2015年8月7日金曜日

「良き同盟」(La Bell Alliance=ナポレオン本営の地名)と優秀な参謀将校が機能した、ワーテルローの戦い

 1789年に勃発したフランス革命以降ナポレオン戦争が終結する1815年までの間、フランスを除く欧州四大国(英墺露普)は合計57次にわたる対仏大同盟を結成して、フランス革命政府軍やナポレオン軍に対抗した。

 実態的に見ると対仏大同盟は個別の二国間同盟が集積したものであり、その目的は欧州の「勢力均衡」を回復することにあった。「勢力均衡」とは、1713年スペイン継承戦争を終結させるために締結されたユトレヒト条約によって初めて明文化された用語である。

エマリッヒ・ヴァッテルの定義を援用すると、「勢力」を「均衡させること」の意味は一国が優越的地位(覇権)を占めるようなパワー配分の単極状況を作らないことであり、ナポレオン戦争時点においては四大国がナポレオンの欧州での覇権確立を軍事的に阻止し、ナポレオン帝政を打倒してブルボン家の王政復古を回復するための体制変更を目指す同盟に変容していたのである。

 その同盟関係が最も良く機能したのが、18153月ナポレオンのエルバ島脱出とパリでの帝位復帰後に結成された第七次対仏大同盟(墺英普露同盟条約)における、イギリスとプロイセンのベルギーでの一連の連携した軍事作戦であろう。

 同盟諸国はナポレオンを「無法者」だとし、その軍事力に対抗するために約40万人の兵力を集結した。フランスと国境を接するベルギーでは、ドーバー海峡沿岸のオーステンデを策源地としてウェリントン公(アーサー・ウェルズリー)の指揮する約105千人の英蘭等連合軍が布陣した。また、約116千人のプロイセン軍はブリュッヘル元帥が率いて、やや内陸側に位置していた。

なお、この時のブリュッヘル軍参謀長は、ナポレオン軍に対抗するため国土防衛軍や参謀を養成するための士官学校(後のプロイセン陸軍大学)を創設するなど、軍制の近代化改革を実施した中心人物であった、アウグスト・フォン・グナイゼナウであり、また、『戦争論』を執筆したクラウゼヴィッツも第3軍団参謀長として従軍していたのが興味深い。

 この同盟軍に対抗するナポレオンは大陸軍を召集したが、攻撃用の野戦軍は5個軍団と騎兵および砲兵計約12万人しか集めることが出来ず、しかも優秀な参謀長であったベルティエ元帥が王政支持との板挟みになって61日に自殺したため、前線軍団長だったスールト元帥を参謀長とした。

しかし、スールトには参謀職に必要な的確な事務処理能力が無く、結果的に見ればグナイゼナウとの能力差が、その後のワーテルローでのナポレオンの敗北と百日天下を招いてしまったのである。

 615日、油断していた同盟軍の不意を衝いて、ナポレオンは内陸部のシャルルロアからベルギー領内に侵攻した。左翼軍はネイ元帥、中央の予備軍は自分、右翼軍はグルーシー元帥が率いるそれぞれ2個軍団34万人程度から編成された兵力だったようだ。ナポレオンの作戦は英蘭軍とプロイセン軍を分断・各個撃破して、ウェリントン軍を海岸線に追い落とし、プロイセン軍を退却させることだったと思われる。

 ウェリントンは当初、より平野部に位置し、パリから直結するモンスを経由してナポレオン軍が南西からブラッセルに侵攻してくると考えたようである。そのため、兵力をブラッセルの南西部に多く配置していたらしい。そこをナポレオン軍が不意を衝いて、南方から急速に迫って来たという状況であった。

 616日、ナポレオンは右翼軍と予備軍を集結して、リニーでプロイセン軍3個軍団を撃破した。しかし、ナポレオンの事後の行動は非常に緩慢で、グナイゼナウの見事な後退作戦を見過ごして翌日まで追撃しなかった。このナポレオンらしくない判断ミスが、翌々日のワーテルローでの決定的な敗戦に結び付いたのである。

一方、オラニエ公ウィレム(後のオランダ王ウィレム2世)が率いる英蘭第1軍団がカトル・ブラの交差地点に転進してミシェル・ネイの仏左翼軍を迎撃し、ウェリントンの本隊も後続部隊として駆けつけたため、同盟軍はカトル・ブラの守備には成功したが、リニーでの敗戦を聞いてこちらもブラッセル街道を北方に撤退した。

 617日午後、カトル・ブラを占領したネイの左翼軍と合流したナポレオンは、ウェリントン軍を追撃することを決定した。なお、ナポレオンはリニー進発時にグルーシーの右翼軍約3万人をプロイセン軍追撃に派遣したのだが、敵の退路の進行方向がブラッセルに向かう北方か、無傷で残存していたビューロー将軍が率いる第4軍団と連絡できる北東に向かったのか依然不明であったため、この追撃命令は極めて曖昧な内容で、その結果プロイセン軍はグルーシー軍の追撃をかわすことに成功してリニー北方のワーヴル東方に集結することが出来たのである。

なお、この617日夜は戦場一帯が豪雨に見舞われたため、翌日の軍の機動に支障を来したこともナポレオンの不運であったと言えるだろう。翌日のワーテルローの戦場では、泥濘のため仏軍の攻撃開始時間が遅延したことがプロイセン軍の援軍到着が間に合ったことに繋がったし、また、砲弾の反跳効果が喪失したことが、英蘭軍の陣地死守を成功させたことに寄与したとも言えるからである。

 ウェリントンはカトル・ブラ北方のモン・サン・ジャン(ワーテルロー)に連なる稜線が要害の地で、当初からこの地で迎撃する作戦を練り上げていたとされる。グナイゼナウはこの作戦に反対だったようだが、結果的にはウェリントンの戦術眼の正しさが、プロイセン軍到着まで劣勢かつ経験不足な兵力でナポレオン大陸軍を押し止めることを成功させたのだろうと筆者は考える。

 また、ブリュッヘル元帥も緊密にウェリントンと連携して併進しつつワーテルロー東方に位置するワーヴル周辺に後退したため、18日の戦場にまず無傷のビューロー軍団を迅速に援軍として送ることができ、このプロイセン軍が夕刻にプランスノワ村から仏軍右翼を圧迫してナポレオンが迎撃に向かわせたロバウ将軍の第6軍団と新規近衛部隊を打ち破った結果、最終的にナポレオン大陸軍を潰走させることに成功したのだと言えるだろう。

 ウェリントン軍が布陣した丘陵地は背後の斜面に兵力の展開を隠すことが出来た。また、戦列前面の右翼にはウーグモン館、中央にはラ・エイ・サント農場、そして左翼にはプロイセン軍の援軍が進撃予定の道を見下ろす位置にパプロットの小集落があって、それぞれ背後の稜線に布陣した本隊の戦列から容易に支援することが出来る堅固な陣地を構築していた。

そして、18日当日の戦闘ではレイユ将軍が率いる大陸軍第2軍団の攻撃が過剰に仏軍左翼にあるウーグモン館に集中してしまったためか、また、前夜の豪雨のせいもあって右翼軍のデルロン将軍が率いる第1軍団の砲兵による支援射撃後の総攻撃が午後まで遅れてしまったのかも知れない。この遅れが、英蘭軍にプロイセン軍到着までの時間的猶予を与えた。

また、命令が誤認されたためか、デルロン軍団は各師団が密集した縦列隊形で敵の横隊火力に突撃を繰り返すという愚を犯してしまった。その後、同方面の指揮を一任されたネイ元帥はナポレオンにラ・エイ・サントの奪取を厳命されたため、既に戦機を逸していたにもかかわらず大隊方陣を連ねた敵の戦列に火力支援の無いまま胸甲騎兵の突撃を繰り返して、兵力を消耗させてしまったのである。

 『孫子』地形篇では四方に通じる「交地」では、日当たりの良い高地を先に占拠して防塁を築き、食糧補給路を確保した方が有利であり、また九地篇では、「交地」では隊列を切り離さないで防御を厳重にすべきであると記されている。ワーテルローの戦いでのウェリントンの布陣は、この孫子の教えに非常に合致していることが面白い。

 この戦いの際のウェリントン軍では実戦経験豊富な兵力が比較的乏しく、特に騎兵部隊は経験不足なため稜線背後の支援に回らせた。そして精鋭の近衛歩兵連隊をウーグモン館の守備に当たらせ、国産の最新式ベーカー式ライフル銃で武装した散兵戦術が可能な王室ドイツ人歩兵大隊をラ・エイ・サントに、道路を挟んだ反対側の採石場にドイツ人大隊と同武装の第95ライフル銃連隊を狙撃兵としてそれぞれ配置して、最前線で侵攻する敵に縦射を浴びせる態勢を採ることが出来ていた。

 このウェリントンが敷いた万全とも言える防御態勢に対して、ナポレオンの方はウェリントンの戦術能力を甘く見誤っていたのではないかとも思える。グルーシーの指揮する追撃軍が簡単にプロイセン軍を牽制出来ると考えていたこと、618日にプロイセン軍がワーテルローに向かって進撃していたことを全く知らなかったのは決定的に重大な判断ミスであるし、そもそも作戦目的が曖昧な追撃命令など出さずに、最初からグルーシー軍に戦場への合流を命じておくべきだっただろう。

 グルーシーは最後までナポレオン(そして、その参謀長であるスールト)の発した曖昧なプロイセン軍追撃命令に拘ったため、ワーテルローでの戦闘に参加することが出来なかったのである。

 こう考えるとワーテルローでの歴史的惨敗とナポレオンの百日天下は、ナポレオンらしくない甘い状況判断がもたらした、必然的な結果と言えるのではないだろうか。

  明日より筆者は10日間ほど夏季休暇に入りますので、投稿もその間は中断いたします。

2015年8月6日木曜日

ボロジノの戦い-ナポレオン戦争中最も拙劣な正面攻撃作戦に関する感想

 18126月、イギリスに対する大陸封鎖令を遵守しないロシアを懲罰するため、ナポレオンは50万人以上の大軍を率いてロシア遠征を開始した。ナポレオンの当初の作戦は国境付近まで進んで会戦に持ち込み、ロシアの野戦軍を撃滅する意図であった様である。スモレンスクよりさらに東方、よもや首都モスクワまで進撃するとはナポレオンは全く想定していなかったと思われる。

 ナポレオンの大陸軍がロシア領奥深くまで引き込まれてしまったのは、当初のロシア軍総司令官バルクライ・ド・トーリが有名な焦土作戦で決戦を回避し後退し続けたためであるが、その消極的な作戦指導と国土の荒廃は皇帝アレクサンドル1世に嫌悪された。

そのため、バルクライは皇帝に解任されてしまい、1805122日のアウステルリッツの戦いでも慎重な作戦指導を提言したミハイル・クトゥーゾフ元帥が代ってロシア軍総司令官に就任した。

クトゥーゾフは皇帝の意向を受けて、モスクワから西方約110kmのモスクワ川が街道を横切る地点に位置するボロジノ村付近の小丘陵地に野戦陣地を構築して、181297日、フランス軍を迎撃したのである。

 レフ・トルストイの小説『戦争と平和』でもクライマックスの戦闘シーンで有名なこのボロジノの戦いでは、ナポレオンはアウステルリッツの戦いの時とは比べ物に成らない位拙劣な作戦指導を行った。つまり、各軍団に敵の野戦陣地に対する正面からの強襲攻撃を命令したのである。

 実はこの日の戦闘開始以前に、大陸軍中で最優秀の軍団司令官であった第1軍団を率いるダヴー元帥が、ロシア軍左翼を迂回して南から攻撃する作戦を提案した。しかし、ナポレオンは、スモレンスクでロシア軍を容易に撤退させて取り逃がしてしまった苦い経験で懲りていたためか、このダヴーの妥当な提案を却下して、ロシア軍左翼部隊が守備する3つの突角堡に対する夜明けからの正面攻撃を命じたのである。

 ロシア軍はこの突角堡の右の戦場中央部にラエフスキーが守る大多面堡も構築していたから、フランス大陸軍の正面攻撃は大損害を出すことを覚悟の上での極めて無謀な作戦だったと言えるだろう。

 一説によると、ボロジノ戦い当日のナポレオンは風邪による高熱で極めて体調が悪かったため、普段の戦闘の時のような判断力を欠いていたとも言われている。兵力ではロシア軍約12万人に対して大陸軍約13万人でやや優勢であったが、野砲の数ではロシア軍は600門以上で600門に満たない大陸軍を圧倒していた。

 そのためミュラ元帥の率いるフランス軍騎兵予備隊はロシア軍砲兵の連続砲撃で大きな被害を蒙っている。しかし、拙劣な正面攻撃作戦で大陸軍の歩兵軍団が大損害を出し、ダヴーが負傷して戦闘を指揮できなくなった後のミュラとネイ元帥の率いる第3軍団の攻撃で突角堡が占領でき、その結果ロシア軍の戦列を中央突破することに成功したのである。

 このボロジノ戦いではフランス軍胸甲騎兵が突撃によって銃剣で武装したロシア軍の大隊密集方陣を撃破しているが、これは当時非常に困難な作戦だと考えられていたようだ。実際、火力に乏しい騎兵の突撃で歩兵大隊の密集方陣を突破することは難しかっただろう。

騎兵軍団司令官ミュラの信じ難い蛮勇の発揮や、ボロジノ村占拠後モスクワ川を渡河してロシア軍多面堡への攻撃で苦戦していたウージェーヌ公の率いる第4軍団を支援するため派遣されたコランクール将軍(攻撃中戦死した)が率いる胸甲騎兵が多面堡を迂回攻撃して占領するなど、この日の大陸軍では苦戦の連続だった歩兵軍団に比較すると騎兵部隊の大活躍が顕著であり、その結果ロシア軍を撤退させることが出来た模様である。

 『孫子』九地篇では、敵国内部に深く侵入した「重地」では、自軍の結束が固まるから敵の迎撃では敗北しないという記述があるが、ボロジノの戦いにおける大陸軍騎兵部隊の活躍は、正しく「重地」における結束と士気の高さが影響した結果なのではないだろうか。

 これに対するロシア軍騎兵は、コサックと軽騎兵の部隊がウージェーヌ公の第4軍団の左翼を大迂回してフランス軍後方の輜重部隊を襲撃しようと試みたものの、ナポレオンが派遣したグルーシー将軍の率いる軽騎兵部隊に簡単に蹴散らされて相当な損害を出している。

 クトゥーゾフが皇帝に宛てた戦闘報告でも勝手な軽騎兵の攻撃が非難されているから、やはり両軍騎兵部隊の戦闘能力の差がボロジノの戦いの勝敗を決定付けた模様だ。それにしても、コサックは軽装の槍騎兵で規律を守らず無慈悲であったとされるから、戦場では余り役に立たなかったのではないだろうか。

 とは言え、この日のナポレオンはミュラとネイの軍団の奮闘でロシア軍を中央突破した後も予備の近衛軍の投入を見送ってしまい、ロシア軍の堡塁からの後退と戦列建て直しを手助けしてしまうなど、戦術上のミスが目立った。その結果、クトゥーゾフ軍は5万人もの死傷者を出したもののモスクワへ撤退することが出来たのである。

 ナポレオンの拙劣な作戦で大陸軍も約3万人の兵力を失ったため、ロシア軍を追撃する余力が無く、1週間後にモスクワを占領した。しかし、ロシア軍の放火でナポレオン軍の補給線は完全に崩壊し、冬将軍の到来とともに大陸軍は壊滅してしまったのであった。

2015年8月3日月曜日

ナポレオン大陸軍の「機動」と「詭道」による第三次対仏大同盟の崩壊

 『孫子』冒頭の「計篇」では、戦争の本質を「詭道」、すなわち敵を騙すことと規定し、自軍の弱小を装って作戦展開が不可能であるかのように見せかけて敵を増長させるとともに、敵を釣り出す餌を見せて自軍に有利な戦場に誘い出し、敵軍の混乱に乗じて攻撃することを提唱している。また「行軍篇」では、困窮していないのに敵の使者が和睦を求める裏には敵の策略がある、とも述べている。

 「軍争篇」では、敵の裏をかいて臨機応変に軍の分散と集中を行うこと、また、敵より遅く進発して先に戦場に到着する迂回機動を「遠近の計」として、行軍の際における機動力の重要性を強調する。

もちろん、そうした軍の機動力発揮は各部隊が各個撃破される危険も伴っているから、分散機動(分進合撃)によって軍の統率が決して乱れないような組織編成と練度、そして十分な補給体制が整備されている必要がある。その点で、ナポレオンの編成した大陸軍の戦闘師団と軍団編成は単に戦場における戦闘力を強化したのみならず、単独の作戦行動が可能であったために機動力の発揮に大いに適した組織体系であったと言えるだろう。

 筆者の私見によると、『孫子』の兵法の真髄は、この「詭道」と「機動」の重要性を繰り返し主張している点と、兵を「死地」に置いて奮戦させることの三点にほぼ集約されているのではないかと考える。そして、その三点を極めた将軍こそが優れた将軍に他ならないのである。

1805年にウルムの戦いとアウステルリッツの戦いに勝利して(1021日のトラファルガーの海戦でネルソン提督の率いる英国艦隊に敗北したため制海権は握れなかったが)、第三次対仏大同盟を崩壊せしめた時点のナポレオンは、皇帝(君主)であるとともに正しく『孫子』の東洋兵法から見ても極めて優れた将軍であったと筆者は考える。今日はこの点について分析してみたい。

 1805年、前年122日に帝位に就いたナポレオンの欧州全域への覇権確立を阻止するために英墺露三大国が締結した第三次対仏大同盟は、ナポレオンが英国征服のために編成した軍団の驚異的に迅速な「機動」によって、9月から10月下旬にかけて行われたウルムの包囲戦でオーストリア軍が降伏させられ、また、11月中旬にウィーンを占領されてしまった。

現在のチェコのモラヴィアに後退した露墺両国皇帝の率いる連合軍を、ナポレオンは劣勢な兵力にも関わらず、122日にアウステルリッツの戦場で芸術的な「詭道」によって撃破した。そして、124日、オーストリア皇帝フランツ1世を降伏させ、26日のプレスブルクの和約でオーストリアを同盟から脱落させることに成功し、第三次対仏大同盟を崩壊に追いやったのである。

 そもそも英仏両国は第二次対仏大同盟が崩壊した18023月のアミアンの和約で一旦和解したが、英国は和平条件であったマルタ島撤退を履行せず、18035月和約を破棄してナポレオンに宣戦布告した。制海権を握る英国海軍は、海上封鎖を行ってフランス経済に打撃を加えた。

 1805年ナポレオンは英国本土に侵攻するため、陸軍の大兵力をドーバー海峡対岸のブーローニュに集結させたが、実は対英上陸作戦を見越して1803年夏から既にブーローニュやブレストなど6か所の野営地で軍団ごとに武器操作や戦略・戦術機動に関する将兵の猛訓練を行っていた。これが、その後の大陸軍の驚異的な機動力の発揮につながったのである。

 当時の歩兵の主力装備は燧発式前装マスケット銃で、銃身内にライフルを切っていないため威力は大きいが火縄銃と同様に50m程度の有効射程距離しかなく、将校は貴族で兵卒を強制徴募していたプロイセン軍などでは将校の統率力と兵卒の士気が低いため、散兵戦術は兵の逃亡を招くために用いることが出来ず、戦闘では旧式の密集横隊、行軍では縦隊隊形が採用されていた。

 つまり、革命後のフランス軍が国民軍で士気と練度が他国軍より高かったため、戦場では散兵と横隊およびグリボーヴァルが整備した機動力に優れた野戦砲兵隊が火力支援する中、歩兵の密集縦隊と胸甲騎兵の打撃力で敵陣を粉砕・分断し、敵が後退するところを龍騎兵などの軽騎兵が追撃するという、有効な戦術を採ることが出来たのである。

 また、フランス軍が戦闘師団と軍団に軍を分割し、機動力を発揮して戦場に分進合撃出来たのも、国民軍として士気が高く、統率が取れていた結果であった。これに対する対仏大同盟軍は、いまだ大隊縦隊をいくつか連ねた連隊が軍の恒常的な編成に過ぎず、戦闘師団編成を採用することが出来ていなかったため、戦場への行軍に際して分進合撃で機動力を発揮することは不可能であり、戦場でも臨時編成した縦隊を将官が指揮する単純な形態に過ぎなかったから、ナポレオンの大陸軍のような諸兵科連合による有機的な連携作戦を実施することも出来なかったのである。

 ウルムの戦いでは、ナポレオンの先手を打ってオーストリア軍が、ナポレオンの同盟国バイエルンの首都ミュンヘンを占領した。この時、クトゥーゾフとバグラチオンの率いるロシア軍もオーストリア軍支援のためバイエルンに向かっていた。また、フランツ1世の弟カール大公(オーストリアの軍事改革を主導したので有名な人)の指揮する9万人の大軍が、イタリアに侵攻していた。緒戦では、明らかに同盟軍の方が優勢であったと思う。

にもかかわらず、ナポレオンのバイエルン救援命令で大西洋岸に集結していたフランス各軍団が8月末から約800km以上の距離を約1か月で移動してライン川を渡河し、オーストリア軍背後のドナウ川に迅速に迂回起動すると、ウルムに籠城したオーストリア軍はフランス軍に包囲攻撃されてしまったため、1020日、総司令官のカール・マック・レイベリヒ元帥はナポレオンに降伏してしまった。

 このウルムの戦いは、フランス大陸軍の機動力による勝利の典型例である。これに対して、122日のナポレオンの戴冠1周年記念日に起こったアウステルリッツの戦い(三帝会戦)は、将軍としてのナポレオンが芸術的な詭道を用いた会心の勝利であったと言えるだろう。

 すなわち、11月中旬にウィーンに入城したナポレオン軍は後方の補給線が伸び切っていた上、ウィーンを撤退したフランツ1世の軍とロシア皇帝アレクサンドル1世の軍は、モラヴィアで合流してオロモウツに集結していた。連合軍の兵力は8万人以上で、この他にカール大公の率いる大軍がイタリアからハンガリーに転進しており、また、プロイセン軍が参戦する様子を見せていたためにナポレオン軍はかなり兵力劣勢であった様である。

 ナポレオンはダヴー元帥の第3軍団をウィーン守備に残し、3個軍団と予備の近衛軍、義弟ミュラ元帥の率いる騎兵軍団を率いてブルノに進出した。ブルノの南東約10kmに位置するアウステルリッツは、ブルノとオロモウツを結ぶ街道とウィーンへ南下する街道が分岐する要衝であり、中央部に位置するプラッツェン高地をスールト元帥の率いる第4軍団が占領したにも関わらず、ナポレオンはプロイセン軍到着前に敵軍を会戦に誘導して各個撃破するため、わざと連合軍に和睦を持ちかけ弱気を見せる策略を用いた。

 スールト軍団をプラッツェン高地から撤退させると、ランヌ元帥の第5軍団を北のブルノへの退路を確保するように左翼に布陣させ、霧中の中央部にスールトの第4軍団とベルナドットの第1軍団、ミュラの騎兵軍団など主力部隊を配置してプラッツェン高地奪還を企図した。そして右翼には、ゴールドバッハ川沿い数kmの長大な前線を脆弱な兵力で守備する態勢を採って、敵の攻撃を右翼に誘う作戦を採ったのである。

この時、ナポレオンはウィーンに後置していたダヴー軍団に迅速に右翼に展開するよう既に命じており、実際122日当日の戦闘では、ナポレオン軍右翼を脆弱であると見誤った連合軍の攻撃が右翼に集中したが、結局フランス軍の戦列を突破できず、逆に兵力劣勢となったプラッツェン高地をナポレオン軍主力部隊に奪還されて連合軍の戦線が南北に分断され、決定的に敗北してしまったのである。

このように、アウステルリッツの三帝会戦は、正にナポレオンが見事な「詭道」を用いた結果の勝利だったのである。