源平両軍が東国と西国を往来して大規模な内戦を展開した治承・寿永の乱については、誇張と虚飾の多い『平家物語』などの軍記物や後世編纂された『吾妻鏡』の他には、信頼できる資料としては時の右大臣であった九条兼実の日記『玉葉』などの断片的情報から、その具体的展開と個々の合戦経過について頭を働かせて推測するしか方法が無い。
したがって、寿永3年2月7日に起きた源義経の鵯越の逆落としによる劇的勝利で有名な一の谷合戦(正確には福原合戦と言うべきか)についても、その実像はほとんど明白ではない。だが、当時の京周辺の政治経済状況と動員された源平両軍の戦力構成については、筆者にもある程度推測することが可能であろう。そこで本投稿では、この点について考察してみたい。
まず当時の京周辺(洛中洛外)の経済状況であるが、養和元(1181)年に起きた未曾有の大飢饉によって軍勢を動かすための兵糧がまだ不足していたと思われる。鴨長明の随筆『方丈記』によると、養和の飢饉当時、地方の農業生産に住民の消費生活を全く依存していた京には公領・荘園から年貢がほとんど流入しなくなり、そのため市中の死者は4万人以上であったと記されている。
頼朝と対立していた源義仲は、寿永2年5月の砺波山の合戦で平家の追討軍を打ち破って同年7月、安徳天皇と三種の神器を擁した平家一門を都落ちに追いやって京を制圧していたが、その後閏10月1日の備中水島の戦いで平家軍に大敗して後退した。
義仲の軍勢は飢饉の影響による兵糧不足から強奪に走ったため、後白河法皇の率いた公家勢力に見放されて頼朝の上洛が促される結果を招いた。頼朝は東国で横領された荘園返還を条件に、自らの東海・東山両道諸国に対する事実上の支配権を朝廷に認めさせることに成功した(寿永2年10月宣旨)。これで頼朝は本位に復帰し、謀反人の地位から赦免されたのである。
この頼朝優遇措置に怒った義仲は、11月19日法住寺合戦のクーデターの挙に出て法皇を幽閉したが、頼朝が鎌倉から派遣した九郎義経の率いる追討軍先発隊は、11月4日に既に美濃不破の関に到達していた。結局義仲は宇治瀬田の合戦で鎌倉勢に敗れて、寿永3年1月21日、逃れた近江国粟津で討ち取られた。
入京した鎌倉勢に対して、法皇は1月26日、既に瀬戸内海を制圧して九州・四国・中国地方で勢力を回復して福原まで進出し、2月(『玉葉』によると13日)には京に入洛しようとしていた平家の追討と、三種の神器の奪還を命じる頼朝宛宣旨を出している。平家没官領約500か所がその恩賞であった。ここまでが、一の谷・福原合戦直前の源平両軍の状況である。
さてそこで、まず官軍となった源氏方の構成であるが、先発した義経が率いた軍勢は、恐らく摂津源氏多田行綱の軍勢と京に進出していたがその後義仲から離反した甲斐源氏安田義定の軍勢など、既に畿内近国で編成されていた軍勢が主体であったのではないだろうか。恐らくその兵力は、せいぜい1千騎といった程度に過ぎなかっただろう。
というのも、鎌倉から派遣された東国勢はその交名を見ると相模と武蔵両国の軍勢だけの様子で、房総や北関東の大名たちの率いた兵力は坂東に残置されたようである。したがって、頼朝代官範頼が率いた派遣軍の総兵力は、『玉葉』の記述によれば1、2千騎程度であった。
したがって、源氏方の平家追討軍の総兵力は多く見積もっても約3千騎ほどで、これは飢饉の影響が残る西国での軍事行動を維持するために後方支援が可能な最大規模の兵力と言えるのではないか。
この3千騎の兵力を、範頼率いる大手軍が山陽道(播磨路)から、義経と義定(行綱も)率いる搦手軍が丹波路から、それぞれ進撃したのではないか。そう考えると、大手軍は約2千騎、搦手軍は約1千騎と言ったところが妥当な動員兵力だっただろう。
その証拠として、法皇から福原への出撃を命じられた搦手軍は出陣に乗り気でなく、2月2日の段階(合戦5日前)に至っても、京西郊大江山(老いの坂)に滞留していたと言われている。あるいは、法皇の謀略で平家に油断させるため、和睦を命じる使者が合戦前日の2月6日に平宗盛の下に送られるのを義経らは待っていたのかもしれない。
他方で範頼率いる大手軍は、2月7日を合戦開始(矢合せ)の日と定めて、4日に京を進発していたとされる。こちらは福原東方の生田の森方面から、平家主力部隊に正面攻撃を仕掛ける手はずであったはずだ。
次に平家方の構成であるが、当時一族の惣領であった内大臣宗盛は、妹の建礼門院や安徳天皇を護持して大輪田泊に停泊していた御座船か軍船に居て、実際の合戦には参加していなかったらしい。したがって、清盛直轄の惣領家の主力部隊恐らく数千騎は、宗盛弟の新中納言知盛と本三位中将重衡が率いて生田の森の大手口に布陣し、堀や柵、逆茂木を設置して防御態勢を敷いていたようである。
次に平家の防御態勢で重要だったのは、福原背後の山手、すなわち鵯越口であっただろう。こちらは三木方面に通じる重要な間道が通じていたし、丹波路方面の搦手から源氏の軍勢が来襲する場合、当然この方面から進出してくるはずだからだ。
したがって、平家方の作戦としては、播磨と丹波の境目にある三草山に内大臣故重盛子息の資盛らの率いる惣領家に次ぐ有力な戦力であった小松家の軍勢を布陣させ、前方で積極的に防御あるいは丹波路への逆進出を図ったのだろう。
だが、2月5日に、この小松家軍勢が義経らの軍勢に急襲(夜討ち)されて敢え無く敗退してしまった。三草山合戦での平家方の兵力は、源氏方の兵力とほぼ同等規模であったのではないだろうか。
筆者の見解では、この三草山合戦での敗北が2月7日の合戦における平家方大敗の本質的原因であったのではないかと考察している。これ以降の分析については、長くなるので次回の投稿で改めて述べてみたいと思う。
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