1月17日、今年のNHK大河ドラマ『真田丸』の第2回が放映されたので、筆者もこの放送を視聴してみた。ちなみにこの第2回放送は、天正10(1582)年3月上旬に起きた武田家滅亡と、甲斐から脱出した真田家人質一行の上州岩櫃城への逃避行が描写されていた。
はっきり申し上げると、国内外戦史および城郭好きの筆者の目から見て、三谷幸喜氏脚本のこの『真田丸』は大いに期待はずれな内容であった。今後の内容修正を強く望みたい。
この戦国屈指の悲劇の1つとも言える武田家滅亡事件に関しては、太田牛一が記した『信長公記』が恐らく第1の基本史料であろう。ところが筆者の見るところ、三谷氏は武田家滅亡事件の脚本の内容を書くに当たって、この『信長公記』さえも綿密に読んでみた形跡が全く感じられない。歴史好きの大河ドラマ・ファンの1人としては、大いに首を捻る放送内容であったと言わざるを得ない。
筆者の脚本に対する疑問点の大前提にあるのは、真田家の3人の主人公である安房守昌幸と長男源三郎信幸、そして肝心要である主人公源次郎信繁(天正10年当時はまだ元服前で幼名弁丸が正しいか)の人物造形と性格設定について、根本的な違和感がある点である。
この点で参考となるのは、同じNHKが1985年4月から86年3月にかけて水曜20時から45回に分けて放映した新大型時代劇第二作『真田太平記』であろう。この『真田太平記』は、筆者が大学4年生の時に特に楽しみに視聴した番組であった。
この時代劇『真田太平記』の原作は、『鬼平犯科帳』等の歴史・時代小説や評論家として活躍した池波正太郎の同名小説であり、真田の「草の者」(すなわち忍者)が徳川家康の暗殺計画に活躍するなど、荒唐無稽な所も多々あった。しかし、草の者と徳川方に属する甲賀山中忍びとの暗闘は殺陣として非常に見所があったし、真田家一族の人物造形と合戦に至る戦略が細密で、戦場での戦闘場面は今から見れば技術的にチャチで滑稽なものだったが、ドラマの内容自体はとても面白かった。恐らく脚本が優れていたのだろう。
『真田太平記』では、安房守昌幸は謀略に長けた武将であったがどこか人間的弱さを持った人物であって、故丹波哲郎氏がそのキャラクターに大変当てはまっていた。また、源三郎信幸は家族思いではあるが危機に際しては的確な戦略眼を持つ、10万石の近世大名として真田家を後世に存続せしめた統治者として優秀な人物として描かれており、これも演じていた渡瀬恒彦氏のイメージがとても良くマッチしていたと思う。
そして、肝心要の主人公左衛門佐幸村(『真田太平記』ではこの講談風の実名であった)は、武勇に優れているが比較的冷静で温厚な人物として、『真田丸』では父昌幸を演じている草刈正雄氏が好演していた。この主人公「幸村」(正しくは信玄弟左馬助の実名にあやかってか「信繁」だが)については、兄信之が後年「左衛門佐は、ものごと柔和忍辱、物静かで、言葉少なく、怒り腹立つことがなかった」と評したように、史実では背丈は草刈氏のように高くはなく、容貌も残された肖像画から見るとモデルの様な好男子では全くない。
また、史実の安房守昌幸の容貌については、やはり残された肖像画から見ると相当怪異な印象を受ける。怪異な肖像画としては、武田信玄弟で画家としても有名な逍遥軒信綱(信廉)が描いた出家姿の父武田信虎のものが筆者にはすぐ思い浮かぶが、一見好々爺風だがとんでもない謀略家であった真田昌幸の肖像画も相当奇怪なものだと思う。
史実の昌幸は、関ヶ原合戦後に紀州九度山に配流されてからは経済的苦境から徳川家からの赦免を希うだけの弱々しい老人となってしまったらしい。ところが、『真田太平記』では、昌幸は豊臣と徳川両家の手切れを虎視眈々と待ち焦がれ、死ぬまで大坂籠城を夢見て「草の者」を駆使して情報収集に余念のない、謀略家のイメージのまま描写されていた。
これは史実の昌幸の実像とは全く異なるが、倅左衛門佐が、この亡父の無念を引き継いでその後の大坂の陣で大活躍する脚本の流れとなっていたから、当時は特に違和感なくこのドラマを視聴できたのである。
真田家の対徳川における武勇の面を象徴的に造形していた昌幸と幸村父子とは対照的に、『真田太平記』での伊豆守信幸(関ヶ原合戦後、徳川家を憚って信之に改名)は、二代将軍徳川秀忠の憎悪に対して家の存続に苦慮する近世初期大名の苦悩をよく表現できていたから、これはこれで父弟との対照の妙が引き立っていて話の展開が面白かったと言えるだろう。
ところが、今年の大河ドラマ『真田丸』では、草刈正雄氏演じる父昌幸がコミカルな人物として描かれている。これは史実から見ても、筆者には非常に違和感がある。それのみならず、言うまでもなく戦国時代の国衆妻女であったはずの昌幸の母と、京出身の上臈であったとも言われる正室山手殿までもが、有り得ないくらい現代女性として描かれてしまっている。
そのため、武田家の悲劇と真田一族の決死の逃避行のドラマ第2回最大の見せ場が、先の放映では全くの喜劇(もっと悪く言えば茶番劇)と化してしまったのである。史実では天正10年の武田家滅亡は、そんなお茶らけた現代風解釈を許容するものでは全くなく、阿鼻叫喚の地獄絵図であったはずだ。
例えば『信長公記』によると、同年3月3日卯刻(午前5から7時)に四郎勝頼が妻子を引き連れて新府の館に火をかけて退去した際には、領内各所から集めていた多数の人質を押し込めて焼き殺したと記されている。人質たちの泣き悲しむ声が天にも響くばかりで、その哀れさは言葉にならない程であったと太田牛一は記している。
これはまさに当時の甲斐国内の状況が阿鼻叫喚の地獄絵図に他ならなかったことを示すものであり、真田昌幸から徴収されていた人質らが勝頼による特別の配慮の下に仮に新府か古府中から当時脱出できたとしても、『真田丸』で描写されたような我儘な女性連れの一行による暢気なハイキングの様なものでは決してなかっただろう。
所詮史実に拠らないドラマにおける創作した場面であったとしても、歴史上の悲劇についてはきちんと悲劇として描くべきであろうと筆者は考える。そうでなければ、滅亡した武田家一族の霊魂に対してとても失礼だし、ドラマとしても視聴者の率直な感動が薄れて決して面白くないだろう。
脚本上、今後キーマンとならざるを得ない信幸と信繁の真田兄弟の人物造形についても、筆者は苦言を呈したい。『真田丸』第2回の放映を見る限り、どうやら三谷幸喜氏は兄信幸を堅実な堅物として、弟信繁をそれと対照的に軽妙洒脱でユーモアのある人物として描いていくつもりらしい。これには筆者は全く共感できない。
かつて好評だった『真田太平記』における真田兄弟のイメージを覆そうというのが、あるいは三谷氏の狙いであるのかもしれない。だが、もしそうならば、今回の『真田丸』では、史実の信幸と信繁兄弟の人物像に依拠してキャラクターを造形していくべきではないだろうか。
史実での兄伊豆守は、大坂の陣後、弟左衛門佐の下に参陣した領内の者たちを武家と百姓とを問わず厳しく詮議している。家中で大坂方に参陣した者については、それに連座してその家族を容赦なく処断した程であった。如何に信之が弟思いであったとしても、徳川幕府の厳しい落武者追及が継続していた段階では、真田家存続を維持するためにそうせざるを得なかったのだろう。
真田信之の領内ではあるいは年貢も重く、上級家臣たちの間で知行の削減に対する不満もあって帰農者が続出したとされる記録も残されている。真田家分家の沼田領では、信之の孫信直の代に検地をし直して、幕府に対して表高3万石を本家松代以上の14万4千石に過大申告して百姓たちに苛斂誅求を加えた。そうした暴政の結果、沼田真田家は幕府から改易されてしまった程なのである。
つまり、筆者の見るところ、史実における真田信之は、かつて『真田太平記』で描かれたような温厚で家臣や領民思いの名君だったとは必ずしも言えず、むしろ父安房守昌幸以上に冷徹なリアリストであったに違いないと思う。そうでなければ、些細な理由で大名が容赦なく幕府に取り潰されていた近世初期に、父と弟が徳川家に何度も敵対した真田信之が家を存続させることは極めて難しかっただろう。
したがって、『真田丸』の人物造形においては、こうした冷徹なリアリストの兄信之と温厚寡黙で内に闘志を秘めた弟信繁像を対比させて話を展開させていった方が、今の喜劇路線よりも遥かに面白いのではないかと筆者は考える。
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