建武3(1336)年3月2日の多々良浜の戦いで勝利した足利尊氏と直義兄弟は、3月3日から4月3日まで太宰府に逗留して再度の上洛の機会を窺っていた。この間、播磨の白旗城に籠城していた赤松円心と備前の三石城に籠城していた石橋和義から、それぞれ宮方の軍勢に攻められて兵糧の備えが無いので、両将に直ちに上洛して欲しいとの援軍要請が来たと『梅松論』は述べている。
この時、白旗城は新田義貞の率いる軍勢に、三石城は義貞弟の脇屋義助の率いる軍勢に各々攻められていた。この要請を受け、尊氏らは4月3日大宰府を発進して再度の上洛に向かった。まず九州から長府に移動してしばらく逗留し、そこから船出したとされる。
5月5日夕刻備後の鞆に到着し、尊氏らは再上洛の作戦を練った。その一案は、尊氏と直義の両将共に乗船し、四国九州勢が陸路を発向する案であり、また、両将共に陸路を発向する案、そして、全軍が水軍で進発する案がそれぞれ検討されたと言う。
この重大な作戦方針は中々決まらなかった模様だが、最終的は少弐頼尚が播磨と備前の新田勢を追い落とすことが肝要であるから、船戦だけでは不十分である。よって、尊氏は水軍を率いて海路を、直義は陸路をそれぞれ発向すべきであると進言したため、この作戦案が採用された。
5月16日と17日、直義勢は江田行義の籠城する備中福山城を攻撃し、これを陥落させた。直義勢はそのまま備前に攻め込んだため、三石城を攻撃していた脇屋義助の率いる軍勢は囲みを解いて撤退した。そのため、播磨の新田義貞の率いる軍勢も白旗城の包囲を解いて兵庫に退却し、迎撃態勢を再構築しようとしたのである。
しかし、この時の宮方の布陣が筆者には納得できないのである。新田義貞は水軍を持っていなかった。そのため、足利勢の水軍に背後を遮断されることを恐れたのか、兵庫の和田岬に大館氏明の率いる別働隊を配置し、自らの本陣は福原の辺りに置いた模様だ。
他方京都から派遣された援軍の楠木正成勢はわずか数百騎の小勢で、義貞本陣から西北に離れた会下山に布陣している。筆者が思うに、この布陣では新田勢と楠木勢の距離が離れ過ぎていて、双方の連携が取れず数に優る足利勢の攻撃で容易に分断されてしまうだろう。
実際に5月25日の湊川の戦いの戦況でもその通りに推移したため、孤立した楠木勢は足利勢に包囲されてほぼ壊滅している。
この合戦に臨む前、楠木正成は、後醍醐天皇に、足利尊氏と和睦し新田義貞を誅伐することを奏聞している。もしこれが事実とすれば、新田義貞は最初から援軍の楠木勢を頼りにしていなかっただろう。逆に楠木勢も、新田勢との連携を最初から期待しておらず、半ば玉砕覚悟で直義勢に立ち向かう覚悟で会下山に布陣したのではないだろうか。
宮方の作戦ミスは、湊川を主たる防御ラインに置いたことだろう。ここは神戸市内では山際から海岸線まで最も開けたところで、大軍の敵を迎え撃つには適切な場所とは言えない。筆者が思うに、宮方は初めからもっと東側の生田の森を側面において、生田川に防御ラインを敷いた方が良かったのではないだろうか。
生田川の防御ラインは、源平のいわゆる一の谷の戦いの際にも最も攻防が激しかった所で、それだけ土地が狭隘で大軍を迎え撃つには神戸付近では最適の場所であろう。
海岸線と山が迫った狭隘の場所で少数の軍勢が大軍の敵を撃破した最も有名な戦例は、小アジアに侵攻したマケドニアのアレクサンドロス大王の軍勢がアケメネス朝ペルシャ帝国のダレイオス3世の率いる数倍の大軍を撃破した、紀元前333年10月頃に起こったイッソスの戦いだろう。
この時、自軍の背後を突かれたアレクサンドロスは転進して北上し、狭隘な地勢のピナロス川南岸に布陣して、北岸に布陣したダレイオス3世のペルシャの大軍を迎え撃って、自ら山際の右翼から主力のヘタイロイ(王の側近である封建領主層によって編成された重装)騎兵あるいは近衛歩兵部隊を率いて渡河攻撃し、一気にペルシャ軍を撃破している。
生田川付近は、イッソスの戦いにおけるピナロス川周辺とよく似た地形だ。それ故、新田義貞は楠木正成の援軍と共に最初から生田川の東側の狭隘な土地に生田の森を側面において布陣し、むしろ足利勢の水軍を大輪田の泊に上陸させた上で迎撃した方が良かったのではないだろうか。
もしもそういう布陣をしていたならば、新田義貞は主力部隊を率いて右翼の山際から生田川を渡河し、狭隘の土地に引き込まれた足利勢を背後から襲うことが可能だったのではないか。これは、イッソスの戦いにおけるアレクサンドロス大王の作戦と全く同じである。もっとも、当時のマケドニア軍は打撃戦力として優秀な騎兵部隊を持っていたため、こうした作戦が可能であったのかもしれない。
湊川の戦い当時の宮方の軍勢に、それだけの打撃戦力があったのかどうかについては、なお検討の余地があると思われる。
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