先の投稿で述べたとおり、1863年6月28日に北軍ポトマック軍がメリーランド州フレデリックに集結した時点で軍司令官が交代し、ミード少将がフッカー少将から指揮権を引き継いだ。
この北軍の指揮官交代の事実は、北上中の南軍リー将軍も28日当日に知ったようだ。しかし、リー将軍としては、北軍が山脈を挟んで自軍のすぐ東方地点にまで進出していることは全く想定外であっただろう。
なぜなら、当時南軍3個軍団はメリーランド州からその北のペンシルベニア州にかけて広範囲の地域に散らばっていたため、集結してポトマック軍との決戦に臨む態勢が未だ出来ていなかったからである。
南軍先鋒のユーエル第2軍団はペンシルベニア州チェンバーズバーグを既に通過してカーライルに向かって北進を続けており、ジュバル・A・アーリー少将に率いる1個師団は分派されて東方のゲティスバーグでの北軍の散発的抵抗を排除し、6月28日にはヨークからサスケハナ河畔のライツヴィルにまで進出していた。
これに対する北軍は、先鋒のジョン・ビュフォード将軍の率いる騎兵師団が6月30日にエミッツバーグ街道からゲティスバーグに入って街の北西にあるルーテル派神学校のあるセミナリー・リッジの外側に位置するマクファーソン・リッジに布陣して防御態勢を敷いた。
このビュフォードの的確な判断の結果、南北両軍の決戦地がゲティスバーグに決定されたのであろう。ゲティスバーグは東西南北方向から合計9本の街道とターンパイクが集中する交通の要衝であったから、ここに両軍が集結することが最適であったからだ。
そして、7月1日以降、両軍が次々に援軍を投入した中で、結果的に見れば、戦力に勝る北軍がゲティスバーグ周辺に散在する丘陵地帯を南軍より先に抑えて陣地を構築することに成功したことが、南軍敗退の最大の原因になったと筆者は考える。
当時南方から迫る北軍歩兵軍団は、南西のエミッツバーグ街道と南方のテイニータウン街道、そして南東のボルティモア・ターンパイクから、それぞれ2個軍団が分進したようである。
北軍ビュフォード騎兵師団を援護するために先着した歩兵軍団は、南西から進撃してきたジョン・F・レイノルズ将軍の率いる第1軍団とオリヴァー・O・ハワード将軍の率いる第11軍団であったが、7月1日決戦初日の戦いではゲティスバーグ北西方向からチェンバーズバーグ・ターンパイクを進んできた南軍A.P.ヒル第3軍団と、北方カーライル街道から南下してきたユーエル第2軍団の攻撃によってレイノルズ将軍が戦死してしまった。
このように、初日の戦いでは北軍がゲティスバーグを防衛することに失敗して街の南方にあるセメタリー・ヒルに撤退した。ここで非常に不思議なのは、当日午後2時頃に戦場に到着していたリー将軍が、戦況判断を誤ってユーエル軍団のセメタリー・ヒルへの攻撃続行の進言を退け、この日の戦闘中止を命令してしまった重大な判断ミスであろう。
恐らくリー将軍は、スチュワート騎兵部隊からの斥候の報告が入って来なかったために、北軍の集結が遅れていることに気付かなかったのであろう。そのため、敵軍の戦力を過大に見積もってしまい、進撃中の第1軍団の到着を待って南軍の兵力集結後に攻撃を再開することにしたのだろう。このリー軍司令官の判断ミスによって、南軍の唯一の勝機が失われたと言えるだろう。
なぜなら、セメタリー・ヒルの守備についたハワード第11軍団は、わずか2か月前に故ストーンウォール・ジャクソン将軍の迂回奇襲攻撃を受けて真っ先に敗走し、チャンセラーズビルにおける北軍敗北の原因を直接作った屈辱から未だ立ち直っていなかったからである。
したがって、南軍が決戦初日の勝利に乗じて好機を逃さずハワード軍団攻撃を続けていれば、恐らくこの時点で兵力が不足していた北軍をゲティスバーグ南方の丘陵地帯から掃討することに成功したであろう。それはすなわち、決戦における南軍の決定的勝利を意味していたに違いない。
結果的に見れば、この7月1日決戦初日に南軍が中途半端に攻撃を中止してしまったために、ミード将軍に先行して前線指揮官として北軍の陣地構築に派遣されたウィンフィールド・スコット・ハンコック少将が丘陵地帯に堅固な陣地を構築してしまったわけである。これで北軍の勝利にゲティスバーグ決戦の帰趨が決まったというのが、筆者の感想である。
北軍の布陣は、右翼(北方)のカルプス・ヒルとセメタリー・ヒル、中央部(西方)のセメタリー・リッジ、そして左翼(南方)の2つの円丘(ラウンドトップ)に堅固な陣地を構築し、それぞれ砲列と最終的に6個軍団を配置することに成功した。この状況では、翌日以降に展開された兵力劣勢な南軍の正面攻撃が成功するはずが無いだろう。
実際、7月2日決戦2日目の北軍両翼に対する南軍の猛攻も、その翌日決戦3日目(最終日)の北軍中央に対するピケットの突撃も、いずれも無惨な失敗に終わってしまったわけだ。
3日間にわたって南北両軍の激戦が展開されたゲティスバーグの戦いでは、南軍の死傷者数は約2万8千人、北軍の死傷者数は約2万3千人に上ったと言われている。ゲティスバーグの戦いの有様は、正に日露戦争や第1次世界大戦における塹壕戦の先駆けとなる近代戦の大量殺戮の結果をもたらしたと言えるだろう。
そして北部侵攻とこの決戦に敗退した南軍は、それ以後兵力の補充を十分に行うことが出来ないまま、1865年4月に首都リッチモンドが陥落し、4月9日にヴァージニア州アポマトックス・コートハウスでリー将軍が北軍総司令官に就任していたグラント将軍に降伏して、南北戦争は事実上終結するに至ったのであった。
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