7月13日のニュースでシリア北部アレッポ旧市街の地下道で爆発があり、世界遺産であるアレッポ城(Citadel of Aleppo)の城壁が一部崩壊したとの報道があった。アレッポは現在旧市街を含む西部地区をアサド政権軍が、東部地区を反政府軍がそれぞれ掌握しており、アレッポ城(シタデル)はちょうど両軍が激戦を展開している最前線に位置している。
政府軍は旧市街や城内に兵力を展開しており、今回の地下道爆破が反体制側の攻撃によるものかどうかは不明である。しかし、シリアの首都ダマスカスと並んで紀元前3千年前から歴史に登場する世界最古の都市の1つであるアレッポ旧市街では、2011年3月に始まったシリア内戦の結果、既にウマイヤ朝時代の大モスクのミナレット(塔)が倒壊し、世界最大級のスーク(市場)が炎上焼失する大被害を蒙っている。
今回、シタデルの城壁が一部崩壊したことは、貴重な人類の文化遺産がまた1つ失われたことを意味する。ユネスコの世界遺産はシリアに合計6か所あるが、2013年6月にその全てが「危機遺産」に登録されている。内戦の最前線にあるアレッポ旧市街はもとより、ダマスカス旧市街や黒色の玄武岩で建造された見事なローマ劇場のある南部ボスラ、十字軍時代の要塞であるクラック・デ・シュバリエなどが破壊の危険にさらされている。
また、パルミラのローマ帝国時代の隊商都市遺跡はIS(イスラーム国)によって占拠されており、彼らの手によって地雷等の爆発物が仕掛けられていると言われていて、いつ破壊されるかわからない状態に置かれている。
アレッポ城は十字軍によって何度も攻撃されたが決して陥落しなかった、イスラーム世界屈指の名城の1つである。その広い空堀は深く、高さ約50mの丘の上に聳え立つ東京ドーム10倍の面積で周囲約2.5kmの城域をすっぽりと取り囲んでいる。
アレッポ城内に入る通路は一本の細い橋だけで、その防御のために高い塔門が築かれている。敵の侵入は非常に困難な構造である。広大な城内には戦時に市民を収容することを想定した住居跡があちこちにあり、籠城中の市民生活を支えるためにモスクと、3千人が5年間籠城できる程の穀物を備蓄可能な巨大な食糧庫が設置されていた。
この難攻不落のアレッポ城も、実は歴史上数回陥落したことがあった。その最初は、1260年1月の大モンゴル帝国フレグ・ウルス(イル・ハーン国)の初代ハーンとなったフレグ(フラグ)が率いるモンゴル、トルコ、クルド、アルメニア、そして十字軍諸侯の連合軍に攻撃された時である。
フレグは元寇で有名なフビライの弟で、第4代大ハーンの長兄モンケに命じられて1253年軍を率いて西征に出発し、まず1256年に、イランのアラムート山城に立て籠もるシーア派分派の暗殺教団ニザール派の教主を討伐した。
次にフレグの軍勢は、アッバース朝カリフ・ムスタースィムの首都バグダードを1258年1月に包囲して投石機などの攻城兵器を駆使して攻撃し、2月に投降したカリフを軍馬に踏み殺させて惨殺した後、1週間市内を徹底的に略奪破壊した上に市民を殺戮した。この結果、アッバース朝は滅亡し、その首都バグダードは完全に壊滅したのである。
一般にモンゴル軍の中心戦力は鉄鏃を使った軽装の弓射騎兵で、チンギス・ハーンが整備した千人隊やハーン直属の親衛隊ケシクなどの機動力に優れた騎兵戦力が有名であるが、多分ペルシャで発展したものと思われるカタパルトなどの豊富な攻城器具も装備していたようだ。そうでなければ、モンゴルの遊牧民が堅固な城壁に囲まれたバグダードやアレッポを陥落させることは困難だったであろう。
モンゴル軍の面白いところは、家畜を伴う遊牧民の集団そのものが軍勢とともに移動して後方支援の輜重部隊として機能していた点だ。この後方支援部隊を、アウルクと呼んでいたらしい。ただ、常にこんな輜重部隊が戦闘部隊に追従していたら、敵軍の格好の襲撃対象にされて補給が途絶えることも多かったのではないだろうか。ある意味で、これがモンゴル軍の弱点と言えるだろう。
さて、1260年1月にアレッポが陥落した時、市民のうち男子はフレグの軍に虐殺され、約10万人の婦女子は捕虜とされて奴隷商人に売られたとされる。ところが、アレッポ陥落後兄モンケの死が知らされ、跡目決定の会議クリルタイに出席するため、フレグは西征を中断して東帰した。彼は結局この後跡目争いには加わらず、イラン北部のタブリーズを首都とするイル・ハーン国を建国して独自の勢力圏を築いて自立するのだが、アレッポには部下の将軍キトブカ・ノヤンの率いる部隊を残して後事を託した。
キトブカの軍勢はさらに南進してダマスカスを占領し、先遣部隊はガザに進出してエジプトのマムルーク朝に無条件降伏を迫って圧力をかけたという。
当時のマムルーク朝スルタンは第4代のクトゥズであったが、カイロのローダ島に駐屯地が有った最有力のバフリー(海の)・マムルーク軍を率いるバイバルスをシリアに追放していた。モンゴルの脅威が迫ったので、クトゥズはバイバルスと和解してエジプトに帰国させ、降伏を勧告してきたモンゴルの使節団全員を処刑して市街南部のズワイラ門に梟首したとされる。
この辺は元寇の際に元の死者を斬った、鎌倉幕府の執権北条時宗の対応とそっくりだ。クトゥズは勇敢なスルタンで、マムルークを総動員してモンゴル軍と戦う決心をしたのだろう。実はマムルークは、中央アジアのキプチャク草原などでモンゴル人に追われたトルコ系などの遊牧民奴隷をイスラーム教徒の戦士として再教育した軍団であり、元々馬上での弓射や槍術、剣術などに長けており、またポロ競技で普段から馬術の訓練を怠らなかったと言われる。
つまり、マムルークは、元来モンゴルの騎兵部隊に対抗できる優秀な騎兵部隊だったのである。モンゴル軍に対する心理的な恐怖心さえ克服できれば、十分戦力として勝負できたというわけなのである。また、フレグ東帰後の1260年春夏時点では、兵力的にもマムルークが優勢であっただろう。
実際、バイバルスの率いるマムルーク先遣隊はガザのモンゴル軍を駆逐して、まず先に勝利を収めた。クトゥズの率いる本隊は7月にカイロを出発してパレスチナの海岸線を北上し、中立の立場を採ったアッカの十字軍領内を経由してヨルダン川西岸のガリラヤ地方に転進して9月3日、アイン・ジャールート(「ゴリアテの泉」)の村に布陣するキトブカのモンゴル軍を攻撃した。
この時、早朝からバイバルスの率いるマムルーク先遣隊がまずキトブカ軍と衝突して意図的に退却し、伏兵として潜んでいたクトゥズの本隊がキトブカ軍の後方を遮断したためにモンゴル軍は夕方には壊滅して、キトブカも戦死した。この戦いの結果、モンゴルの西進は停止し、その後シリアから駆逐されることとなった。元寇と並んで、それまで領土を拡大する一方であったモンゴル帝国にとっては決定的に手痛い敗北となったわけである。
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