2016年4月20日水曜日

震度7(マグニチュード7.3)の地震災害と熊本城の堅牢さに関する考察

 気象庁は4142126分頃から始まった熊本・大分両県にまたがる活断層を震源地とする一連の地震の本震(16125分頃)について、今日、地震規模がマグニチュード7.3で最大震度7であった(益城町、西原村で計測していた)ことを発表した。なお、この本震では名城熊本城の聳え立つ熊本市内の震度は6強であったとされている。

 この熊本城は、明治101877)年に起きた西南戦争の際に222日から415日まで、谷干城が率いる熊本鎮台兵35百人程の兵力が、当初1万人以上の兵力で包囲した西郷隆盛を担いだ薩摩軍の攻撃から籠城して守り切ったことで、近代戦に耐え抜いた近世初期の堅城としてその名がつとに知られている。筆者も平成になってから、2回ほど、一度は家族連れで訪問したことがある。確かに非常に堅固な要害であり、間違いなく九州一の名城であろう。

 さて、その熊本城が、今回の熊本地震による災害で、武者返しの急勾配で有名な石垣や国から重要文化財に指定されている櫓など多くの建造物が倒壊する大被害を蒙っている。当城を約400年前の文禄・慶長年間頃に築城した「清正公」こと、藤堂高虎と並ぶ築城名人とされていた加藤主計頭清正も、自分の築いた居城がこれほどの大地震に見舞われることは想定外であったかもしれない。

 清正の築城術は、内枡形を重複させた複雑な梯郭式曲輪配置の縄張りや、近江穴太衆の技術を使った打込接ぎ乱積みの武者返しの石垣構築が特に目立つ特徴だろう。また、重複する内枡形以外にも、他の城には見られないほど多くの五階櫓を要所に配置して多重防御体制を作っている点にも注目できると思う。これら清正が作った多くの建造物が、今回の一連の地震災害の結果、無惨に倒壊するに至ってしまった。これらを完全に修復するためには、少なくとも10年以上の期間を要し、その費用も一説には100億円以上かかると見積もられているらしい。

 熊本城は、北から続く舌状台地の先端部である茶臼山という丘陵地帯に構築された平山城である。人工的に掘られた水堀は城内中枢部の南西部を固める飯田丸の西側にあって二の丸との間を隔てている備前堀だけであるが、城域の東側から南西に向かって流れる坪井川を事実上の内堀に見立てて築城されている。茶臼山は標高50mくらいだから、山麓の市内との比高は約40m程度である。

 縄張り自体は清正築城当時から薩摩島津氏の脅威を想定していたため、特に南側の防御が異常なほど堅固になっている。これに対して搦手である北側の防御体制が薄いと評されているが、筆者が実見した限りでは、熊本城の搦手側は空堀と高低差のある断崖で守られており、特段防御が薄いという感じは受けなかった。

むしろ、緩やかに丘が低くなっていく城の西側が熊本城唯一の防御上の弱点であったのだろう。実際の縄張りを見ると、本丸西側に西出丸が築かれて西大手門と南大手門が連続して城の中枢部への敵の侵入を困難にしているし、西出丸のさらに西側には清正時代には未完成であっただろうが、二の丸と三の丸が城内最西端に位置する段山まで連なって守りを固めていた。

 熊本城が実戦に見舞われた西南戦争の際には、この段山の攻防戦が鎮台側籠城戦の成否を決める激戦の舞台となっていたから、やはり攻城側であった薩軍も城の西側が防御上の弱点であると考えていたのだろう。薩軍は官軍よりも砲兵戦力で劣勢であったが、青銅製の前装ライフル砲であった四斤山砲などの砲座を井芹川西岸にある標高約132mの花岡山に据えて、城内を激しく砲撃したらしい。だが、花岡山からでは飛距離が遠すぎて、熊本城の石垣と櫓には有効な打撃を与えられなかった模様である。ちなみに四斤山砲は射程3mまでは届かない。

 今回の地震による熊本城の被害状況はまだ明確ではないが、今日までの報道によると、大天守と小天守周辺の石垣、戌亥櫓脇の石垣、最近再建された飯田丸五階櫓台の石垣、西出丸から本丸など中枢部に入る位置にある頬当御門付近の石垣が大きく崩れてしまっている。特に飯田丸五階櫓は、8段ほどの隅石(算木積みか)を残して土台である石垣が崩れて空洞になっており、今にも倒壊寸前の惨状にある。

 櫓群では、大天守と小天守の屋根瓦が鯱も含めてほとんど落剝している他に、本丸東側の帯曲輪である東竹の丸に連なっていた東十八間櫓と北十八間櫓の2つの築城当時から現存する重要文化財が共に土台の石垣もろとも倒壊してしまっている。なお、この両櫓の北に連なる五間櫓と不開門(いずれも築城時から現存)についても、倒壊したという情報があるが、報道写真から筆者の見た感じでは辛うじて残存しているようにも見える。

 竹の丸は城中枢部の南側にも帯曲輪上に広がっているが、そこと坪井川の内堀とを隔てている現存重要文化財の長塀についても、100m位が倒壊している。ただ、本丸西にある平左衛門丸の土台である高さ20m位の見事な高石垣の上に聳え立つ三重五階の天守級の大櫓である宇土櫓については、続櫓と壁の一部が崩落しただけでほぼ形状を残しているのが幸いである。この宇土櫓は、築城当時の内部にも入って見学することが出来る、城内随一の貴重な文化財であると言える。その土台の高石垣が崩れなかったことを考えると、もろくも崩れ去った帯曲輪である東竹の丸の石垣と比べて、この本丸および平左衛門丸の土台であった周辺の石垣は、加藤清正築城当時から特に堅固に構築されていたのかもしれない。

 加藤清正は、主君豊臣秀吉が晩年築城した指月伏見城の倒壊を、文禄51596)年閏713日に起きたいわゆる慶長伏見大地震の際に実際に経験している。この伏見大地震の際の地震規模についても、今回の熊本地震同様にそのエネルギーはマグニチュード7以上の直下型地震だったとされている。この地震の時には秀吉自身は無事であったが、伏見城内では、500人以上が死亡(圧死?)したと松平忠明が編纂したとされる『当代記』には記されている。

こうして考えてみると、文禄・慶長期に伏見城天守が倒壊した大惨事に比べた場合の今回熊本城が蒙った地震被害の程度については、それが軽微とは言えないまでも指月伏見城のように城自体を廃城しなければならない程の規模には至らなかったという意味において、城郭建築技術が秀吉築城時代と清正築城時代であるいは相当進歩していたのかもしれないと、筆者は感じたのであった。

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