その内容は、日本側が旧軍の関与を認めて首相が謝罪し、韓国側が設立する元慰安婦支援基金に対して10億円を拠出することで、事実上の補償を行う。これに対して、韓国側は北朝鮮系の反日市民団体である韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)が在韓日本国大使館前に設置した慰安婦少女像を撤去するとともに、慰安婦に対する補償問題を今後蒸し返さないということである。
国内外の主要メディアではこの日韓「最終合意」について、「歴史的」であるとか「画期的」であると論評するものも多い。筆者から見れば、今年の「歴史的合意」といえば、7月14日にE3/EU+3(米英仏独露中とEU)とイランとの間でイラン核開発問題を最終的に解決するために結ばれたJCPOA、つまり「包括的共同行動計画」の合意が直ちに想起される。
だが、本当に年内に複数の「歴史的合意」が締結されたとすれば、2015年は、1月に湾岸戦争が起こり、7月にワルシャワ条約機構が解体し、そして12月にソ連邦が崩壊した1991年に匹敵するほどの後日驚嘆すべき1年であったということになるだろう。
JCPOAについてはイランと鋭く対立するイスラエルのネタニヤフ首相が「歴史的過ち」であると論評したが、慰安婦問題最終合意についてもあるいは同様の論評ができるかもしれない。確かに今回の合意については日韓両国の従来の立場を維持しつつ、双方の利益を最大限に盛り込んだ内容となっている。
例えば韓国側は、今回の合意で、1965年に締結された日韓請求権・経済協力協定で請求権問題を完全かつ最終的に解決したとする日本側から事実上の謝罪と補償を引き出すことに成功したし、日本側は韓国政府に大使館前慰安婦像撤去の努力義務(これが基金に対する日本政府の資金拠出の前提条件であるとして、今後韓国側に圧力をかけるだろう)を認めさせることに成功した。
しかし、合意は何も文書化されていないし、双方の特に韓国側世論の動向次第では問題が再度蒸し返される恐れも否定できない。筆者の見るところ、韓国が中国と連携して国際社会に対して反日活動を続けているのは、慰安婦問題を含む歴史認識問題の点で中国と共通認識を持っているという情緒的問題よりも、むしろ韓国の逃れがたい地政学的位置によるものであると考える。
ここで筆者が述べる地政学とは、英国のハルフォード・マッキンダーや米国のニコラス・スパイクマンが第二次世界大戦前に概念化した、アングロサクソン的なユーラシア内陸部(ハートランド)国家群と大陸縁辺部(リムランド)三日月地帯を挟んで島嶼海洋国家群との対立・相克関係を論じた一種の戦略的見方のことである。
このユーラシア大陸を沖合から三日月状(アウター・クレッセント)に取り囲む島嶼海洋国家群には日英両国はもとより、アメリカ(南北米大陸)をも含んでいる。そして、ハートランドとは、背後に航行困難な北極海を置いているため、地理的必然として不凍港を求めて南下政策(拡張主義)をとらざるを得ないロシアのことを意味している。
つまりアングロサクソン的地政学の視点に立てば、国際政治とはハートランドの大国ロシアのリムランドへの拡張政策を封じ込めようとして、英国や米国のような海洋国家群がリムランドの橋頭堡国家に対して基地と海軍のアクセスを確保しつつ、リムランド内部を支配下に置こうとする地域覇権国の台頭を阻止しようとする行動から導き出されることになる。
19世紀のアフガニスタン等をめぐる英露間のグレートゲームや、冷戦期の米国のベトナム戦争やイラク戦争、その他の度重なった軍事介入はほとんどこの地政学的視点から説明できるだろう。そして、かつての朝鮮戦争もリムランドの橋頭堡国家南北朝鮮の支配権をめぐる内陸国家と海洋国家との間の争奪戦であった。
注意すべき点は、今日既存の国際秩序に対する挑戦国と見なされている中国はロシアのようなハートランド国家ではなく、橋頭堡国家ではないがリムランド国家なのである。この点では、中国の地域覇権を目指す拡張主義的政策はかつての帝政あるいはナチス時代のドイツの東欧支配政策に極めて類似している。
この見方が正しいとすれば、早晩アメリカは中国の地域覇権獲得を阻止するため、日豪など海洋国家群と連携して、また2度の世界大戦の経験を踏まえればハートランド国家ロシアとも連携して中国の勢力拡張を抑えようとするはずである。実際そうした動きは、最近観察されつつあると筆者は考える。
世界大戦期のドイツの場合と中国のケースが異なるのは、中国が内陸に向かって勢力を拡張しようとするのではなく、むしろ南シナ海と東シナ海の海洋に向かって勢力圏を広げようとしていることであろう。そのため、海洋利権を重視する日米豪トライアングルとの対立が今後益々激化する危険性があると思われる。
さて、その場合、朝鮮半島の橋頭堡国家である韓国は日米と中国の双方から強い圧力を受けることになるだろう。韓国にとっても対米同盟関係の維持は自国の生存にとって死活的価値を有しているといえるから、日米韓三国の連携を阻害しかねない歴史認識問題の早期解決を図れとアメリカから強い圧力を受けていることが予想される。
安倍政権は、こうした韓国の弱い立場を利用して日本側が従来以上の一定の譲歩を示しつつ、歴史認識問題をめぐる韓国と中国との反日連携関係を分断しようと今回の合意に結びつけたのだろう。その意味では、中国の脅威をリムランドの橋頭堡国家であり、米中対立の最前線となりかねない緩衝地帯に位置している韓国よりも遥かに認識しにくい日本の優位な地政学的位置が、今回の日韓最終合意を生み出す要因となったともいえるだろう。
ただ、韓国の弱い地政学的位置が、今後も中国と連携した歴史認識問題に関する反日行動を再燃させる蓋然性はかなりあると筆者は見ている。韓国政府が冷徹な地政学的戦略に基づいて日米中三国間のバランスを維持しようとしたとしても、情緒的な反日感情に流されやすい韓国内世論の「観衆費用」の大きさに引きずられて問題の蒸し返しを試みようとするかもしれない。この点だけは、日本政府も十分に考慮しておく必要があるだろう。
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