先に投稿した建武2(1335)年12月の箱根・竹ノ下の戦いに勝利した足利尊氏、直義軍は、新田義貞が率いる官軍を追撃して天竜川を渡河し、12月30日には近江琵琶湖東岸の伊岐代館に立て籠もる比叡山の僧兵1千人余りを高師直軍が蹴散らして京都に向かった。
『梅松論』によると軍勢の手分けは、瀬田には直義と高師泰、淀には畠山高国、一口(芋洗)には吉見三河守、そして宇治に尊氏が率いる軍勢が向かったというから、足利勢はかなりの兵力を擁した典型的な分進合撃作戦を採ったようだ。
これに対して宮方は瀬田に千種忠顕、結城親光、名和長年を大将とする軍勢が向かい、宇治には新田義貞勢が布陣して足利勢を迎撃した。瀬田では、正月3日から矢合わせが開始されたという。宇治の大将義貞は、宇治橋中央二間の橋板を外し、櫓と掻楯(楯を垣根のように立て並べたもの)を作って守備を固めていたが、1月8日には尊氏勢が攻撃を開始し矢戦となる。
9日には、細川定禅と赤松円心の率いる中国、四国勢が山崎に迫り、翌10日午の刻頃に宮方を破って久我鳥羽に攻め入って放火したため、各地の官軍は洛中に敗走し、後醍醐天皇は比叡山に臨幸することになった。なおこの時、内裏も焼失したと言われ、秦の咸陽宮と阿房宮の焼失や寿永3年平家の都落ちに擬えて『梅松論』に記されている。
正月11日正午頃、尊氏は都に入り洞院公賢の屋敷あたりに布陣した。宮方から降伏者が多数尊氏の下に参上したが、この時宮方の結城親光は、後醍醐天皇に別れを告げると佐野山合戦で裏切った大友貞載を討ち取るために偽りの降伏をして接近し、見事大友に致命傷を与えて自らも討ち死にしたと言われる功名を上げている。
さて、両軍の激戦が展開されたのはその後である。正月13日頃から義良親王(後の後村上天皇)と北畠顕家が率いる奥羽勢が東坂本に到着し、新田勢と合流して足利方の三井寺を攻撃したため、援軍に向かった足利勢は寺を焼き払って洛中に撤退した。尊氏、直義は迎撃のため鴨川の三条河原で16日に合戦して新田勢に勝ち、鴨川東岸の白河に進出した。
1月27日朝8時頃、官軍は河原と鞍馬口の二手に分かれて反撃してきたため、足利勢は苦戦に陥り、尊氏と直義の母方の伯父である上杉憲房など名のある武将が多数討ち死にして洛中から撤退する。ところが内野あたりに残っていた細川定禅らの四国勢が反撃に出て宮方を西坂本まで追い落としたため、尊氏らは七條河原に戻って布陣した。
足利勢は翌28日夕刻、再度神楽岡(吉田山)に来攻した宮方と戦い、晦日夜半からは糺河原で最後の激戦を展開したが宮方に敗北し、丹波篠村に撤退したのであった。その後、2月1日に赤松円心の案内で三草山を経由して印南野に出て、3日に兵庫の島に到着したという。その後、尊氏と直義は再起を期して九州に落ち延びることになる。
さて、兵力ではやや優勢のように見えた足利勢が、なぜこの時の京都攻防戦で敗れたのか。やはり大きいのは北畠顕家が率いる奥羽勢の到着で宮方の兵力が増強されたことと、足利勢が兵力を洛中に分散させすぎて集中運用できなかったためだろう。宮方は比叡山を拠点として、鴨川東岸から兵力を集中して足利勢を攻撃出来たことが勝利の要因では無かったか。宮方が錦旗を掲げる官軍であるという大義名分があった点も、この時点で賊軍に過ぎなかった足利勢に比べると、兵の士気に与えた影響は大きかっただろう。
しかし、その後九州に落ちた足利勢は3月多々良浜の合戦で九州宮方の菊池武敏の軍勢を撃破して、4月3日には再上洛を目指して太宰府を進発することになったのである。
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