2015年6月12日金曜日

孫呉の兵法通りに勝敗が決まった多々良浜の戦い

 先に投稿したように建武3(1336)年正月の京都合戦で敗北した足利尊氏、直義兄弟の率いる軍勢は、播磨の国人赤松円心の進言で2月12日酉の刻(午後6時頃)から戌の刻(午後8時頃)にかけて慌ただしく兵庫から船出して西国に向かった。数は300艘余りだったとされる。『梅松論』によると、船に乗り遅れた人々は陸路西下したという。

 尊氏らは播磨灘の難所を渡海して2月12日室の津に到着し、14日まで逗留して軍議を開催した結果、宮方の追撃を阻止するため中国四国各国へ一族と地元の武将をセットで配置して迎撃と再上洛の準備に当たらせた。

 尊氏は2月15日備後の鞆の浦に到着し、この地の小松寺で勅使の三宝院僧正賢俊から持明院統の光厳上皇の院宣を下される。これで、とりあえず朝敵の汚名を雪いだことになった。これも、西下前に赤松円心の進言を入れた結果である。

 2月20日、尊氏らは長門国赤間が関で、筑前の太宰少弐貞経入道妙恵の嫡子頼尚の率いる軍勢500騎余りの出迎えを受けた。事前に少弐氏の参戦を促す御教書が、尊氏から送られていたわけだ。これは少弐氏が、肥後の宮方菊池氏に対抗する意図だっただろう。

 尊氏一行は29日、筑前国芦屋の津で九州に上陸したが、実はこの時既に妙恵は菊池武敏の率いる軍勢に攻められ、居城の有智山城で一族家人500人余りとともに自害していたのである。つまり、『孫子九地篇』でいう所の「争地」(そこを奪取した方が有利となる要衝の土地)である太宰府は、既に宮方の軍勢に占拠されてしまっていた。

 3月1日、尊氏一行は頼尚勢を先陣にして芦屋の津を出発し、酉の刻(午後6時頃)宗像大宮司の宿所に到着する。その夜半、既に菊池勢は太宰府を進発したという注進が続々尊氏の元に届けられたが、頼尚の進言で翌日合戦に臨むことになり、3月2日辰の刻(午前8時頃)宗像を出陣した。未の刻頃(午後2時頃)に尊氏は香椎宮を通過し、丘陵地から多々良浜の干潟を遠望した所、筥崎八幡宮の松原を背後にして足利勢の数倍の人数と思われる菊池勢が小川(多分戦場南端を流れる須恵川)を越えて北向きに布陣していたとされる。

 尊氏の作戦は以下の通りであった。それは遥々下向した遼遠の地での「最後の合戦」(決死の覚悟であったらしい)で未練を残さないため、尊氏は馬廻りの武者達と共に多々良川北岸の丘陵地に置いた本陣を守備し、予備の打撃戦力として後置する。

代わりに直義が大将となって、先陣の軍勢(高師泰ら関東勢と大友、島津勢他)300余騎を率いて多々良川を渡河して敵を攻撃するというものだ。

それと別に直義勢の東には、敵討ちで士気が高い少弐勢500余騎が布陣したとされる。足利勢は武装も完全ではなく、徒歩立ちの兵力が大半を占め、合計わずか1千騎程度の無勢であった。

そうした劣勢にも拘らず、この日の夕刻(酉の刻)迄数時間の激戦で足利勢が菊池勢を打ち破り、亥の刻(午後10時頃)には直義と少弐頼尚の率いる先陣の軍勢が太宰府を奪還することに成功した。この多々良浜の合戦における足利方の勝因は、一体どこにあったのか。実は当日の両軍の勝敗の行方は、孫子と呉子の兵法通りの展開だったのである。

 『孫子九地篇』には、沼沢地のような行軍が困難な「圮地」では、「行軍を休まず軍を早く進めよ」と述べている。筥崎宮から「圮地」である多々良浜に先着していた菊池勢は、そこに布陣したため、この孫子の教えを守っていない。そのため、北から吹き付けた砂塵に軍勢が混乱して、足利勢の攻撃を阻止することに失敗している。

 次に、『呉子料敵』では、敵を攻撃する時として、「敵軍が遠方から到着し陣地が定まらない時」、「敵軍が疲れ切っている時」がそれぞれ挙げられている。また、「敵軍が渡河しようとしてその半分が渡り終えた時」に攻撃すべしと述べている、「敵半数が渡河を終えた時を見計らって攻撃せよ」という鉄則は、『孫子行軍篇』にも同様の記述がある。

 菊池勢は合戦前夜に太宰府を発進して多々良浜に進撃したため、夜間の4、5時間行軍を続けたことになる。その前の2日間は有智山城攻略に費やしたため、軍勢は相当疲労していたはずだ。したがって、尊氏の多々良川渡河による攻撃作戦は、『呉子料敵』の前者2つの原則通りの作戦遂行だったことになるだろう。

 逆に菊池武敏は、直ちに通過すべき「圮地」の多々良浜にわざわざ布陣して迎撃態勢を取った過ちを犯したばかりか、「敵半数が渡河を終えた時を見計らって攻撃せよ」という孫子と呉子の教えも遵守していない。

筆者には、菊池武敏が軍勢を率いる大将として余り兵書に親しんでいなかったように思われる。彼がこの日実施すべきだったのは、直ちに多々良浜を通過して、足利勢に先んじて多々良川北岸の丘陵地帯を制圧することだったはずである。

 『孫子行軍篇』には、平地に布陣する時は「動きやすい平坦な場所を選択し、右後方に丘陵地を置いて前方を戦場とし、後方を丘陵地に続く高所とするよう布陣する」とある。右後方に丘陵地を置くのは、右利きが多い兵士達が左前方から攻撃してくる敵軍を迎撃しやすくするためと言われる。この日足利尊氏が予備軍を後置した本陣は、正にこの孫子の教え通りの布陣であった。

 その結果、全体的に統制が取れておらず裏切り者も出した宮方勢にあって鋭く反撃したのが菊池勢のわずか300騎程度に過ぎなかったため、尊氏が予備軍を率いて追加攻勢を仕掛けると、さしもの菊池勢も敗退せざるを得なかったのであった。

 ただし、この合戦当日の菊池武敏は「圮地」に布陣するという決定的なミスを犯したものの、筥崎松原を背にして陣を敷いたことは、『孫子行軍篇』にある「沼沢地で敵と遭遇して交戦状態に突入した場合には、飲み水と牛馬のための草が入手できる森林を背にして布陣すべき」という教えについて、辛うじて適っていたことだけは評価できるだろう。

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