慶長3(1598)年8月18日に太閤豊臣秀吉は死去するが、後継者秀頼はまだ幼く、その成人迄の政務を徳川家康が伏見城で、後見役を前田利家が大坂城で各々司ることを遺言して、家康への覇権移行を抑制し、豊臣政権の維持を図った。
当時、豊臣直轄領は摂河泉を中心に、全国で約200万石が散在していた。
ちなみに、江戸内大臣の家康は、諸大名中最大の関東6カ国約250万石の領地を持ち、官位の序列はトップ、毛利と上杉両氏のそれぞれ約120万石・中納言を圧倒していた。バランサーに抜擢された加賀大納言利家は、83万石の領地を持つに過ぎなかった。
秀吉は自分の死後、豊臣家をパワーで追走する家康を牽制するために、織田家の同僚であった利家を監視役として抜擢したのである。しかし、肝心の利家が翌慶長4年3月3日に死去してしまったため、家康排除を目論んだ奉行の石田三成は福島正則や加藤清正ら、家康与党の武功派七将に襲撃されて失脚し、居城の近江佐和山に引退させられてしまう。
家康は9月に、長束正家と前田玄以両奉行の要請と称して伏見城から大坂城西の丸に入城し、西の丸に天守閣を築き、秀頼親子を抱き込んで大阪で政務をとる。同時期に秀頼の名を借りて、細川忠興や島津義久らの大名達を加増している。実質的な天下人としての権限行使である。
その後、利家の後を継いだ前田利長は浅野長政らとともに家康暗殺の疑いをかけられ、加賀討伐が計画される。国際政治で言う、ブラックメールである。利長は母の芳春院を江戸に人質に出して、徳川に完全屈服した。これで、事実上家康が、秀吉死後の天下人として覇権を掌握することにほぼ成功したと言える。その後は、徳川家の軍事力で反対勢力を制圧するだけであった。
覇権とは、システムにおけるパワー分布が単極化した状態である。分散化した多極構造から、ある一国が覇権を形成するパワー移行(transition)の状態にある時、国際政治は不安定化し、対抗勢力の大連合が組まれて大きな戦争が起きやすい(山本吉宣「パワー・シフトの中の日本の安全保障」、渡邉昭夫・秋山昌廣編著『日本をめぐる安全保障これから10年のパワー・シフト-その戦略環境を探る-』亜紀書房、2014年、第1章23頁参照)。ナポレオン戦争やナチス・ドイツとの戦争、日本史では関ヶ原の戦いが格好の事例である。
死直前の秀吉の遺命の意図は、追走者家康を現行の豊臣秩序に縛り付けて利益を分与し、将来的に脅威とならないようにする覇権者のバインディング戦略(山本、同上、35頁)である。秀頼と家康の孫千姫を秀吉が婚約させたのも、姻戚関係を作って家康の行動を制約するためだ。
また、この戦略は、覇権者側の力に余裕が残されていて追走者側との格差がなお大きく、二番手がまだ差し迫った脅威と見なされない時に採られる、現状維持のためのヘッジング戦略とも言える(山本、同上、35頁)。しかし、秀吉のこの目論見は、バランサー役前田利家の早すぎる死によって水泡に帰してしまった。利家の死後、家康が一挙に覇権掌握に乗り出したからである。
追走者家康の戦略としては、既存秩序からどの程度利益が得られているか、覇権者との力関係がどう変化するかの2つの点によって、様々な選択肢が考えられる。
例えば、徳川家が現状で十分な利益が得られていれば、敢えて覇権者と対立せず力を伸ばして将来に備えるヘッジング戦略を採るだろうし、あるいは、現行秩序に大きな不満はあるが依然それを覆す力が不足していれば、ルール違反を繰り返して秩序を弱体化させる、スポイラー戦略を採ることも有り得る(山本、同上、33頁)。
前田利家の生前既に、家康が太閤置目に背いて伊達政宗らと大名同士の婚姻を無許可で進めて、その「専横」を奉行達に非難されていたから、この頃の家康はスポイラー戦略を採っていたのだろう。
しかし、利家死後は覇権者豊臣家と追走者徳川家の力の差が縮小したため、家康はスポイラー戦略から、秩序の基本原理を変えようとする挑戦戦略に切り替えたのだろう。
さらに、慶長5(1600)年春の上杉景勝の軍備増強と上洛拒否問題を契機に勃発した会津征伐と関ヶ原の戦いの結果、家康の戦略は、力で現行秩序をひっくり返そうとする革命戦略(山本、同上、34頁)に再転換したと見ることができる。
追走者家康がスポイラー戦略から挑戦戦略に移行した時、幼少の秀頼を戴く覇権者豊臣家側は自己の能力に問題があると認識していただろう。したがって、豊臣家の対外的コミットメントを過剰拡大として縮小あるいは再編成し、オフショア・バランシング戦略を採るか、追走者との対抗を他者に依存するバック・パッシング戦略を採ることが考えられた(山本、同上、36頁)。
この豊臣家のバック・パッシング戦略を主導したのが石田三成その人に他ならず、バック・キャッチャーとなったのが、第三勢力である中国の毛利氏である。
秀吉の死後、関ヶ原の戦い直前のように単極構造が崩壊していく状況を前提とした場合、毛利氏のような第三勢力の戦略は、覇権者と追走者のいずれかに対して、バンドワゴンや同盟・連携のような協力戦略を採るか、あるいは、言うことを聞かない無視、規範や制度によるバインディング、さらに軍事または外交によるハードかソフトいずれかのバランシングといった対抗・抵抗戦略を採るか、いずれかの途が有り得る(山本、同上、39‐40頁)。
毛利輝元は、石田三成と連合して、追走者家康にハード・バランシングする選択をしたわけである。結果的に、会津の上杉景勝もその連合に乗っかる大連合が形成された。これで、軍事力としては、徳川に十分対抗できる体制ができたと言える。
かくして、覇権移行の決着をつける、関ヶ原の戦いの体制が整ったのである。
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