2016年3月4日金曜日

イランの地政学的位置について

 イランの地政学位置は、肥沃な農耕地帯であるメソポタミア平原の北方モースルの辺りから南東に向かってペルシャ湾岸沿いに連なるザーグロス山脈(Zagros Mountains)の北東部、カスピ海南岸沿いをほぼ東西に連なるアルボルズ山脈(Alburz Mountains)との間に挟まれたイラン高原に立地していることである。

 そのため、国土の主要部分の大半は南東部のルート砂漠(Dasht-e Lūt)とアルボルズ山脈の南にあるカヴィール砂漠(Dasht-e Kavīr)といった岩石砂漠の一帯を除けば平均高度1m以上の高地に位置しており、アルボルズ山脈には域内最高峰で標高5,600mを超える活火山ダマーヴァンド(Damāvand)山が聳え立っている。

 したがって、 ダマーヴァンド山の南西66kmに位置する首都テヘランの標高も1,200mを超えており、テヘランは年間降水量も250mmほどに達し砂漠とステップ気候の境界線上に位置している。

 つまり、テヘランでは冬季に降雪も見られるし、平均最高気温と最低気温の較差が大きいものの最高気温は40℃に達せず、砂漠地帯からの気温が上昇し始める2月から5月頃まで激しい砂塵嵐(ハムシーン、khamsīn)に見舞われるバグダードの最高気温が40℃を超えることに比べれば遥かに人の居住に適した環境である。

 そのため、古代よりイラン高原に依拠したペルシャ人の勢力は高度な宗教哲学や文化を作り出して隣接するメソポタミアやアルメニアに対して強い影響力を及ぼし、そうした帝国を統治するため洗練され、かつ、上手く組織化された官僚制度を構築することに成功したのである。

 イランの古代帝国が衰退した後、バグダードに都をおいて広くイスラーム圏とシルクロードを支配したアッバース朝(Dawla al-‘Abbāsīya, 750-1258年)が帝国支配を貫徹できたのは、ペルシャ人の宰相に率いられた官僚制度が有効に機能していたためである。

 実際、先述したようにイラクのユーフラテス川の線まではほぼ完全なシーア派地帯であって、今日でもイランの強い影響下に置かれているのが実情である。

 現在のイランの人口は78百万人を超え、経済力で優勢なトルコの人口を上回っている。人口密度も国土が広いためにイラクとトルコよりも低いし、また出生率もそれほど高くないためユースバルジの圧力にさらされるリスクはイラクよりもかなり小さいだろう。

 実際、イランの若年人口比率は2014年次のデータで24%に過ぎない。イランはサウジアラビアに匹敵する中東の資源エネルギー大国であることは誰にでも判る。核開発問題による国連と欧米の経済制裁が2015714日に締結された最終合意JCPOAに基づいて20161月に解除されたので、イランは今後益々外国からの投資を呼び込んで制裁期間中に老朽化したエネルギー関連の生産施設を更新し、急速な経済発展を遂げていく可能性が大きいと思われるからだ。

 しかもイランはJCPOAによって、欧米から事実上核の閾国(threshold nuclear state)として認められたため、15年間のウラン濃縮制限期間後は1年以内に核保有国となる道を選ぶこともできる。これはイランと対立するサウジアラビアとイスラエルにとっては、決して看過できない事態と言えるだろう。

 イランの地政学的強みは、その伝統文化とシーア派イデオロギー、そしてイスラーム革命防衛隊の暗躍による旧ソ連圏や肥沃な三日月地帯へのソフトパワーとハードパワーの行使だけにとどまらず、内陸部にあるカスピ海沿岸諸国とペルシャ湾岸の二大原油・天然ガス生産埋蔵地帯の間にパイプライン網を張り巡らせることで仲介できる点にも注目すべきであろう。

 ガルフに面したイランの海岸線は対岸のアラビア半島側に比べると複雑に入り組んだ長くて港湾整備に適したものであり、ガルフが「アラビア湾」ではなく「ペルシャ湾」と呼称されるのが通常であることも、サウジアラビアやオマーンではなく、米第5艦隊を除けばイラン海軍だけが重要航路のチョーク・ポイントであるホルムズ海峡を事実上支配できることを意味していると考えることもできるだろう。

 このようにイランの中東における地政学優位は周辺国から隔絶したものがあるが、弱点は対外関係ではなくむしろ国内の方にある。

 つまり、イランでは国民の民度が比較的高く、哲学的あるいは文化的に洗練された誇り高い国民性を持つがゆえに、1979年イスラーム革命後に構築された専制的な法学者統治体制(ヴェラーヤテ・ファギーフ、Velāyat-e Faqīh)を護持しようとする最高指導者ハーメネイ師や保守派に対する反発が、改革派や大都市に居住する中間層の間で高まってきたからである。

 2009年大統領選挙での不正操作疑惑をきっかけに政治改革を求めて湧き上がった「緑の運動」は、保守派の意向を受けた治安部隊による弾圧で沈黙させられたが、イラン国内では引き続き、欧米諸国との距離の置き方、経済自由化を進める程度、イラクやパレスチナ問題への介入やヒズブッラー支援の在り方、そして民主主義的な政治改革をめぐって国内で対立が残存している。恐らくこうした国内での対立が、イランの抱える矛盾を示している。

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