2015年7月10日金曜日

新入社員の「ほどほど志向・サバサバ傾向」強まる(平成27年度新入社員「働くことの意識」調査結果)に関する感想

 日本生産性本部と日本経済青年協議会が取り纏めた、平成27年度新入社員「働くことの意識」調査の結果について、新入社員の「ほどほど志向・サバサバ傾向」が強まったという記事が有ったので筆者もデータを確認してみた。

 今年の新入社員はいわゆる「ゆとり」「さとり」世代(1986~95年生まれ)に属し、筆者を含む「新人類」世代(1961~70年生まれ)から見れば子供の代に該当するため、別名「新人類ジュニア」とも呼ばれる若者達である。

 最近社会人となった彼らは、よく会社の先輩たちから「自発的でなく休日出勤や残業を嫌う」「飲み会を断る」とか、「敬語や言葉使いがなっていない」と指摘されるらしいが、これが彼らの親世代である我々新人類世代に当時浴びせられた批判とほとんど被っていることに苦笑せざるを得ない。科学的根拠は無いが、親世代の特徴が子供世代に乗り移ったと言えるのかもしれない。

 しかし、新人類とさとり世代では、消費の傾向と性質が外向的か内向的かという点で大きな相違が存在する。我々世代は、青年期にバブル経済に遭遇し、日本社会がサービス業中心の消費社会に大転換した時期を経験している。特に「オタク」と呼ばれる人達に顕著に見られるように、消費の個人化と差別化が進んだ時代に多感な若者時代を生きている。

 そのため、新人類は概して消費に貪欲で、海外旅行やクルマは生活必需品であったと言える。個人的には、アメリカナイズされた普遍的価値を心に内面化してきた世代であるとも言えるだろう。

 ところが、我々の子供世代である「さとり」世代の若者達は、上記の調査結果では新人類と全然違う性向を持っているようだ。特に、「海外の勤務があれば行ってみたい」という質問に肯定的な答えを示したのがわずか43.7%で、前年より2.6%マイナスで海外志向がさらに低下していることには驚きを隠せない。今の若者は無欲で刺激を好まず、旅行に行かないで自宅で休日を過ごす内向的傾向が強いと言われるが、これは海外旅行好きで外向的なアウトドア志向の人が多い我々新人類世代とは、真逆の性質だと言えるだろう。

 出世志向が弱く「人並みに働けば十分」であると考える「ほどほど志向」の人が53.5%と過去最高の水準であることの背景については、昨今の売り手市場の就活の余裕という点もあるだろう。しかし、本質的には彼らが少子化時代に成長し、バブル崩壊後の日本のデフレ不況期しか経験しておらず、また我々時代には考えられなかったようなインターネットの普及と多様な情報テクノロジーを浴びて育ってきたため、訳知りで醒めた感覚を持っている点が、彼らを特徴づけるこの「ほどほど志向」に影響を及ぼしているのではないか。

 また、今年の新入社員は全体として職場や仕事へのコミットメントに淡白で、「職場の上司、同僚が残業していても、自分の仕事が終わったら帰る」人が41.5%(前年比プラス6.4ポイント)いるそうだ。

 筆者が思うにこの新入社員の「ほどほど志向」「サバサバ傾向」は、今の日本企業の多くが終身雇用制を見直し、年功給から役割給に賃金体系を移行させている傾向が強まっていることに対する彼らなりの合理的対応であろう。「どこでも通用する専門技術を身につけたい」人が92.3%(前年比プラス3.3ポイント)に上っていることから考えても、彼ら新入社員が会社の枠組みに留まるより自らの市場価値を高めることの方が、今後の日本社会で自分の生活を安定させるために重要であると良く理解している結果であると言える。

 「すこし無理だと思われるくらいの目標をたてた方ががんばれる」人が69.9%(前年比マイナス4.4%)に低下した点は、筆者には少し気になる。この「ほどほど志向」では、新入社員の労働生産性が高まらない懸念があるからだ。

 筆者が不思議に思うのは、「自分はいい時代に生まれたと思う」新入社員が77.3%と、昨年の75.5%から増加傾向にあることだ。また、「友人といるより、一人でいるほうが落ち着く」人が過半数以上の51.9%に達していることは、彼らが気の合わない人とは積極的に付き合おうとしない傾向を持つことと、内向型生活志向の人が多いことを証明しているのかもしれない。

 大坪寛子さんの論文「JGSS-2012のデータ分析による社会および個人生活に対する意識の世代別検討」(JGSS Research Series No. 11)の調査結果によると、新人類ジュニア世代は他の5つの世代(第一戦後、団塊、新人類、団塊ジュニア)と比べて公共的機関及び組織に対する不信感を抱く者の割合が最も高く、懐疑的な態度を持っている傾向があるとされている(同上、29頁)。他の世代が人間を性善説で見ているのに対して、新人類ジュニア世代だけは人間の本性に対する懐疑心から用心深い傾向があるらしい(同上、30頁)。

 他方で彼らは、個人生活に対する意識では満足度が高い傾向がある。特に、友人や配偶者など親密な他者との関係における満足度や将来への希望度は他の世代より最も高く、余暇の過ごし方についても社会から既に引退済みの第一戦後世代(1932~36年生まれ)に次いで高い(同上32-33頁)。この結果は、平成27年度新入社員「働くことの意識」調査で、「自分はいい時代に生まれたと思う」という回答が77.3%と増加傾向にあることと整合的に解釈できるだろう。彼ら若者の社会における幸福感は概して高いのである。

ただし、彼らの幸福感が周囲からのけ者にされていると感じない「反疎外意識」に規定される傾向がある点は他の世代との顕著な違いであり、他の世代とは別の要因が最近の若者の幸福感に作用している可能性もあると上記論文では分析されている(同上、34頁)。

 面白いのが、彼らの親世代である我々新人類世代が、個人生活の経済的側面においても、親密な他者との人間関係においても、さらには余暇の過ごし方についても他の世代よりも満足度の低い者の割合が最も高い点だ。これらの総合評価と言える幸福感についても新人類世代が最も低く、つまり我々新人類世代は、日本社会を代表する不満分子の集まりであるということである。

 例えば団塊ジュニア世代は、経済的不安にさらされながらも社会から受容されているという意識や友人に対する満足感が幸福感を高めるのに対して、新人類世代ではそうした要因は幸福感に影響を及ぼさないらしい。また、新人類は就労している方が幸福感を感じるのに対して、団塊ジュニアは就労していない方が幸福感を感じるそうだ(同上、35頁)。

 良くも悪くも現在の若者である新人類ジュニア、さとり世代と、彼らの親世代である我々新人類が、日本社会で他の世代以上に強烈な個性を放っている存在であることは間違いないようだ。

2015年7月8日水曜日

トヨタ自動車の配偶者手当廃止と「社会保障と税の一体改革」との関係に関する考察

 昨日の朝日新聞デジタルに、トヨタ自動車の労使が従来の家族手当制度の大幅見直しで大筋合意したとの記事が掲載されていた。今回のトヨタの制度改革の目的は、国の「社会保障と税の一体改革」が目指す女性の就労促進と子育て支援を先取りするためである様だが、筆者には相当考えさせる論点を含んでいると思われた。

 まず、既存制度でトヨタ社員の配偶者が専業主婦(または夫)である場合に19,500円の配偶者手当が支給されていたのが、新制度では0円になるそうだ。社員が共働きであった場合には新旧制度下で共に支給額0円であるから、トヨタ自動車は専業主婦(夫)の会社収益に対する貢献度を新制度の下においてゼロ査定したことになる。

 次に考えさせるのは、子ども手当の給付額改定である。既存制度では子供1人目は夫婦共働きの場合に19,500円、片働きの場合に5,000円、2人目以降は夫婦の就労状況に関わらず一律5,000円が支給されていたのが、新制度では共働き片働き関係なく、子供1人当たり一律20,000円を支給するそうだ。

 確かに新制度に移行すれば、トヨタ社員の夫婦と子2人の(標準)世帯のケースで見れば、夫婦の一方が専業主婦(夫)であった場合の合計手当支給額は29,500円から40,000円へ増額され、夫婦共働きである場合の合計手当支給額も24,500円から40,000円に増額される。一見すると、夫婦の就労状況と無関係に子供の人数だけで家族手当の支給額が決定されるわけだから、トヨタ自動車社員の配偶者の就労が促進されるだろう。

 また、子供なしの場合に手当て0円なのが、新制度では子供1人当たり一律20,000円が支給されるのだから、社員世帯の出生率を高め、子育てを支援する効果もかなり高いと言えるだろう。

 専業主婦(夫)に対する優遇措置を廃止する動きは、国の税と社会保険制度改革の下でも検討されている。その代表的な論点が、所得税の配偶者控除と国民年金の第3号被保険者制度を廃止すべきかどうかという議論である。

 現行税制においては、被扶養配偶者の年収が103万円以下であれば本人に所得税が課せられず、扶養者は配偶者控除を受けることが出来るため、当該被扶養配偶者は当面の可処分所得を重視して年収を103万円以下に就労を抑制しようとする。これが税制における「103万円の壁」と言われるもので、被扶養配偶者、特にその多数を占める女性の就労を阻害する要因となっていると言われる。

 国民年金の第3号被保険者(被用者年金加入者である第2号被保険者に扶養されている年収130万円未満の配偶者)も同様で、自らの年収が130万円未満になるように就労を抑制しようとするインセンティブが働く。また、第3号被保険者の場合、配偶者の年収が高いほど就労を抑制する傾向が強く、世帯年収が高いほど配偶者控除を受けやすいという税制上の欠陥がある。健康保険も同様に被扶養者が優遇されており、これが国民年金と健康保険の「130万円の壁」と言われるものだ。

 累進課税制度をとる所得税と、医療に直結する健康保険においては能力に応じた応能負担の原則が妥当であると言えるが、負担と給付の均等が一定程度要求される年金制度においては、応益負担の原則が妥当するとも言えるから、現行の第3号被保険者制度は就労に対する中立性に欠けるばかりでなく、負担と給付の公平性にも欠けるという強い批判がある。

 第3号被保険者個人単位で見れば、自らは保険料を負担せずに将来基礎年金を全額受給できる。そういうわけだから、国民年金保険料を夫と同額で負担している自営業者の妻や、被用者である第2号被保険者である女性達からすれば、何で見ず知らずの専業主婦に将来給付される基礎年金のために自分の所得の一部が移転されなければならないのか、不満を抱くのも理解できるだろう。

 また、現行制度の設計上、第3号被保険者は負担なしで満額の基礎年金を受給できるから、負担していないという点で同じ立場にある国民年金保険料免除者が将来給付を減額されることや、負担能力の無い学生が負担を義務付けられていることとの整合性に欠けるという批判も成り立つ。

 つまり、女性のライフスタイルが大きく変化した現状において、1985年の国民年金改正時に想定されたような第3号被保険者の専業主婦を包含する皆年金導入という制度趣旨が、もはや時代にそぐわなくなったのである。

 では、どうするか。国民年金制度を応益負担に個人単位化して第3号被保険者の負担を調整するか、あるいは保険料免除者と同様に給付を調整(減額)するか。筆者が思うに、前者は第2号被保険者である扶養配偶者の給与から天引きしなければ恐らく未納の問題を引き起こすし、後者は老後の保障を不安にさせるという欠点がある。

 今後検討すべきであると筆者が考えるのは、育児と介護期間中だけに第3号被保険者の適用対象を絞るという案だろうか。これならば、第3号被保険者制度の一律廃止というドラスティックな変化が引き起こす混乱を、ある程度緩和できるのではないだろうか。

 最も根本的には、現行法上分立している厚生年金、国民年金および各共済組合制度(そして国庫負担、つまり租税)からそれぞれ基礎年金勘定に資金を拠出する枠組みを見直さなければ、応益負担の原則を貫いて公平性を担保することは難しいと筆者には思われる。

2015年7月6日月曜日

ギリシャ国民投票の結果に関する分析、やはりデフォルトとグレグジットの方向か。

 7月5日に行われたギリシャ国民投票の結果、EUの提示した財政緊縮策について、反対票が約61%、賛成票が約39%(投票率62.5%)で緊縮策反対が多数派を占めた。今日は、この結果から予見されるギリシャとEUの今後の行方について筆者の分析を述べる。

 まず、今回のギリシャ問題の本質は、そもそも1991年1月1日に、ユーロが導入各国の金融政策だけを統合して各国個別の財政政策を統合しないままに導入された結果、ドイツや北欧諸国とギリシャなど南欧諸国の経済格差が当初想定されたようにコンバージ(収斂)出来なかったことにある。

 本来ユーロの最適通貨圏を形成するためには、欧州の南北経済格差を収斂させる必要があったのだが、財政統合は最も重要な国家主権をEUに譲渡することを意味することから政治的リスクが大きすぎた。そのため、ユーロ圏の金融政策統合のみが先行して行われたという初期システム設計上の欠陥があったため、ギリシャに代表される南欧諸国の国債発行による外国からの資金調達コストが引き下げられ、そうした各国の財政健全化意欲が弱まって言わばモラルハザードを引き起こしたと言えるだろう。

この点、ギリシャのチプラス政権の対EU交渉姿勢は現在デフォルトも辞さない瀬戸際政策を取っており、ドイツなど債権国側から見ればモラルハザードそのものに映っているに違いない。

 他方、ユーロ圏最大の債権国であるドイツにとっても、ユーロ導入によって自国通貨マルクからの通貨の減価によってかえって輸出が伸びたため、ドイツは世界最大の貿易黒字国となった。その豊富な資金を低金利でギリシャなど南欧諸国に投資してきた。

 つまり、チプラス政権の最近の言わばモラルハザードは、ドイツなど債権国の潤沢な資金提供が根本原因の1つであったとも言える。特に南北の経済格差を収斂させるためには、生産性を高めるようなギリシャ国内産業に対する直接投資が必要であったが、ドイツなどの資金供給は公的部門や金融部門に対する非生産的な間接投資主体であったため、ギリシャの公的債務はどんどん拡大していったわけである。

 ギリシャは先に述べたようにユーロ導入でリスクプレミアムなしの資金調達が可能になったと同時に、2004年夏にはアテネ五輪も開催したため、公務員削減や年金改革、徴税能力の向上などの構造改革が先送りにされ、国債金利も低下して利払い負担も軽減された結果、公的債務の削減意欲が失われていったのである。それが、今回のようなソブリン危機を招いたと言える。

 実はギリシャは、国債利払いと償還費を除いた基礎的財政収支(プライマリーバランス)の均衡を既に達成しているため、デフォルトしてしまえば、国際金融市場からは締め出されるものの、大きな財政負担である利払い負担を一挙に無くすことが出来る。そういう思惑が、チプラス首相の強硬姿勢の背景にあるのかも知れないと筆者は考える。

 今回の国民投票の結果を受けて、チプラス首相が債権国側の評判の悪いバルファキス財務相を辞任させることにより、ユーロ圏に残留したままEU側に債務を減免させ、ECBの緊急流動性支援額を拡大させるための交渉を有利に進めようというのが、恐らくギリシャ政府の基本的な作戦と思われる。

 しかし、筆者の見立てではEU側、特にドイツはそういう妥協を頑なに拒否する可能性が高いと思う。なぜなら、先日の投稿で述べたとおり、ギリシャへの甘い対応が他の債務国へのモラルハザードの連鎖を引き起こしかねないし、ECBはそもそも厳格な財政規律と物価安定を重視する「ドイツ連銀神話」に基づいて設立された、ドイツ流の中央銀行なのである。

したがって、財政規律を一向に遵守しようとしないギリシャの態度はECBの設立理念に真っ向から対立しているし、ギリシャに財政規律を維持させるためには、ギリシャに緊縮財政を強いてデフレ政策を取らせるとともに、ドイツも政府と民間の支出を増やして賃金水準とインフレ率を高めることで、競争力を自ら引き下げてギリシャなど債務国の内需拡大に協力する姿勢を示す必要がある。これは、メルケル独首相にとっては政治的リスクが大きいだろう。自ら国際競争力を落とすことは、ドイツの国益に明らかに反するからだ。

 やはり筆者が分析するところでは、今後ギリシャはデフォルトとユーロ離脱、そして銀行破綻を避けるための流動性確保の目的で独自通貨を導入する誘惑に抗しきれないのではないだろうか。当面注目すべきなのは、ECBの対応であるが、少なくともギリシャに対する緊急流動性支援額を増額する措置は取らないだろう。そうなれば、7月20日に控えるECB保有ギリシャ国債35億ユーロの償還をギリシャが出来るかどうかが次の焦点となるだろう。

 もしギリシャが7月20日にECBに返済できなければ、いよいよギリシャのデフォルトとユーロ圏離脱が視野に入ってくるのではないだろうか。この頃にはユーロ圏債権団側も、ギリシャの地政学的重要性は配慮しつつも、却ってギリシャの円満なグレグジットを協議する姿勢を示すかもしれない。