1863年6月、南部連合北部ヴァージニア軍司令官のリー将軍は、前年9月の北軍ポトマック軍とのアンティータムの戦いの結果頓挫した北部侵攻を再度決行する決断をした。
リー将軍の作戦意図は、北部のペンシルベニア州に積極的に侵攻することで北軍に対する主導権を再度奪還し、北部領内でポトマック軍を撃破することで英仏両国の南部連合承認を引き出すことにより、南北戦争を最終的に終結させることにあったのだろう。
同時に、西部戦線でグラント将軍の北軍テネシー軍に既に完全包囲され、当時飢餓状態に陥っていたペンバートン将軍の率いるヴィックスバーグ守備隊を危機から救う付随的意図もあったのではないだろうか。
当時の西部戦線における北軍圧倒的優勢の戦況から見れば、いささか甘い判断であったかもしれないが、南軍の北部侵攻によってミシシッピ川流域に展開している北軍を撤退させることが可能になるとも想定できたからである。
当時、より直接的にヴィックスバーグの北軍包囲網を解くためには、東部戦線から一部の軍団を抽出して西部戦線に援軍として派遣する案も考えられただろう。だが、リー将軍は首都リッチモンドでのデイヴィス大統領や閣僚たちとの会談後、北部再侵攻作戦を決定して準備に取り掛かったのであった。
これは恐らく、西部戦線でのヴィックスバーグ陥落による想定内の失点を、東部戦線での北軍に対する決定的勝利によって相殺する方を南部連合指導部が冷徹に選択した結果であったのだろう。
いずれにせよ、兵力劣勢かつ勇将ジャクソン将軍をチャンセラーズビルの戦いで失っていたリー将軍率いる北部ヴァージニア軍が優勢なポトマック軍に敵地で対抗するためには、騎兵部隊による十分な索敵により敵の動きを正確に把握することを前提として、敵の弱点を急襲する積極的作戦を考案するしか有効な手立てが無かっただろう。
北部再侵攻作戦に際して南軍の北部ヴァージニア軍では、チャンセラーズビルの戦い当時分派されていて参戦していなかったジェームズ・ロングストリート中将の率いる第1軍団が帰還しており、作戦に参加可能な兵力が増強されていた。
また、ジャクソン将軍が率いていた第2軍団は新任のリチャード・S・ユーエル中将が指揮を引き継いでおり、第3軍団にもA・P・ヒル中将が新司令官として抜擢されていた。
つまり侵攻作戦に参加した南軍は、3個軍団(9個師団)で総兵力約7万3千人であった。これに対する北軍ポトマック軍は、7個軍団(19個師団)で総兵力約9万5千人であったと言われている。つまり、かなり北軍が優勢であったわけである。
両軍の索敵作戦遂行上、極めて重要な役割を果たした騎兵戦力については、南軍がJ.E.B.スチュワート少将の率いる約1万人、北軍がアルフレッド・プレザントン少将の率いる約1万1千人の騎兵部隊が参戦した。
北部ヴァージニア軍に対するリー将軍の作戦発動命令は6月3日で、ラパハノック河畔の基地フレデリックスバーグに第3軍団を後発部隊として残して、第1と第2軍団を北西のオレンジ・アレクサンドリア鉄道上にあるカルペパー・コート・ハウスに集結させた。
スチュワート騎兵部隊はカルペパー北のブランディー駅で閲兵式を実施したが、これに対して6月9日、北軍のプレザントン騎兵部隊が先制攻撃を仕掛けて南北戦争中最大の騎兵戦闘が勃発した。
結果的に見れば、この時後手を踏んでしまったスチュワート将軍が失策の名誉回復を急ぎ、南軍歩兵軍団の右翼を並進して索敵活動を行うという本来の任務を忘れて北軍右翼を大きく迂回し側面攻撃を仕掛けることに熱中してしまった事から、南軍の事後の作戦遂行が齟齬を来したわけである。
そのため、敵地でリー将軍は北軍の行動を6月末まで把握することが出来ないまま、ペンシルベニア州内部に深く侵入することになってしまったのであった。敵地に侵入した南軍がこのように敵情把握に失敗したことこそ、7月1日から3日のゲティスバーグの戦いで南軍が敗退する大きな原因を作ってしまったと言えるだろう。
筆者には、ゲティスバーグに集結するまでの南軍の行動は、実に計算されていて見事な機動作戦であったと思われる。南軍の機動は、まず先発の第1軍団が、カルペパー・コート・ハウスからブルーリッジ山脈をシェナンドア渓谷に抜ける隘路であるスニッカーズ・ギャップとアシュビーズ・ギャップを確保する。
その間に第2軍団が、さらに南方のチェスター・ギャップを通過して渓谷内に侵入し、北軍守備隊を蹴散らしながらウインチェスターに進撃した。ユーエル軍団は、6月14日のウインチェスターの戦闘で北軍師団約5千人を捕虜にしている。その後、第2軍団は全軍の先頭を切ってポトマック川を渡河し、メリーランド州シャープスバーグに侵攻した。
後方に待機していたヒル将軍の率いる南軍第3軍団は、6月14日にフレデリックスバーグを出発してアシュビーズ・ギャップを越え、第1軍団を追い越して第2陣としてポトマック川を渡河したようである。つまり、南軍は時間差を置いて、東西2縦隊で渡河地点に進撃したことになる。これは北軍の目を欺く見事な機動作戦であったと筆者は考える。
なおスチュワート騎兵部隊の迂回攻撃については、6月25日にセイレム付近からブルラン山地を東南に抜けて北軍後方を遮断する形で開始されたが、リー将軍は北軍が南軍の侵攻を察知してポトマック川を超えた時点で本隊に合流するよう事前にスチュワートに命令を下していたのだが、これは結局実現しなかった。
結果的にスチュワート騎兵部隊の合流は、7月2日決戦2日目の晩の時点迄遅延してしまったわけである。これは索敵を軽視して2つの作戦目標を立てて戦果の拡大を欲張ったために敗北した、日本海軍のミッドウェイ海戦と同様の南軍の大失態であったと筆者は思う。
リー将軍はその結果北軍の行動把握に失敗したわけであるから、北軍の展開が予想以上に早く、かつ広大であったため、南軍歩兵軍団との距離が想定外に離れてしまった点を考慮に入れても、これはスチュワート少将の重大な命令違反であったと言えるだろう。
南軍の失態と言えば、ロングストリート将軍の遅い行動も解せぬところだ。第1軍団は先発したにもかかわらず、後続軍団に追い抜かれてゲティスバーグの決戦2日目にようやく参戦出来たに過ぎなかった。第1軍団最後尾を進んだジョージ・E・ピケット少将の率いる師団については、決戦2日目夕刻に戦場に到着して、7月3日北軍陣地中央部セメタリー・リッジに対する無謀な正面攻撃(ピケットの突撃)で壊滅してしまっている。
北軍ポトマック軍を率いたフッカー将軍による南軍の北部侵攻察知は予想外に早く、南軍の行動の逆を突いてフレデリックスバーグに残っていた南軍ヒル第3軍団を撃破してリッチモンドを急襲する提案をワシントン対して行ったが、リンカーン大統領にあっさり却下されて南軍追撃のために北進を開始した。
これはリンカーン大統領が、チャンセラーズビルの戦いにおけるフッカーの指揮官としての能力に不信感を抱いていたためだと言われている。結局、リンカーンはポトマック川渡河後の北軍がフレデリックに集結した6月28日にフッカーを解任して、ジョージ・ゴードン・ミード少将にポトマック軍の指揮を継承させたのであった。
作戦遂行中の司令官解任とは、はなはだ異例な措置であるから、北軍の指揮統制の建て直しは非常に大変だっただろう。ともあれ、6月中に南北両軍の決戦に向けた準備は整ったことになる。
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