2015年6月11日木曜日

新入社員の早期退職に関するプロスペクト理論を応用した分析

 今年の日本の大学卒業者の内定率は86%を超え、2011年の就職超氷河期を乗り越えて、13年と14年の内定率から継続的な増加傾向にある(厚労省、文科省調査)。

 それにもかかわらず、3か月もたたないうちに、いわゆる新入社員の5月病、6月病に罹患して折角苦労して入った会社を辞めてしまう若者が多いのだそうだ。自分もバブル期以前、都市銀行に入行してたった2年勤めただけで退職し、研究者を目指して大学院に入り直した経験があるが、それにしても最低限の生活費と学費を貯蓄するために2、3か月で銀行を辞めるというリスキーな選択肢は採用しなかった(正確には「できなかった」)。

 こうしたリスクを恐れない一部の冒険主義的な若者が増えているという報道が続いているが、その多くは最近のネット社会普及などの時代背景における若者の個性の変化に主たる原因を求めた、いわゆる「世代論」の枠組みによるものだ。

 「最近の若い奴は根性が足りない」という中高年齢層の批判は、太古の昔から同様にあったのであり、自分も「新人類は社会を舐めている」と言われ続けてきた経験がある。

 したがって、単に十把一絡げの科学的根拠の薄い世代論で新入社員の早期退職傾向を語るのは、余り科学的な態度とは言えないだろう。もちろん、話の種として最近の若者の大まかな思考傾向を探るにはそれなりに世代論は面白いし、このブログでもそういうテーマでよく投稿しているので、我ながら忸怩たる思いがあるのだが。

 というわけで、今日は新入社員の早期退職傾向に関して、もう少し人間の心理学的傾向に依拠した筆者の理論的な分析を述べてみたいと思う。

 用いる枠組みは、ノーベル経済学賞を受賞したカーネマン(Daniel Kahneman)とトバスキー(Amos Tversky)が構築したプロスペクト(見込み)理論の、人間の認知的バイアスによる限定合理性に関する知見である。

 さて、ゲーム理論などの規範的理論によれば、期待効用(効用の期待値)を最大化する行動こそが合理的であるとされ(期待効用仮説)、抑止論など安全保障論も一般にこうした期待効用仮説の合理的行為者モデルを前提に組み立てられている。

したがって、プロスペクト理論が導き出すような不合理で逸脱した人間の行動は、規範的には受け入れがたいあくまで現実的、記述的な合理性を持つに過ぎない変則(anomaly)であるとされる。

経済学的な難しい言葉で言えば、期待効用仮説が「基数的」つまり量的な(逆に言えば「序数的」でない)効用概念を前提とするのに対して、プロスペクト理論は効用関数に代えて価値関数と確率荷重関数の2つを掛け合わせて「評価」された主観的に最高価値の選択肢が、必ずしも合理的でない人間の行動を決定すると考える。

 そして、「評価」の前段階のプロセスとして、不確実性(正確に言うとリスク)下での課題を簡略化し、先行的に分析するため「編集」を行うとされている。この「編集」作業を行うために必要なのが参照点(reference point)の決定である。

 実はこのような小難しい理論を並べなくても、プロスペクト理論は理解可能だ。つまり、人間の意思決定というものは、ヒューリスティックス(heuristics)という問題解決を簡便にするバイアスによって参照点を決め、その参照点からの主観的価値と結果の離れ具合を参考にして、利益のある領域ではリスク回避的な行動を選択し、逆に損失が出る領域ではリスク受容的な行動(最適解の近似値)を選択するということである。

 ただ、参照点から離れる程、利益であっても損失であっても主観的価値の変化量は逓減すること(限界効用逓減と同じ理屈)と、損失の方が利益より逓減率(傾き)が急勾配であることを押さえておけば十分である。

 一番重要なことは、人間の判断基準となる参照点が、様々なバイアスによって移動することにより、選好される選択肢が状況に応じて逆転し得るという点である。

 いま、入社3か月後に会社を辞めたい3人の新入社員がいるとする。A君は優等生タイプで真面目な新人だが、仕事の業績が上がらず悩んでいるので会社を辞めたい。B君は下積みの仕事に意義を見つけることができず、「こんなはずじゃなかった、もっと自分のキャリア・アップにつながるような大きな仕事をしたい」と思っているので会社を辞めたい。

最後にC君は、一流大学出の有望新人だが、意識の高さが空回りして机上の空論ばかりを上司と先輩に吹っかけて迷惑がられ、人間関係が悪化しているので会社を辞めたい、とする。

 さて、A君は、会社を辞める判断基準の参照点を最近の事例の想起容易さ(availability)効果に基づいて決めた。同期のDが既に業績を上げた事実を過大評価して、自分はダメだと落ち込んでいる。

 このケースでは、A君は参照点から見てリスク受容的な損失領域でなくリスク回避的な利益領域になお留まっていると考えられる。したがって、A君は損失のリスクに敏感であると思われる。彼の上司は、日本の会社では短期的ではなく長期的に正社員が利益を回収する雇用システムを採用しているのだから、短気を起こさず、長期的視野を持って少しずつ能力を伸ばせばよい、と説得してA君の参照点を移動させてやるべきであろう。

 B君の場合は、会社を辞める参照点を、自分の得た会社に関する初期情報に引きずられる係留(anchoring)効果に基づいて規定していると思われる。彼のケースでは、上司は下済み仕事のOJTにおける意義と会社全体における目標との関連性に具体的に落とし込んでやることで、B君の参照点を移動させてやるのが効果的だろう。

 さて、一番難しい対応が求められるのがC君のケースである。エリート意識の強い彼の会社を辞める参照点は、現在自分の置かれた立場が過去の自分の典型例からどれだけ乖離しているかという、代表性(representativeness)効果に依拠して規定しているからである。

 したがって、恐らくC君は、自分が現在損失の領域に置かれていると感じているはずだ。損失の領域に置かれたと認識している行為者は、リスクを積極的に受容して冒険的な行動を選択しがちである。国際安全保障の研究で言えば、リスキーな対米予防戦争に敢えて打って出た戦前の日本のような、現状変更国家の意思決定がこれに該当する。そのためC君もリスクを恐れず、会社を辞めてしまいかねないと考えられる。

 この場合、国際安全保障の世界では、相手の恐怖に訴えかける抑止あるいは強制の有効性が議論されるのであるが、まさか、民間企業の人事でそんなことはできないだろう。したがって、会社としてC君の参照点を移動させることは極めて困難なことになるはずだ。

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