平成28年度NHK大河ドラマ「真田丸」の撮影が開始されたそうである。今日の投稿は、「真田丸」の次の年の大河ドラマに決まった「おんな城主 直虎」選定についての筆者の感想である。
直虎とは、徳川四天王の1人である井伊兵部少輔直政が、本能寺の変後の天正10(1582)年11月に22歳で元服して井伊家第24代の家督を継承するまでの間、中継ぎとして当主を務めた22代信濃守直盛(桶狭間の戦いで討死)の息女次郎法師の事である。主演は女優の柴咲コウさんだそうである。
浜名湖の北に位置する井伊谷の女地頭としての次郎法師の事績については、彼女の墓所がある井伊家菩提寺で臨済宗妙心寺派の古刹龍潭寺などに多小の記録が残されているが、1年間の大河ドラマを制作できる程の分量には全く足りないだろう。
したがって、ドラマの筋書き自体はほとんど脚本家の創作に頼る他ない。井伊氏を大河ドラマに取り上げるのならば、素直に次代の直政を採用した方が良かったと筆者は思うのだが、戦国には珍しい女性領主を敢えて選択したというNHKの狙いだろうか。
井伊氏は駿河守護の今川氏と対立したため当時家督を継承できる男子が、次郎法師の父直盛の従弟で23代肥後守直親の忘れ形見虎松(後の直政)しか残されておらず、家の存続が危機状態にあった。直親は重臣小野氏の讒言によって今川氏から独立した松平元康(つまり後の徳川家康)との内通を疑われたため、永禄5(1562)年12月に掛川城下で朝比奈泰朝に攻められて殺害されてしまったのである。
井伊氏の祖先は藤原良門の子孫共保とされるが、彼は生誕伝説に彩られていて到底信じ難く、また鎌倉時代には三浦介や千葉介と並んで八介である井伊介を名乗っていたとも言われる。しかし、明確に記録に出てくるのは、南北朝時代に南朝方として歌人として有名な宗良親王を迎えて井伊谷で北朝方と戦った事である。
その後、井伊氏は北朝方の今川氏に屈服したわけだが、当初南朝方に属して足利幕府に抵抗した歴史を持っていたためか、駿河守護の今川氏との関係は必ずしも良好で無かったようだ。これが結果的に、井伊氏の家系存続の危機を直接招いてしまった理由であろう。
天正3(1575)年以降に直政が仕えた徳川家康が生まれた安祥松平家も、家康の祖父清康と父広忠が相次いで家臣に討たれて不慮の死を遂げた後は直虎時代の井伊家同様に存続の危機を迎えたわけだが、松平氏の場合西三河一帯を清康時代にほぼ支配下に収めて一族が各地に蟠踞しており、井伊谷の一国人に過ぎない井伊氏と比べるとその戦力はずっと大きく、恐らく4、5千人程度は有っただろう。ちなみに井伊谷は後に立藩されたことがあるが、その時の石高はわずかに1万5千石に過ぎなかった。直虎時代は1万石程度だっただろう。家康の生まれた松平氏よりも、井伊氏は遥かに弱小な存在であった。
したがって、今川氏としても尾張の織田氏との戦いを継続する上で最前線に位置する松平氏惣領家の安祥松平家を活用せざるを得なかったこと、また、広忠時代から今川氏の保護下に入って良好な関係を構築していたことが家康に有利に働いたため、結局松平氏は井伊氏ほどの御家存続の危機的状態には陥らなかったものと思う。今川氏としては、松平氏は戦力として大事な存在だが、井伊氏についてはその当主を殺して滅亡させても痛くも痒くもない存在に過ぎなかったのだろう。
こう考えると、「おんな城主」井伊直虎の存在意義は、御家滅亡の危機を上手に乗り越えて、井伊谷の一国人に過ぎなかった井伊氏を徳川家最大の譜代大名にまで押し上げた直政を養育し、家康に上手く出仕させた点にこそ求められるのではないだろうか。
遠州に侵攻してきた言わば侵略者である徳川家康に、家柄はしっかりしていても当時単なる一少年に過ぎなかった虎松(つまり後の直政)を推挙してもらうためには、直虎は様々なコネを駆使する必要があったに違いないと筆者には思われる。
一説には、家康正室の築山殿が井伊氏の出身だったとする説もあるそうだ。もしそうであるならば、築山殿のコネで虎松が徳川家の家臣に取り立てられたのかもしれない。
家康家臣となってからの井伊直政には家康から木俣清三郎守勝、西郷藤左衛門正友、椋原次右衛門政直の3人が付家老として附属され、また、井伊谷三人衆と言われる菅沼次郎右衛門忠久、近藤石見守秀用、鈴木平兵衛重好が与力として付けられたが、彼らは直政の家臣ではなく、関ヶ原の戦いの後、彦根藩立藩の最終段階に至るまで家康自身の統制下に置かれていた模様である。
それゆえに直政死後の当主兵部少輔直継(後に直勝と改名)は家臣団を統制することに失敗してしまい、恐らく家康の介入で井伊家当主の座を異母弟直孝に譲らされて、上野国安中3万石に分家させられる羽目に陥ってしまったのである。
ちなみに大坂の陣で真田丸を攻撃したりして大活躍したのがこの井伊掃部頭直孝であり、伝説では世田谷の豪徳寺(もともとは世田谷吉良氏の政忠が創建した弘徳院)に招き猫に呼び寄せられて急な雷雨を回避した縁から、豪徳寺を井伊家の菩提寺として伽藍を整備したのもこの直孝であった。東京の世田谷は、江戸時代には彦根井伊家の領地だったわけなのである。
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