手は磯辺、信玄旗本は新道、跡備えは座間で渡河したとある。さらに相模川を左にして、岡田、厚木、金田、三田、妻田に各軍勢が陣取ったらしい。このあたりの地名についても、筆者の母校が厚木高校だったので土地勘があるのだ。この武田勢の相模川渡河と陣取りの日時は、恐らく9月29日であったのだろう。
そして翌9月30日、武田勢は田村、大神、八幡、平塚に陣取ったとされる。多分この日あった出来事だろうが、相模国一宮の寒川神社には、信玄が奉納したと言われる甲冑一式が残っている。その後武田勢は、平塚から相模湾沿いを進軍して酒匂川まで押し寄せたのだった。つまり、翌日の10月1日から4日に包囲を解くまで小田原城が武田勢に攻囲されたということになる。
当時北条氏の軍勢は、その多くが今川氏支援のため駿河方面に出動していたため、小田原城の守りが手薄だった模様である。これは当主氏政自身が10月4日付の謙信宛て書状で、「不及一戦事、無念千萬候」と書き送っているから明らかだ。ただ、武田勢は城下を放火しただけで、積極的な攻城戦は実施しなかったらしい。そして、早々に撤退に移ったという。
信玄としては、早晩背後から押し寄せてくるはずの武蔵国(江戸衆や河越衆)や相模東郡(玉縄衆)などから動員された後詰の北条勢が到着するまでの短期間に、敵の本城である小田原城を落城させることは困難だと判断したのであろう。これは、敵地で挟み撃ちに会う不利を避ける点で、信玄の全く正しい判断だと筆者は思う。
もともと永禄12年時点での信玄の武相侵攻目的は、後北条氏に北からの脅威の恐ろしさを植え付けることで、自らが侵略を狙う駿河方面に出張ってくることの危険性を再認識させることにあったのだろう。その戦略目的からすれば、小田原城を攻略する必要など全く無いし、鉢形城や滝山城など支城を攻め落とすことも無駄な行動だっただろう。
信玄としては、行く先々で放火略奪と刈田狼藉をして後北条領内を荒らし回るだけで、十分に氏康と氏政親子に対して武田勢の威力と脅威を知らしめることが出来たからである。実際に信玄は永禄12年当時、そうした方針に沿って行動したと筆者は考えるのである。