先の投稿で分析したように、太閤秀吉死後の覇権を事実上掌握した後、反対派に対する軍事力の誇示を目的に実行されたと思われるのが、慶長5年の家康の会津上杉征伐であった。
ところが、石田三成と大谷、安国寺の計略で毛利輝元が大坂に入城して秀頼を擁立することに成功したため、7月17日に三奉行連署の「内府ちかひの条々」が諸大名に発せられて反家康側が豊臣公儀に転換した結果、西国の勢力バランスが変動して、家康が動員した軍事力に十分対抗できる反家康軍が形成されることとなった。
さて、6月16日大阪を出撃して上杉征伐に向かった家康は、7月1日江戸に到着し、7日付けで軍法を定め、山形の最上義光に、南部利直と出羽の諸大名を率いて米沢方面に参陣することを命じている(白峰旬「慶長5年6月~同年9月における徳川家康の軍事行動について(その1)」『別府大学紀要』第53号、2012年、68頁)。
家康の作戦としては、前田利長の北国勢を最上勢に続いて米沢に進撃させるとともに、堀秀治の越後勢は津川筋から上杉領内に侵攻させる予定であった(白峰、同上)。つまり、手始めに米沢を攻略した後、続いて会津盆地に攻め入る手筈であった。また、伊達政宗は7月25日、上杉領となっていた旧領白石城を奪還し、叔父の石川昭光を城代として入城させることに成功している。
そして、秀忠の江戸出陣は19日、家康のそれは21日と決定されていた(白峰、同上、69頁)。ところが、7月半ばに「上方雑説」の動向が知らされたため、7月19日付で福島正則に軍勢を西上させることを命じている(白峰、同上、71頁)。これは恐らく、白峰氏の指摘する通り、最前線の拠点となり得る福島の居城清州城を確保しておくためだろう。
白峰氏は、通説が家康軍の会津征伐中止と反転西上が決定されたする、7月25日の小山評定の存在自体を確証が無いとして否定的に見ている。それはともかく、氏は23日には家康の上洛と上杉征伐中止が最上義光に伝えられたとされる(白峰、同上、73頁)。通説では、家康は26日に東下諸大名に一斉に西上することを命じている。
恐らく、まず最前線の清州城主、福島正則が先発して西上し、引き続いて家康養女の婿である黒田長政と娘婿の池田輝政、主力の東海大名達が逐次軍勢を返して西上したのだろう。黒田を除く東海諸大名達は、進路に位置する居城を確保して後続部隊を迎え入れ、自軍の戦備を整えるためにも、関東勢や従軍した四国勢よりも先発する必要があっただろう。
また、細川忠興は妻ガラシャが人質となることを拒んで自害し、父幽斎も丹後田辺城に籠城して抵抗していたため、大坂方から既に改易を宣告されていた。そのため、所領を回復するためにも勇戦敢闘せざるを得なかっただろう。
意外なのが、徳川四天王中の猛将である本多忠勝と井伊直政の両名が相談して西上に反対し、会津攻めをまず優先することを家康に進言して叱責された上、軍目付として早々と西上することを家康に命じられたことである。『三河物語』に記載されているので事実だろうが、この2人は戦況不利とでも考えたのだろうか。この時の忠勝と直政は、やや攻撃精神に欠けていたのかもしれない。
ちなみに酒井忠次は当時既に故人であり、もう1人の四天王である榊原康政は、本多正信と共に秀忠付きで宇都宮在陣中であった。なお、家康が小山から江戸に帰陣したのは8月5日であった(白峰、同上、76頁)。
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