先の投稿で述べたとおり、筆者の見解では寿永3年2月5日に起きた三草山合戦での敗北が、2月7日の福原(一の谷)合戦における平家方大敗の本質的原因であったのではないかと考察している。それは、この敗戦の結果、平家惣領家に次ぐ戦力を持っていたと思われる小松家の主力部隊が、事実上以後の対源氏戦線から離脱してしまったからである。
その本質的な原因は、惣領清盛に先立って亡くなっていた内大臣重盛の子息たちに率いられていた小松家が、清盛正室二位尼時子の長子で正嫡であった内大臣宗盛の率いていた惣領家と平家都落ち前後の頃から微妙な対立関係にあったためであろう。
もし重盛が内乱期まで生存していれば、小松家は惣領家に従属しない独立勢力として源氏に対抗していたかも知れない。この小松家と同様の立場は、清盛と忠盛死後の家督の座を争った池大納言頼盛のケースと似通っており、池家の勢力の場合は結局平家一門の都落ちには加わらず、平治の乱後に頼盛生母の池禅尼(忠盛正室)が頼朝の助命とその伊豆蛭が小島配流に助力した恩義に頼って、その後も京に残っていた。
つまり、当時平家の戦力は、源氏方の攻勢に対抗するに当たって必ずしも統合されていなかったのである。特に小松家では、左中将清経が寿永2年3月10日に豊前柳ヶ浦で入水自殺していたし、既に一門の行動から離れていた重盛庶長子であった三位中将維盛も福原合戦後の3月28日に那智沖で入水自殺したほど、自家の前途を悲観していたわけだった。
維盛乳父で平家の坂東支配と小松家戦力の中核であった上総介伊藤忠清も、平家有力家人であった平田入道家継(忠盛・清盛の「一ノ郎党」と称された筑後守平家貞の子)や出羽守平信兼(治承4年8月頼朝挙兵の際に伊豆山木館で討たれた判官兼高の父)とともに、この頃平家根拠地であった伊勢・伊賀両国で独自行動を取っていた。
その後、彼ら平家残党の勢力は一族を糾合して元暦元(1184)年夏、大規模な「三日平氏の乱」を起こして源氏方の伊賀国惣追捕使であった大内惟義の軍勢に大打撃を加えた。また、家貞の九州支配の地位を受け継いでいた肥後守貞能(家継弟)の勢力も九州に残っていたため、2月7日の福原(一の谷)合戦には参加していなかった。
つまり、合計すれば惣領家に匹敵するような恐らく数千人の兵力を持っていたと考えられる小松家の戦力は、寿永3年2月の時点で全く糾合されておらず、重盛嫡男の新三位中将資盛が率いた残存戦力さえも三草山の合戦で崩壊してしまったため、その後壇ノ浦で平家一門が滅亡するに至るまでほとんど有効な戦力として機能しなかったと言えるだろう。
そうした小松家勢力の脱落の結果、福原周辺の広大なエリアを要塞化していた平家方は、2月7日の合戦当日は相当な戦力不足の状態に陥っていたのではないか。特に丹波口からの源氏方の侵攻ルートが未だ明らかでない以上、福原と大輪田泊を防御するためには大手口であった生田の森方面(東の木戸口)だけではなく、鵯越の山手口と西方塩屋方面からの侵攻ルートであった須磨・一の谷口(西の木戸口)に防御戦力を相当割かねばならなかったはずであろう。
そこで2月7日時点の平家側防御態勢について考察してみると、山手口の方が一の谷口より危険視されていたと思われる。なぜなら、鵯越方面から山手口の防衛線を源氏勢に突破されると、東西に分かれて守備態勢を取っている平家勢が福原周辺を挟んで分断されてしまうことになり、それは直ちに敗戦に繋がってしまうからである。
そこで、既に山手口の守備に付いていた惣領家侍大将の越中前司平盛俊の軍勢に、清盛弟中納言教盛の息子であった中宮亮通盛と能登守教経の率いる門脇家の軍勢が援軍として増派された模様である。だが、その戦力は多分数百騎程度だったに違いないと思う。したがって、山手口で合戦当日に守備に付いていた平家方の戦力は、盛俊の軍勢を合わせても1千騎程度に過ぎなかったのではないかと筆者は考える。
なぜなら、実際の合戦経過では、『玉葉』2月8日の記述によれば、前日7日辰刻(8時頃)から巳刻(10時頃)までの2時間程度の比較的短時間の戦いで源氏方の勝利に決着したとされるから、山手口が簡単に突破されたために福原の東西に布陣していた平家勢が一気に総崩れになったと考えられるからである。
もしこの『玉葉』の記述が事実とすれば、山手口の平家方守備隊は源氏勢とほぼ同等程度の兵力に過ぎなかったと思われる。ほぼ同規模の軍勢ならば、鵯越の坂道を駆け下りてくる源氏勢が有利であったと考えられるからだ。そして、この方面の源氏方の主力部隊は『玉葉』によれば多田行綱の戦力であったと述べられている。
これは先の投稿で述べたとおり、丹波口から侵攻した源氏方搦手部隊の戦力構成が、比較的少数の義経勢と、土地勘があって最有力の摂津源氏勢、そして甲斐源氏の安田義定勢の混成部隊であったと考えれば、山手口の攻撃主力部隊が摂津源氏勢であっただろうから頷ける妥当な所と言えるだろう。だが、『吾妻鏡』によると甲斐源氏安田勢に門脇家の教経が討ち取られたと交名が掲載されているから、あるいは安田義定も山手口を攻撃したのかもしれない。この辺りは全く不明である。
ただ、7日の合戦当日、平家方西の木戸口の守備に付いた大将が忠盛六男であった薩摩守忠度の軍勢であったから、東の大手口の守備に付いていた惣領家の軍勢から戦力が補強されていたとしてもその兵力は少なく、多分数百騎程度に過ぎなかったのだろう。
そのため、筆者の見立てでは、この西方の須磨・一の谷口の攻撃に向かった源氏方の大将は九郎義経の率いた数百騎程度の小勢だったにもかかわらず、山手口を先に破られて挟撃された結果、敢え無く平家方が敗退して忠度も戦死したのではなかっただろうか。
そして、義経が鵯越の逆落としで平家方を一気に打ち破ったとする『平家物語』の記述のような劇的戦術は、恐らく合戦当日は取られなかったのではないか。つまり、この福原・一の谷合戦での平家方の主たる敗戦理由は、筆者の見立てでは、簡単に山手口の防衛ラインを突破されてしまったことにあるのだろう。
さらに突き詰めて考察すれば、福原に直結するこの山手口を2月7日の合戦当日に短時間で平家方が源氏方に突破されてしまったのは、三草山の合戦に敗れて散り散りとなった小松家の主力部隊が参戦していなかったため、平家方が福原周辺の広大なエリアを守備し切るには深刻な兵力不足の状態に陥っていたことに有るのではないだろうか。
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