2015年10月21日水曜日

永禄12(1569)年9月27日滝山城攻防戦-城は本当に脆弱であったのか

 筆者は先週末、八王子市丹木町にある滝山城址に登ってみた。ここは、全国でも屈指の保存状態の良さを誇る戦国期後北条氏の城郭史跡である。また、同城では永禄121569)年秋の武田信玄による武相侵攻(小田原城攻囲と帰途に起きた三増峠の合戦で有名である)において、約2万人と言われる武田勢が武蔵国内を南下して侵攻する途中に、927日に激しく攻撃した攻防戦でも有名である。

 なぜ有名なのかというと、小田原北条氏康の三男で当時城主であった由井源三(後の北条陸奥守)氏照が、武田勝頼の率いる武田勢の猛攻に三の曲輪を落とされ、二の曲輪まで攻め込まれたため、本城であった丘城滝山城の防御力の脆弱さを認識したことを契機として、後の天正年間に峻険な山城で南西に位置する八王子城に移転したと言われているからである。

 筆者はこの通説の認識が、多分誤りであろうと考える。その理由は、まず第1に、残存する滝山城の縄張りから感じられるその防御力の堅固さの点であり、第2に、当時の小田原に通じる主要街道の位置と、重点対処すべき脅威の方向性(つまり北方方面重視か西方方面重視か)が永禄年間と天正年間では明らかに異なっている点からである。

 そこで今日の投稿では、筆者が実見してきた滝山城址を巡る永禄129月の北条・武田の攻防戦について分析してみたい。なお、滝山城については、齋藤慎一氏著『中世東国の道と城館』(東京大学出版会、2010年)第14章の考察を参考にした。

 まず、滝山城の位置であるが、昭島市拝島町から拝島橋を通って多摩川を南に渡河した南岸部、いわゆる加住丘陵に築城されており、秋川と多摩川の合流点のすぐ南東部にある。城址は標高200m(比高80m)以下で東西の尾根沿い約800m、南北の複雑な谷戸を取り込んで約500mにわたって約30に上る多くの曲輪と、空堀や切岸、土塁、枡形などの防御施設を巧妙に連ねて構築されていた。

 城の搦手は本丸北西部の多摩川対岸にあり、こちら側はほとんどが急な崖であって敵の侵入は恐らく困難であっただろう。したがって、城への攻撃方向は南方の大手滝山街道側からでなければ、ほとんど不可能だったと思われる。

現在の国道16号線を南下して、左入町で右折すると西北方向に谷地川の左岸を並行して国道411号線が青梅(かつて山内上杉氏側で永禄6(1563)年に氏照に滅ぼされた、三田氏の居城勝沼城が有った)方面に通じている。これが滝山街道で、当時は甲州へ通じる裏街道であった。そして氏照在城時代には、この滝山街道沿いに北西側から八幡、八日市、横山といった三宿の城下町が形成されていたと言われている(齋藤慎一、前掲書、408頁)。

 したがって、武田勢は城下を焼き払って城を裸城にして大手口から滝山城を攻撃したのかもしれない。なお、信玄は攻城戦を勝頼らに任せたらしく、自身の本隊は当初多摩川対岸の拝島に置いていた。そうなると、勝頼らが率いた武田勢恐らく1万人以上は、現在の拝島橋よりやや多摩川下流にあった大神・平の渡しから南岸に渡河して滝山城下に攻め込んだのであろう。

 平の渡しは、後北条氏のもう1つの重要支城であった河越に通じる街道上にあった。筆者が思うに、永禄12年当時信玄の採った武相侵攻ルートは、『甲陽軍鑑』によると824日に甲府を発している(実際の甲府進発は、9月になってからであったかもしれない)。その後、佐久平から碓氷峠を上野国に越境し、安中を経て9月9日に児玉郡の御嶽城、910日に氏照の弟氏邦の居城である寄居の荒川南岸にあった鉢形城を攻めた後、恐らく秩父方面から鎌倉街道山ノ道を通って武蔵国を南下し拝島に至っていたと思われる。その理由は、このルートを通れば、滝山城や鉢形城と並ぶ武蔵国内の後北条氏の重要支城であった河越城での衝突を回避できたからである。

 事実、10月の信玄の小田原攻囲後の帰途に起きた三増峠の戦いでは、武田勢を迎撃した氏照、氏邦勢の中に河越衆も無傷で参戦していると言われている。そうであるならば、9月の信玄の武蔵国南下時点では、河越城での戦闘は発生しなかったと考えられるからだ。

 さて、武田勢を迎え撃った氏照の軍勢は3千人程度の兵力だったと考える。滝山城攻防戦の勃発した9月末時点では、各地からの援軍が未到着であったからである。氏照は、「宿三口」すなわち、谷地川に沿った滝山街道から平の渡しに出る城下東方口と、秋川を渡河して満地峠を越えて勝沼に向かう城下西方口、そして八幡と八日市の境界付近から南方に向かう鎌倉街道口(現在の国道16号で杉山(御殿)峠を越え、当麻の渡しで相模川を渡河する地点に向かう)方面に守備隊を派遣したようだ(齋藤慎一、前掲書、412頁)。

 ところが、以下の点が武田信玄の策略が巧みなところなのだが、信玄は郡内の小山田信茂に命じて、その軍勢約1千人を926日、小仏峠越えで高尾近くの十々里(廿里)に侵攻させて滝山城の背後を突かせる作戦に出たのである。

 そのため氏照は、重臣布施出羽守や横地監物らが率いる約2千人の軍勢を急遽十々里に送って一戦に及んだのであったが、この戦いに敗れてしまった。打撃を受けた撤収部隊を城に収容した後起きたのが927日の滝山城の攻防戦であった。

 したがって、兵力および士気の点で、この時点で武田勢が圧倒的に優勢な状態であったことは間違いないと筆者は考える。それにもかかわらず、武田勢は三の曲輪を陥落させただけで攻城を諦めて小田原に向かった。これは、滝山城の構えが非常に堅固であったために、落城させるまでには時間と損害を要することから、信玄が城攻めを中止したことに他ならないだろう。つまり、通説の述べるような滝山城の防御上の脆弱性は当たらないと考える。

 なぜなら、現在の滝山城址に残る縄張り図を見ればすぐわかるように、滝山城の心臓部は本丸と、それと引橋でつながった中の丸であり、その2つの曲輪に至る南方に二の丸が配置されている。この3つの曲輪が滝山城の中核に他ならない。

 そして二の丸から大手口まで南側に連なる千畳敷や三の丸、小宮曲輪と、二の丸東側の尾根伝いに連なる信濃屋敷や刑部屋敷といった重臣の屋敷が有ったと思われる各曲輪は、3つの曲輪からなる城の中核部から見れば外延部に過ぎない。

 今となっては、永禄12年当時の縄張りが現城址に見られる通りの規模に達していたかどうかが不明である。そのため、武田勢が落とした三の曲輪の位置が明白でないきらいがあるものの、筆者が見るところ、当時武田勢が達成できたのは滝山城外延部のそれもほんの一部のみを陥落させることに成功しただけだったと考える。

 よって、筆者の城址を実見した後の考察によると、滝山城の防御は脆弱などでは全くなく、よく敵の武田勢の10分の1程度の兵力で守り切ったものだと感心する。

 もちろん、この年の信玄の武相侵攻の狙いが前年の自身による駿河侵攻で甲相同盟が決裂した後、後北条氏が今川氏救援のために駿河に出兵したことに対する言わば報復攻撃であったから、その作戦が北条領内を荒らし回ってすぐ撤退することにあったことも滝山城が守備しきれた大きな原因であっただろう。

 もともと滝山城は、上杉氏による北からの脅威に備えるために鉢形城とともに取立てられた南北ルートを見据えた城郭であったと思う。それに比較すると、元亀・天正年間に築城された山城の八王子城は、明らかに甲州方面の西からの脅威に備えた東西ルートを前提とした構えを持っている。

 永禄年間当時人馬が往来しにくく狭かった小仏峠越えの甲州街道が本道化したのは、江戸時代以降であって、それまでは八王子城搦手の北浅川沿いに通じていた和田峠を越える陣馬街道が甲州本街道であったと言われている。

氏照支配時代には、陣馬街道を抑える支城として浄福寺(由井)城も北浅川北岸に取り立てられていたから、天正年間に北からの脅威が消えて西からの脅威が高じた結果、氏照は八王子城に移転したのが恐らく真実であったのだろう。

したがって、従来北からの脅威に備える本城としての機能を十分に発揮してきた滝山城の防御の脆弱性について、彼が不安を抱いたから八王子城に移転したわけでは決してなかったのではないだろうか。

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