真田丸の戦いを考える上で従来納得できなかった点の1つは、慶長19年12月4日早朝に前田勢が攻め寄せて合戦の発端となった篠山の位置についてであった。これに関して平山優氏の著書『真田信繁―幸村と呼ばれた男の真実』では、合戦当日早朝に前田勢が攻撃を仕掛けた篠山は、当時小橋村を中心に布陣していた前田勢の前面に存在しており真田出丸全体を含む丘陵地に隣接して大坂方が防御柵を敷設していた、「伯母瀬(の柵)山」が恐らく該当するのではないかという考察がなされている。
実はもう1つ、真田丸の戦いを考える上で筆者の腑に落ちなかった点がある。それは、真田丸に立て籠もって12月4日の徳川勢の攻勢を撃退した真田左衛門佐信繁が率いた軍勢の構成についてである。通説によると、信繁は関ヶ原の戦い時点まで大名身分を持っておらず、したがって、沼田城主であった兄伊豆守信之(関ヶ原の合戦前は信幸)と違って独自の所領と家臣を持たない、言わば父安房守昌幸の部屋住の次男坊であったと考えられてきた。
ところが、平山氏の著書第二章94-97頁の考察によると、天正18年2月の小田原出兵時に際しての真田家に対する豊臣秀吉の軍役賦課基準(百石につき5人役で合計3千人)から計算すると、仮に昌幸の知行した信州小県郡上田領3万8千石と信之の知行した上州吾妻郡8千石の合計4万6千石では2千3百人の軍勢動員数にしかならず、実際の真田家の動員兵力から7百人も足りないことになってしまうという。そして、その不足分に該当する知行高1万4千石こそ、信繁の知行分に該当するのではないかというのである。
確かに、信繁の官途名である左衛門佐は兄信之の受領名である伊豆守と同じく単なる僭称ではなく、秀吉の推挙によって文禄3(1594)年11月2日付で朝廷から叙爵(従五位下叙位)と同時に任官された正式の官位であって、これは兄信之の叙爵・伊豆守任官と同日のことであり、同時に信繁は秀吉から伏見城下に屋敷を拝領して豊臣姓を下賜されている。
つまり、真田兄弟は当時全く身分的に同格であったのであり、これは兄信幸が徳川四天王の本多中務大輔忠勝の女婿であったのに対して、弟信繁が豊臣家奉行の大谷刑部少輔吉継の女婿であったことを考えても頷けるだろう。とするならば、信繁も兄と同様に1万石以上の大名身分であったことが容易に想像できる。
もし信繁が関ヶ原の戦い以前に大名身分であったとしたならば、父昌幸とともに改易されて紀州高野山に配流されるまでは恐らく昌幸の家臣団とは別に数百人規模の直臣たちを抱えていたはずであるから、大坂入城に当たって信州から旧臣たちを呼び寄せたことは間違いないだろう。彼らが真田丸に籠城した真田勢の中核部分を成したと考えたならば、俗に言われるような真田丸5千人の将兵が諸国牢人寄せ集めの烏合の衆であったという認識は改めなければならず、それ相応の精鋭部隊であったとも考えられるだろう。
逆に言えば、真田丸に相対した徳川方の加賀・前田利常(利家四男)と彦根・井伊直孝(直政次男)、越前・松平忠直(秀康長男)はいずれも大坂冬の陣が初陣で実戦経験皆無であったから、勇将であった彼らの父たちの様な采配を戦場で振るうことは端から期待できなかっただろう。その意味では信繁を含む大坂方の方が大将分の能力という点では遥かに優位にあったと思われる。これが真田丸の戦いで、徳川勢が脆くも敗退した最大要因であったのではないだろうか。
実際に残された記録によれば、合戦当日早朝の篠山奪取後に大将利常の下知も無いまま、小姓や馬廻達の抜け駆けでなし崩し的に前田勢の真田丸攻撃が開始され、それに釣られた隣の井伊勢と越前勢が鉄砲除けの竹束も用意せずに競って惣構と真田丸の空堀に侵入して柵を撤去し始めたため、敵の接近に気付いた大坂方による午後3時頃まで続いた激しい銃撃に曝された結果、各軍勢とも数百人以上の名のある武士達と多くの雑兵らの死傷者を出す大損害を被ったようだ。
徳川勢第二の敗因は、大坂城惣構から東南部湿地帯に突出した真田丸の、巧妙な横矢掛り可能な配置にあるのであろう。言うまでもなく、右利きの多い将兵たちは右頬に鉄砲を当て、また右腋に槍を抱えて攻城戦に向かうことになる。その場合、たとえ仕寄せを完成して十分な竹束を前面に押し立てて惣構の城柵に接近したとしても、徳川勢攻撃部隊の右前方に位置していた真田丸からの銃撃には、極めて脆弱な側面を曝してしまう危険が大きかっただろう。
しかも、12月4日の真田丸の戦い当日時点では、記録によると肝心の仕寄せ(塹壕)の構築は未だ完成しておらず、そもそも高台にあった真田丸前面は前述のとおり「一騎打之通」(平山、195頁)しかない湿地帯が広がっていたため仕寄せの構築が困難であった。
その上、一部前田勢の抜け駆けに触発された実戦経験皆無の大将達に率いられた大軍が、十分な竹束の防弾楯も用意せずに、一斉に殺到して空堀に落ち込んだのであるから、大坂方の激しい銃撃に対して為すすべもなく大損害を被ってしまったことは当然であっただろう。
仮に野戦であれば、古代ギリシャやマケドニア時代の重装歩兵のファランクス(密集方陣)の様な隊形をとり、右翼に精鋭部隊を配置して敵と交戦する戦術も出来ただろうが、平地の少ない日本では歩兵部隊の完全な密集隊形が衝突する会戦はついに出現しなかったし、いわゆる「左上右下」の配置が古来の伝統であったためか、筆者の管見の限りでは、野戦においても攻撃側が最精鋭部隊(先鋒)を左翼に置くのが日本の主たる戦術であったように思われる。
例えば、桶狭間の戦い(今川勢左翼は松平元康)、姉川の戦い(織田・徳川勢左翼は徳川家康)、長篠の戦い(武田勢左翼は山縣昌景)、長久手の戦い(徳川勢左翼は井伊直政)、そして関ヶ原の戦い(東軍左翼は福島正則)など、左翼重視の陣形が非常に多いように感じる。
その理由は、防御力を重視して右翼に精鋭部隊を置いた西洋式戦術とは逆に、日本ではむしろ攻撃重視で左翼に精鋭を配置し、将兵が右側面に武器を保持する結果、右前方からの攻撃に脆弱な敵の右翼を粉砕・突破する戦術が武将たちに好まれたためではないだろうか。
同様の発想で、右翼に精鋭部隊を配置する防御的な西洋伝統の戦術を逆手にとって左翼に打撃力を集中して大勝利を導いたのが、紀元前371年に起きたレウクトラの戦いだろう。この戦いでは、テーバイの名将エパメイノンダスが、ボイオティア同盟軍を率いて左翼に重装歩兵の戦力を集中する斜線陣を敷き、伝統戦術に固執して右翼にラケダイモン(スパルタ)の精鋭部隊を配置して交戦したペロポネソス同盟軍を撃破した。
西洋古代のファランクス戦術では、右手に長槍を保持した右隣の兵士が左手で持つ楯が左隣の兵士の右側面を防護する役割を担っていたため、戦列の最右翼に位置する兵士は自分の右側がほとんど防御されていないため、最も勇敢な者でなければ勤まらないと考えられていた。
だが、それでも敵の右前方からの攻撃を恐れるあまり、右側に戦列を伸ばそうと右へ向かう圧力が陣形全体に強まってしまうために、相対した両軍とも右翼の戦列が右側にどんどん伸びてしまった欠点があったと言われている。
慶長19年12月4日の真田丸の戦い当日も、前田勢の左側に位置していた井伊勢と越前松平勢の将兵たちは、恐らく真田丸が位置していた右側面からの銃撃を恐れるあまり、古代ギリシャのファランクスが互いに右翼側に伸びてしまう欠点を持っていたのと同様の理由によって、右翼の真田丸側に戦線を必要以上に延ばしてしまったのではないだろうか。
その結果、合戦当日に真田丸正面からの攻撃を担当した加賀前田勢の戦列に井伊勢や越前松平勢が不用意に入り込んでしまったことが、徳川勢全体の戦線を一層混乱させることに結び付いたために、想定外の大損害を徳川方にもたらしたのではないかと筆者は考える。
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