2016年4月13日水曜日

2347年ぶりのイラク北部モースル近郊での決戦の可能性(ガウガメラの戦いの分析その3)

 昨日の投稿で述べたように、BC331年夏にアレクサンドロス大王の率いる東征軍はタプサコス(恐らくカルケミシュ付近)でユーフラテス川を渡河した。ユーフラテス川とティグリス川の増水期は、エジプトのナイル川の様に定期的(7月から10月の間)ではないが、源流地である山岳地帯の雪解け水が流れ込む4、5月頃に川が氾濫することが多かったと思われる。メソポタミア地方で河川対策と灌漑が発展し、それが古代王権と文明の発達に大きく寄与したことは高校世界史の教科書にも掲載されている。

 さて、BC331年の決戦に向かったアレクサンドロスの軍勢は、比較的容易にユーフラテス川の渡河に成功したようだ。夏季でユーフラテスが減水期に入っていたのかもしれないが、バビロニアに集結していたペルシャ軍が河川に防衛線を敷くことを怠ったことも敵軍の渡河作戦を容易ならしめた大きな原因であっただろう。

 1世紀クラウディウス帝時代のローマの歴史家であったクルティウス・ルフスが著した『アレクサンドロス大王伝』によると、ダレイオスはペルシャの名門貴族で当時メソポタミアの総督(サトラップ)であったマザイオスに、6千人の兵を率いてユーフラテス川の浅瀬の渡河地点を確保することを命じている。

ちなみにこのマザイオスは、当時のアケメネス朝ペルシャ帝国軍においては最も優れた軍司令官であったようだ。実際に彼は、10月1日のガウガメラの戦いにおいてペルシャ軍の右翼部隊を指揮しており、その水際立った指揮ぶりでパルメニオンの率いていたマケドニア・ギリシャ同盟軍の左翼部隊をかなり圧倒している。クルティウス等の記述によると、彼は全軍の敗走後もアルベラに後退せずに敗残兵を纏めて敵中を突破してティグリス川西岸に渡河し、そのままバビロニアでアレクサンドロスに改めて降伏した後、ペルシャ人であったにもかかわらず後日バビロニア総督に任命されている。

 これは恐らく、アレクサンドロスがメソポタミア総督としてマザイオスが現地に精通していたことと、彼の能力を相当評価していた結果なのであろう。

 その有能な将軍のマザイオスであったが、実際には敵軍の接近を知るとあっさりと河川防御を放棄している。どうやら彼はユーフラテス川の北東を流れるティグリス川の流れの速さから、アレクサンドロスの軍勢が渡河することは困難であろうと判断したらしい。そこで、アレクサンドロス軍が直接バビロンに南下するだろうと想定して、タプサコスから南方で敵の糧秣確保を妨げるための焦土作戦を実施したのであった。

 ところがアレクサンドロスは真夏で酷暑のメソポタミアを南進する作戦を取らず、ユーフラテス渡河地点からそのまま東進してニネヴェに向かった。多分、タプサコスからニネヴェ、さらにはアルベラまではBC5世紀にダレイオス1世が整備した「王の道」が当時通じていたから、アレクサンドロス大王の軍勢はそのルートを進撃してティグリス川の渡河地点に向かったのであろう。高地でバビロニアよりは涼しいニネヴェやアルベラ付近で、糧秣を十分確保しようと大王が意図していたのかもしれない。

 いずれにしても、アレクサンドロス軍は急流の危険を顧みずにティグリス川を完全武装のまま、兵士たちは胸の上まで水に浸かりながら渡渉した。恐らく舟橋をかけられない程、川の流れが速かったのだろう。まるで我が国の宇治川の合戦の様だ。実際、アレクサンドロスは兵士たちに腕を組んで身を寄せ合って一塊の隊形を作らせて、何とか全軍を渡河させることに成功したようだ。あるいは源平合戦の宇治平等院の戦いの時のように、騎兵部隊は馬筏を形成して渡河したのかもしれない。

 その無謀な渡河作戦で疲労困憊した兵士たちを休息させるため、クルティウスの記述によるとアレクサンドロスは2日間(9月20から21日か)、渡河地点で宿営した模様である。

 その頃、ダレイオスの率いていたペルシャ軍主力部隊はバビロニアを既に進発して、ティグリス川東岸のアルベラ付近に軍を集結させていたと言われる。そのダレイオスの意図は、狭隘な地形で大軍を十分に展開させることが出来なかったイッソスの敗戦の結果を踏まえて、アルベラとニネヴェの間の広い平原地帯で敵に決戦を挑もうと考えた結果であったらしい。そのため、連携不十分な混成部隊からなる歩兵部隊の展開訓練や、鎌付き戦車の走路まで予め構築していた模様である(だが、仮に事前に戦車の走路を作っても敵がそこに展開するとは限らないし、実際にその目論みはほとんど無駄になったわけだが)。

 なお、焦土作戦に従事していたマザイオスの別動隊の一部である1千人の騎兵部隊が敵のティグリス渡河を阻止するために派遣されたが、これは渡河後既に戦闘態勢を整えていたマケドニア軍騎兵部隊に一蹴されてしまったと記録されている。

 アレクサンドロス軍はアルベラ方向に向かって東進する途中、渡河後4日目に敵の騎兵部隊と衝突し、その捕虜の口からダレイオス軍がガウガメラ(現在のテル・ゴメル、モースルつまり古代ニネヴェから約20km東方の地点)に展開していることを知ったとされる。なぜか、アレクサンドロスは悠然とその地にさらに4日間留まった後、丘から平原に降りて敵の大軍を目視で発見し、その翌日戦闘態勢でペルシャ軍に向けて進撃し、10月1日を決戦日と定めて兵士の士気を鼓舞し、宿営したとされる。

 この間のアレクサンドロス大王の態度が、何とも悠長な様子に見えるのが不思議だ。実際に10月1日の決戦の日になっても、既に太陽が高くなってから漸く大王が目を覚ましたと言われている。これは、東に向かって進撃する自軍の目が眩まないように、日が十分昇ってから決戦を挑むというアレクサンドロスの深い配慮だったのかもしれない。

 これに対するダレイオスは自分から先制攻撃を仕掛けることもなく、敵の夜襲を恐れて全軍にピリピリとした警戒態勢を終夜とらせたおかげで、10月1日の決戦当日には兵士たちが初めから疲れてしまっていたとも言われている。イッソスで一度大敗しているだけに、ダレイオス3世は過剰に慎重になり過ぎていたのかもしれない。

 結果的には、両翼を斜線形に布陣するとともにギリシャ軍を第2線防御に配置して、大軍であったペルシャ軍の包囲攻撃を阻止することに成功したアレクサンドロス軍が、ダレイオスの縁戚でバクトリア総督のベッソスが率いたペルシャ軍左翼部隊をダレイオスの中央部隊と分断することに成功した。

そして、アレクサンドロス自身が直接指揮した右翼のヘタイロイ騎兵部隊と近衛歩兵部隊の楔をダレイオス本陣に突入させてダレイオス直属部隊の戦列を崩壊させたため、パルメニオンの率いていた左翼ではマザイオスの騎兵部隊に苦戦を強いられたマケドニアとギリシャ同盟軍が、結果的にペルシャ軍に大勝したのであった。クルティウスの『大王伝』によると、ガウガメラの戦いにおけるアレクサンドロス軍の戦死者は3百人、ペルシャ軍の死者は眉唾な数字だが凡そ4万人であったという事らしい。

 敗戦後アルベラまで逃走したダレイオスはアレクサンドロスの激しい追及を何とか逃れ、その後アルメニアを経由して、11月頃には古代メディア王国の首都でアケメネス朝の夏季王宮が存在したエクバタナ(現在のハマダーン)に逃走したとされる。アッリアノスの『東征記』によると、彼に随ったのはバクトリア人騎兵とペルシャ人精鋭部隊「不死隊」の一部、それにギリシャ人傭兵わずか2千人程が合流しただけらしいから、ダレイオス3世には、もはやアレクサンドロスに対して再度の決戦を挑むだけの十分な兵力を動員することは困難な状況に陥ったようである。

 実際、アレクサンドロス軍がBC330年5月下旬に既に占領していたペルシャの首都ペルセポリスから、エクバタナに進撃を開始すると、ダレイオスは騎兵3千人と歩兵6千人、そして7千タラントンの軍資金を抱えて縁戚ベッソスが総督を務めていたバクトリアの首都バクトラに向けて逃避するしか方法が無かったのである。

結局、その後彼はそのベッソスに裏切られて捕縛され、 BC330年7月か8月頃に殺害されてしまったのであった。この辺りの悲劇は、何だか信頼していた小山田信茂の裏切りにあって天正10(1582)年3月11日、天目山麓田野で自害に追い込まれた武田勝頼の悲劇を髣髴とさせるものがあるだろう。

2016年4月12日火曜日

2347年ぶりのイラク北部モースル近郊での決戦の可能性(ガウガメラの戦いの分析その2)

 2世紀ローマ帝国のトラヤヌス帝とハドリアヌス帝時代のギリシャ人政治家かつ歴史家であったアッリアノスが著した『アレクサンドロス大王東征記』には、エジプトから帰還後、大王がガウガメラの決戦に至るまでの進路について、以下のような記述がある。

すなわち、BC331年春に(アレクサンドロスはエジプトの)メンフィスを発ってティルスに至り、そこから内陸に転じて、ヘカトンバイオンの月(7・8月)にユーフラテス川の渡河点であるタプサコスに到着した、ということである。問題は、渡河地点であるタプサコスの位置と「内陸に転じて」の意味をどう考えるかという点にある。

 まず、フェニキア(レバノン)最大の港湾都市であったティルスからアレクサンドロスの軍勢が内陸に転進したとすると、常識的に考えればレバノン山脈とアンチレバノン山脈を越えてダマスカス方面に向かったことになるだろう。あるいは、ダマスカスには向かわず、両山脈の間に広がるベッカー高原を抜けて直接ホムスに到達したのかもしれない。

 問題はダマスカスかホムスから、その後大王の軍が北方のアレッポに向かったのか、あるいは東方のパルミラ方面に向かったのかが判明しないことである。仮に前者のルートであったならば、アレッポから軍勢は東進してカルケミシュでユーフラテス川を渡河したことになる。もしも後者のルートであったならば、現在ISが首都としているラッカの辺りで軍が渡河したのかもしれない。したがって、タプサコスの位置が特定できないのである。

 記録によれば、アレクサンドロスは2本の舟橋をかけて軍勢を渡したとされるが、渡船も利用した可能性がある。そうであるならば、やはりカルケミシュ付近でユーフラテス川を渡河したと考えるべきかもしれない。先の投稿で述べたとおり、古来カルケミシュはユーフラテス渡河の交通の要衝であり、東進してメソポタミア北部の首邑ニネヴェに直結していたから、やはりこちらのルートを大王が選択したと見るべきだろう。

 また、パルミラ方面を経由するルートは大軍勢がシリアの砂漠地帯を横断することになるから、兵士のみならず騎兵部隊や輜重部隊の軍馬や騾馬に与える糧秣の調達が恐らく困難だったことも、アレクサンドロスがアレッポとカルケミシュ経由の無難なルートを進撃したことの傍証となるのではないかと思われる。

 さて、アレクサンドロスの軍勢がユーフラテス川を渡った頃、敵のダレイオスはバビロンに決戦兵力を集結させていた様だ。その兵力はアッリアノスによると歩兵100万人、騎兵4万人、鎌付き戦車200両というのだが、いくらペルシャ軍が総力を挙げて肥沃な三日月地帯の中心であったバビロニアに集結したとしても、これはいささか多すぎる明らかな誇張であろう。当時の軍隊に、100万人以上の兵力を給養させるだけの補給能力があったとは到底思えない。ペルシャ軍はせいぜい総兵力10万人位で、アレクサンドロス軍の2倍といったところが真相ではないだろうか。

 BC333年10月のイッソスの戦いの敗戦で奇しくも露呈したように、マケドニア・ギリシャ同盟軍のファランクス(重装歩兵の密集方陣)と比べてペルシャ軍の弱点は、歩兵の装備が脆弱であったことと、各地の総督に率いられた帝国支配下諸民族の混成部隊で兵力は多いが必ずしも統制と連携が取れていない点であった。

 そのため、ダレイオスは多くのギリシャ人傭兵部隊を抱えて弱点を補っていたわけだが、歩兵で6m位のサリッサ(長槍)で武装したファランクスに対抗するため、ダレイオスは剣と槍の長さをギリシャ風に改造したらしい。だが、結局は諸民族混成部隊の弱点からか、傭兵部隊を除いてファランクスの実戦での運用までは到達できなかったようだ。つまり、最後までペルシャ歩兵部隊はアレクサンドロスの歩兵部隊に劣勢を強いられたと思われる。

 また、騎兵について見れば、両軍とも当時は鐙が発明されていなかったから馬上での安定性が無く、スキタイ人の様な一部の遊牧騎馬民族を除いて弓射騎兵としての運用は恐らく困難だっただろう。したがって、サリッサと剣や重装備で武装したマケドニア軍のヘイタイロイやテッサリア騎兵の方が機動打撃力の点でも、ペルシャ軍より遥かに優越していたのだろう。

実際、三大決戦のいずれも、アレクサンドロス大王が直接率いた騎兵部隊の打撃力によってペルシャ軍の戦列が破られて敗戦している。このような、中央ないし左翼に配置した重装歩兵のファランクスが敵の攻撃を引き受けて防戦している間に、右翼の重装騎兵部隊を敵の戦列にぶつけて包囲あるいは突破する戦術は、アレクサンドロスが得意としたいわゆる「鉄床戦術」だったわけである。

 もう1つの勝敗を決した要素として、アレクサンドロスがBC331年当時まだ25歳で、50歳位の年齢であったダレイオスと比べると非常に若くて気力に溢れており、しかも自らを、トロイア戦争を舞台にしたホメーロスの叙事詩『イーリアス』の主人公である英雄アキレウスになぞらえていた気配があった事だろう。

そのため、戦場でのアレクサンドロスは自ら先頭に立って、何度も敵陣に斬り込むようなギリシャ神話上の英雄並みの蛮勇を常に奮っていた。彼が実戦で負傷し、戦死しかけたことも少なくない。これほど勇敢な騎兵指揮官は、恐らく歴史上アレクサンドロス大王の他には、ナポレオンの妹婿であったジョアシャン・ミュラ元帥がいるくらいではないだろうか。

 結局、イッソスの戦いでもガウガメラの戦いでも、騎兵部隊の先頭に立って本陣に肉薄してきたアレクサンドロスの鬼気迫る攻撃にダレイオスが怖気付いてしまったことが、ペルシャ軍の戦列崩壊と敗戦に繋がってしまったのであろう。唯一マケドニア・ギリシャ同盟軍が保有していなかった鎌付き戦車部隊についても、戦場では有効活用できなかった点がペルシャ軍の大いなる誤算であっただろう。

 さらに、戦場に集結し決戦し敗走あるいは追撃に至った実際の両軍の動きについても、考察しておくべき中々興味深い諸問題があるので、次回の投稿でその点に関する筆者の分析を改めて述べてみたいと思う。

2016年4月11日月曜日

2347年ぶりのイラク北部モースル近郊での決戦の可能性(ガウガメラの戦いの分析その1)

 アメリカが主導する有志連合軍の空爆によって、ティグリス川とユーフラテス川の両岸地帯(メソポタミア)の一部を実効支配するIS(イスラーム国)の支配領域が現在までに40%程度縮小したとする見方がある。そうした見地に立つと、恐らくIS支配下の油田地帯から産出される原油量も日量1万から4万バレル(2014年夏季IS勢力最盛期の約半分)程度にまで減少し、その活動資金の調達はさらに困難になりつつあると思われる。

 現在、イラク国内におけるISの最大かつ最後の拠点は北部油田地帯に位置する大都市モースルであるが、このモースルはイラクの首都バグダードの北西約400km弱のティグリス川両岸を跨ぐ地点に市街地が広がっている。2016年のイラク政府軍の最大目標は、有志連合軍による空爆支援の下でモースルをIS勢力から奪還して、イラク国内からISを追い出すことであろう。これは事実上、イラク政府軍とIS武装勢力との最終決戦となる公算が強い。イラク政府側は遅々としながらも、そのための戦力整備を着々と進めていることだろう。

 このモースルのティグリス川東岸には、古代都市ニネヴェの遺跡が存在する。ニネヴェは古代アッシリア帝国のセンナケリブ王が紀元前8世紀末に都とした場所である。ニネヴェからクルド自治区の首都アルビールまでは85km程度の距離しかない。アルビールは現在もモースルと重要な幹線道路でつながっているが、この幹線道路をモースルからさらに西に向かうと、シリア、トルコ領内を進んでユーフラテス川で最も浅い重要な渡河地点があるカルケミシュ(シリア領内ジャラーブルス付近)に到達する。

 聖書のエレミヤ書によると、紀元前7世紀末(BC605年頃)に新バビロニア王国のネブカドネザル2世とエジプト第26王朝のファラオであったネコ2世がシリア支配をめぐってカルケミシュで戦い、その結果エジプト軍が敗北したとの記述がある。つまり、古来カルケミシュは、メソポタミアとエジプトの両勢力がシリア支配をめぐって支配権を争った、戦略的要衝の地であったわけなのである。

 筆者が本投稿で述べる2347年ぶりのモースル近郊での決戦というのは、今年展開されるかもしれないイラク政府軍とISとの決戦のことであるが、2347年前、つまりBC331年に起きた決戦とは、古代マケドニアのアレクサンドロス3世(大王)がアケメネス朝ペルシャ帝国を滅亡させた東方遠征の最中に起きた三大決戦の最後、つまりガウガメラの戦いを意味している。

 アレクサンドロスは暗殺された父フィリッポス2世のあとマケドニアの王位を継承した後、ギリシャ国内の反乱を鎮圧して父が生前に企図していたペルシャ戦争への復讐を大義名分とした東征にBC334年に着手し、ヘレスポントス(ダーダネルス海峡)を渡って5月にグラニコス河畔の戦いでペルシャのサトラップ(太守あるいは総督)達とギリシャ人傭兵の軍勢を撃破して小アジアを征服し、翌年10月には以前の投稿で述べたイッソスの戦いで、ペルシャから家族連れの大軍で親征してきたアケメネス朝の「諸王の王」ダレイオス3世の軍勢も打ち破って王の母親と妻子を捕虜にした上でレバント地方(シリア及びフェニキア)を制圧した。この際には、BC332年に唯一抵抗した港湾都市ティルスを7か月かかった激しい攻城戦で攻略し、約1万人を殺し、約3万人の市民を奴隷に売却したと言われている。

 その後、アレクサンドロス大王はアケメネス朝の支配が脆弱だったエジプトに侵攻して解放者としてファラオに祭り上げられるとともに、最初の都市アレキサンドリアを建設したのは有名である。さて、小アジア、レバント、そしてエジプトといったペルシャ帝国の西方領土を掌握した後は、当然メソポタミアを攻略することが大王の次の戦略目標となった。

 ところが、マケドニアの戦力に圧倒されたダレイオスの方は、多分アレクサンドロスのエジプトからフェニキアへの帰還後のBC331年春に、2回領土の割譲と和睦の提案を行っている。まず、最初の提案では、小アジアのハリュス(クズルルマク)川から西側の領土、すなわちリュディアとフリュギア(あるいはキリキアも含む)地方と2万タラントン(1タラントン=約26kgか)の銀をアレクサンドロスに贈呈するというものだった。だが、既にエジプトまで征服していたアレクサンドロスの立場からすれば、この提案では征服地から撤退することを意味しているから受け入れるはずが無いだろう。

 そこでダレイオスはさらにユーフラテス川から西側の領土の割譲と3万タラントンの銀、そしてアレクサンドロスを娘婿として帝国の共同統治者とする再提案を行ったとされる。この提案に対し、マケドニア軍の副将で大王の補佐役であった老将パルメニオンはペルシャとの和睦を進言したとされるが、アレクサンドロスは「太陽が2つあれば宇宙の秩序が維持できないように、人間世界でも2人の王は存続できない」趣旨を使者に伝えて、名誉のために自分と決戦を挑むか、自分の命令に服従して王として生きるか、ダレイオスに選択するように強要したと言われている。アレクサンドロスは、余程自分の武力に自信があったのだろう。

 会議後、ギリシャ同盟軍を含む大王の軍勢(約5万人と言われる)はメソポタミアに向かったが、その頃捕虜として連行していたダレイオスの妻で実妹であったスタテイラが死亡したため、アレクサンドロスは彼女を盛大に弔ったとされる。

当時の大王の軍勢の進路は不明な点もあるが、まずカルケミシュでユーフラテス川を舟橋をかけて渡河し、その後現在の幹線道路と同じルートをそのまま東進してティグリス川を渡河してニネヴェに至ったのではないだろうか。その後、BC331年10月1日にニネヴェからアルベラ(現在のアルビール)に向かう途中のガウガメラで、マケドニアとペルシャ両軍の3回目で最後の決戦が行われたのだが、その決戦に関する筆者の分析については次回の投稿で述べてみたいと思う。

2016年4月1日金曜日

乙武洋匡氏の人格傾向と、メディアによる虚像増幅に伴う社会心理についての感想

 先天性四肢切断という重度の障害を持って生まれてきた乙武洋匡氏は、早稲田大学政治経済学部卒であり、筆者の学部後輩に当たる。周知のとおり、彼は大学在学中の1998年に著した『五体不満足』で「障害は不便だが、不幸ではない」という屈託のない新鮮なメッセージを発することにより、ベストセラー作家となり、一躍時の人となった。

乙武氏は大学卒業後スポーツライターを経た後に杉並区小学校の教諭や都の教育委員を歴任し、一種の教育専門家としてメディアで取り上げられ、2016年夏の参院選に自民党公認で出馬する予定であると言われていた。

 その爽やかで誠実なイメージの乙武氏が、妻以外の複数の女性と不倫(買春?)をしていたという事で、3月24日夫婦同時に公式サイト上で世間に謝罪し、30日には参院選出馬を取りやめることが報じられた。今日はそのことに関して少しばかり、社会心理学的に筆者の勝手な感想を述べてみたい。

 まず、注目されるのは、彼が教育委員在任中に不倫を隠すダミー役の男性を伴って、何度も愛人女性同伴で海外「視察」に出かけていたことだ。そのダミー役の男性の1人は、4月5日リーガロイヤル東京ホテルで参院選出馬の決起集会とするはずだった乙武氏40歳誕生パーティーの発起人の1人で乙武氏の友人でもある、社会学者(大学院生)の古市憲寿氏とのことだった。

 実はこの古市氏は、3月25日のツイッターで「庇う気はないが、(乙武氏のケースは)普通『不倫』と聞いて想像する光景とは、かなり違っていた気もする」と友人を擁護する見解を述べていた。だが、もし彼自身が乙武氏の海外不倫「視察」旅行に同行していたとすれば、多分自己弁護の意味で述べたものだろう。

 問題は、乙武氏の「視察」に都教育委員会から公費が支出されたかどうかという点であり、もしそうであるなら公金の重大な流用問題になりかねない。古市氏ら同行したダミー男性達も、同伴女性と共に厳しく責任を追及される必要があるだろう。したがって、彼の乙武擁護論は全く取るに足らない無責任な発言に過ぎない。

 今回の問題に関して、的確な分析だと筆者が思ったのは、在米ジャーナリストの岩田太郎氏がJapan In-depthに投稿した「乙武氏「自己肯定感物語」破綻と障碍者の性」という記事の内容である。この記事の中で、岩田氏は今回の乙武「五股不倫」問題を、「全聾の天才作曲家」佐村河内守氏や「高学歴ハーフタレント」ショーンK氏のケースに類似した、マスメディアが増幅した虚偽の個人イメージ(虚像)崩壊のより深刻なケースであると位置づけている。

 なぜなら、乙武氏が常日頃述べてきた「明確な自己肯定感を持てた」「人生、だいじょうぶ」という世間に感動を与える「壮大な救済物語」が恐らくほとんど虚偽の作り話であり、乙武氏自身が多分自己肯定感を欠如させたまま(成熟した大人に成り切れず)、メディアの増幅した虚偽のイメージに自己をうまく適応させて生きてきた欠落感から、今回の様な不倫騒動を起こしてしまったのだろう、と岩田氏は概略分析している。

 その意味では、本当は高卒の学歴しか持たないショーンK氏がハーバードMBAの経歴を詐称したケースや、作曲の出来ない佐村河内氏がゴーストライターを使って天才作曲家を騙っていたケースと、彼らの行動の動機が自己肯定感の欠落にあると考えられる点で確かに共通していると筆者も考える。

 だが、偽善者は彼らだけではない。より本質的には、その虚像を商売や選挙に利用しようとしたメディアや政党も偽善的だし、我々一般市民の多くも障害者に対する「差別主義者」で無いという偽りのアリバイ作りに利用してきたという点では、同様に偽善的なのである。ネット上やメディアでの乙武氏やその妻に対する激しいバッシングの嵐は、そうした日本社会全体の偽善的態度を裏返しにした反動現象であると考える。

 心理学的に見れば、乙武氏やショーンK氏は、青年期に多く見られる自己愛的人格傾向を維持したまま、大人になってしまったのではないかと筆者は感じる。自己愛的人格傾向とは、自信に満ちてエネルギッシュかつ自己本位的で他者への共感が欠如した態度が目立つ一方で、他者の評価によって自己評価や肯定感が容易に揺れ動く矛盾した人格特性なのである。いわば、自信と不安が入り混じった不安定なアイデンティティを持った、成熟していない人格を意味している。乙武君もショーンKも、どちらからもそういう人格特性の臭いがするのである。

 ただし、自己愛傾向は、必ずしも病的に他者を傷つける程の「自己愛性パーソナリティ障害」(Narcissistic Personality Disorder: NPD)にまで常に至るとは限らない。その意味において、普通の健常者にも多かれ少なかれ見られる、傲慢で自己顕示的な人格特性の程度問題なのである。

ただ、今回の「五股不倫」問題を通じて見える乙武君の家族に対する配慮の無さから感じるのは、彼の持って生まれてきた障害に恐らく起因する低い自己評価と、一見それとは矛盾するような尊大な自己認識と自己顕示欲が、彼の心の中でアンビバレントに共存しているのではないかという疑いが、完全に否定しきれない点であろう。

 筆者は以前から、先天性四肢切断という大きなハンディを抱える乙武君が、どうやって都立高校上位校である戸山高校や一浪したとは言え早稲田大学政治経済学部卒業の学歴を得ることが出来たのか、とても不思議に感じていた。あからさまに言えば、彼のハンディから考えて、通常の手段では高校と大学の厳しい入試を突破することは極めて困難であっただろうと感じていたからである。

 これはあくまでも筆者の憶測であるが、彼が無事高校と大学の学歴を獲得できた背景には、何らかの大人側の配慮が介在していたのではないか。乙武君は、ある種の推薦合格を貰ったと言い換えてもいいだろう。もしそういうプロセスが、彼の人生で実際に起きていたとするならば、乙武君が今に至るまで自己肯定感を獲得できず、アンビバレントな自己認識や顕示欲を肥大化させていったことも十分想定できるだろう。

 そして、大学在学中にベストセラー作家として社会的に成功を収めた結果、彼の虚像がメディアを通じて増幅され、社会がそれを好んで消費してきたのが問題の実態であろう。そういう意味では、乙武君も最近の日本社会で顕著になった浅薄な虚像の商品化傾向に踊らされた、ショーンKと同様の哀れなドン・キホーテの1人であったのかもしれない。

この点において、今回の乙武君「五股不倫」と彼の虚像崩壊の背後には、単に彼の人格傾向に問題を矮小化して非難を集中すべきではないような、社会心理学的な本質を含んでいるのではないかと筆者は感じたのである。

2016年3月30日水曜日

ドナルド・トランプ氏の日米同盟論(「暴論」)に関する感想

 アメリカ大統領選での共和党候補者選出のための予備選を現在有利に戦っているドナルド・トランプ候補が、日本の核武装を容認し、対北朝鮮外交でより攻撃的になってほしいと、3月29日に中西部ウィスコンシン州でのCNN主催の対話集会で述べたと報じられている。

 同時に、トランプ氏は、在日米軍の駐留経費負担(俗に言う「思いやり予算」を含む)を日本が大幅に増額しなければ、日米安全保障条約を見直して米軍を撤退させるべきという持論を改めて強調したとされる。

 トランプ氏の「暴言」とされるものは数多いが、そのうち、内政ではなく外交政策に関するものを列挙して見ると、同盟国に対する駐留米軍に関する経費増額要求の他にも、例えば、TPPをぶち壊す、シリアをロシアのプーチン大統領に任せる、メキシコ国境にメキシコ政府の負担で壁を構築して不法移民の入国を妨げる、不法移民たちの強制送還、イスラーム教徒(ムスリム)の入国禁止、IS支配地域に対する戦術核兵器使用の可能性を示唆、そしてテロ容疑者に対する水責めなどの尋問(拷問)手段を採用することの提唱といったところだろうか。

 筆者も米国内の(民主党、共和党を問わず)現実主義者たちが評価しているように、トランプ氏のこうした「暴言」は、外交政策としても安全保障政策としても極めて稚拙でナイーブ、かつ、実現性に乏しい支離滅裂なものであると非常に感じる。特にトランプ氏が核戦略と抑止論に全く精通していないことは、日本が北朝鮮に対抗するために核武装することを容認している一方で、対IS作戦における戦術核兵器の使用をほのめかしていることからも明らかだろう。

こうした彼の一連の発言から考えると、果たして非対称勢力であるISに対する核兵器の使用が軍事的に効果を持つかどうか、IS支配下に置かれたシリアとイラクの一般住民に与える付随的損害の大きさについても、トランプ氏がまともに考えた上で発言しているとは誰でも到底思えないだろう。

彼は恐らく、我が国の非核三原則やNPT加盟の事実すら正確に認識していない可能性が大きい。それをわかっていた上で暴言を述べているとすれば、彼は本当のデマゴーグ(大衆扇動家)だろう。アメリカ社会の深刻な分断状況と政治不信、中間層以下の国民の既得権益(エスタブリッシュメント)への不平・不満の増大が、ある意味アドルフ・ヒトラー級の大衆扇動家への米国内での支持率を高めているとすれば、太平洋を挟んだ東アジアの親米同盟国である我が国も、事態の危うさを今から真剣に考察しておく必要があるだろう。

筆者の見立てでは、トランプ氏が予備選をこのまま勝ち抜いて共和党の大統領候補者に選出され、民主党大統領候補に選出されると思われるヒラリー・クリントンを打ち負かして実際に来年1月にアメリカ大統領に就任する可能性が、約30から40%くらいはあるように思えるからだ。ヒラリーさんは既得権益の代表選手のように国民の目から見える上に、国務長官時代の私用メール・アドレス使用問題など、数々のスキャンダルを抱えているからである。

一言で言えば、トランプが「傲慢な馬鹿」といったイメージを米国民から持たれているとすれば、対するヒラリーは「信頼できない嘘つき」といった、これまた負のイメージを持たれているのではないだろうか。選挙資金調達の面では、既得権益との癒着が無く、クリーンなイメージのトランプの方が大統領選に勝ってしまう可能性も、我々日本人は十分に想定しておかなければならないだろう。

これに対して、ヒラリーが自分の国務長官時代に推進したTPPに反対する姿勢を唐突に表明したのは、関税の撤廃や低減に反対する労働組合AFL-CIO(アメリカ労働総同盟・産業別組合会議)からの支持を獲得するために選挙戦略的に擦り寄ったからだろう。AFL-CIOは、TPPに賛成する候補者への政治資金の供給を停止する恐れがあるためだ。

 トランプ氏の外交政策を評価すれば、伝統的な孤立主義の思想に連なるものと言えるだろう。だが、アメリカが建国後間もなくの大国になる以前の19世紀ならばいざ知らず、冷戦終結後唯一の超大国として存続している21世紀の現代に、南北両アメリカ大陸とカリブ海の覇権の維持だけにアメリカが閉じこもってしまった場合の国際安全保障上の悪影響は極めて大きい。

特に激烈な紛争の持続している中東ではアメリカ新孤立主義化の悪影響が顕著で、ロシアやイラン、ISの様な国家と非国家主体が混在した多様な現状変更勢力がアメリカの現状維持への不介入姿勢に付け込んで、さらに勢力を拡大しようと試みるだろう。その結果、イランやサウジアラビア、トルコ、エジプトなど域内大国での核拡散が促進される危険性が強まりかねない。OPECのカルテルはイランとサウジアラビアの対立から生産調整が不可能になり、大輸出国であるロシアも巻き込んで原油価格の低迷が続き、各国の財政状況をさらに悪化させることにもなる。

 欧州では中東での紛争継続の結果、難民と移民の流入が今年も加速するだろう。シェンゲン協定が2016年中にも事実上機能しなくなって、欧州の経済再建に大きな妨げとなる可能性がある。キャメロン首相が是非を問う国民投票を年内に行うとした、英国のEU離脱「ブレグジット(Brexit)」は否決される公算が強いものの、EUの難民・移民政策を主導するドイツのメルケル首相は受け入れ反対派の政治勢力の台頭によって、その地位を失うかもしれない。そうなれば、自由な移動と人権尊重のEUの根本理念が崩壊しかねない。

 また日本は、アメリカの新孤立主義化によって、約70年ぶりにアメリカの軍事力に依存しない単独の安全保障政策を立案しなければならない羽目に陥るだろう。そうなれば、まさしく戦後最大のパラダイム・チェンジを我が国は2017年に迎えることになるはずだ。

2016年3月17日木曜日

ショーンK氏の経歴詐称問題と報道番組でのコメンテーターの役割についての感想

 3月16日発売の『週刊文春』今週号に掲載された、最近の報道番組等でコメンテーターとしてよく見かけていたショーンK(「芸名」でショーン・マクアードル川上)氏の経歴詐称問題が、昨日来世間を騒がせている。その概要は、彼自身が個人ホームページで公表していた学歴、職歴その他の経歴のほぼ全てについて、俗に言う大きく「盛って」書かれていたというものである。

 筆者も実は、かなり以前に公共放送や民放のいくつかの報道番組で専門分野に関してコメントを求められた経験があるが、今回のケースに関連して一部で言われているようにコメントについて構成作家と相談して決めたといった事実は1回も無かった。担当のディレクターと事前に打ち合わせて、放送用の資料を用意してもらったという事くらいである。したがって、もし仮にショーンK氏が初めから用意されていた原稿通りに番組でコメントしていたとしたら、彼は専門家としての扱いではなく、単なるタレントに過ぎないと言えるだろう。

 そして、『文春』などに報じられている彼や所属事務所の釈明を聞く限り、彼自身は自分が1人のタレントであるに過ぎないことを自覚していた模様である。そうならそうと、初めからそういう立場でテレビに出演していればいいものを、経歴を恐らく故意に詐称して「国際派経営コンサルタント」としての肩書を宣伝していたことが問題なのであろう。

 ただし、コンサルタント業は医師や弁護士のように公的資格を必要としていないから、彼が経歴を詐称し、その偽りの肩書きを背景として仕事の範囲を広げ、実際に何らかの利益を得たとしても、例えば詐欺罪の様な犯罪の構成要件に該当することは無い。つまり、彼は社会を騙した倫理的な責任を負うに過ぎないわけである。

 そうした観点から、彼への社会的バッシングの過度の集中に対して異論を唱え、彼の行為を擁護する一部の「識者」の方々による反論がまたぞろ続出するわけだろう。理化学研究所研究員だったSTAP細胞研究不正問題の小保方晴子さんや、五輪エンブレムのデザイン・パクリ問題の佐野研二郎氏のケースとよく似た現象がまたぞろ起きたように筆者には感じられる。

 擁護論の代表的見解は、主として番組などで彼と共演した経験を持つ「識者」たちから出されている。例えば、脳科学者の茂木健一郎氏や、新潮社出版部長の中瀬ゆかりさん等だろう。彼ら彼女らが発する擁護論の言い分は、一言で要約すれば、ショーンK氏自身は人柄が良くて発言が的確であり、魅力と能力があるから学歴や肩書は関係ないといったところだろう。特に、ショーンK氏の物腰が柔らかく、低音ボイスで一見ハーフの好男子であることが評価されているという点では、彼を擁護する識者たちも番組で彼を起用したTV局担当者達も、大同小異の集団無責任の認識に陥っていると言えるのではないか。

 問題の本質は、局を代表するような報道番組でコメントすることが、本当の専門家でなくても務まるかどうか、またそうした専門家以外のタレントを起用しても良いかどうかという点にあると思う。報道番組では、最新のニュースと的確な解説を国民に提供することが本来の目的なのであり、それが国民の「知る権利」を充実させることに繋がり、ひいてはそれが政治権力の暴走を民主的に監視する最大の武器とならなければならないからである。

 こうした点において、新聞もそうだが、特に我が国の放送局では、欧米の主要メディアに比べて真実に迫ろうとする気迫と取材能力が不足していると思われてならない。日本のニュース番組は、筆者の視聴する限り、CNNや BBCのニュース番組と比較してもどれも似たり寄ったりの番組構成であるか、「エッジ」の効いていない退屈な解説を垂れ流しているに過ぎないものが大多数であると言える。多分、こうしたニュース番組を作っている人たちも、多忙で十分な取材が出来ないか、ひどい場合には下請けの番組制作会社に低価格で委託してしまっているのだろう。

 ショーンK氏のような単なる「タレント」を何の疑いもなく「専門家」として起用してしまった点でも判るとおり、日本のニュース番組の取材能力の欠落と信頼性の欠如が図らずも露呈してしまったことこそが、今回の問題の背後に潜んだ最も重大な反省点であるはずだ。ショーンK氏の過去の「実績」が次々とネット上から抹消されているようだが、そんな彼の個人的かつ微視的な問題が本質なのではない。報道番組の信頼性が喪失するという事は、日本の民主主義の根幹である国民の「知る権利」を揺るがせることに繋がりかねない深刻な危機なのである。

 茂木健一郎氏ら「識者」の方々には、彼らの「知人」(あるいは「同僚」か「同類」)であるショーンK氏の個人的かつ微視的な問題に優れた思考力を囚われることなく、物事の本質をもっと良く認識した上で慎重な発言をすべきではないだろうか。報道番組でコメントする「専門家」は、朝のバラエティー番組でコメントする「タレント」とは、国民の「知る権利」に対する向き合い方において、その責任の大きさの度合いが遥かに異なっているのだから。筆者は、専門家としてかつて報道番組でコメントした経験を持つ者の1人として、ショーンK氏の今回の経歴詐称問題を受けて身につまされてそう感じたのである。

 だがその一方で、ショーンK氏を今回の失敗だけで社会から完全に抹殺してしまうのには筆者は反対である。彼は、本質的にニュース解説をすべき「専門家」などではなく、テレビ「タレント」なのである。つまり、今後ショーンK氏は、1人の「タレント」としてご自身の天分のある芸能活動に専念すればよいのではないだろうか。

2016年3月11日金曜日

イラク、ハイダル・アバーディ(Haider Al-Abadi)首相への政権交代と政策変更

2014年7月24日、イラク国民議会は、憲法草案起草を手伝ったPUK古参政治家であったフアード・マアスーム博士(Dr. Fuad Ma'soum)を新大統領に選出した。そのマアスーム大統領が、8月11日、議会のシーア派会派である国民連合内部127人の同意を得て、いわばダアワ党によるマーリキー排除のクーデター成功という形を取って既に国民議会副議長の1人に就任していたシーア派ダアワ党副書記長のハイダル・アバーディ(Haider Al-Abadi)を新首相候補に指名して組閣を命じた。

9月8日、国民議会は閣僚名簿を承認し、アバーディ政権が正式に発足した。これで2006年5月の首相就任以来2期8年間政権を掌握したマーリキー首相は退陣に追い込まれ、新たにアバーディ現政権がイラクに誕生したのである。

アバーディ政権の当初の政治目標は、第1にマーリキー政権時代に拡大したスンナ派とシーア派との宗派間の政治的亀裂を埋めること、第2に官僚組織の腐敗と汚職を無くすこと、そして第3にISとの戦闘で弱さを露呈したイラク軍と治安部隊を再建することであった。

だが、より本質的には、スンナ派の反乱(insurgency)を引き起こし、国内を「万人の万人に対する闘争」に近い安全保障のジレンマ状態に陥らせた失敗国家の弱い中央政府が国民の信認を回復するために必要な、公共サービス、例えば、しばしば断絶する電力や水道、運輸等の基礎的インフラを整備し国民に対して確実に供給することが新政権の最も重要な課題であった。

第1の課題については、アバーディ政権は2015年2月、イラク戦争後の占領時代に制定された脱バアス党法(de-Baathification laws)、正確には2008年2月に旧法に代って制定された問責・公正法を緩めて、旧バース党員の公職復帰を一層促進しようと試みた。

だが、イラクの現在の政治状況下では、脱バアス党政策と宗派対立を超克するための国民和解政策に関して、各政治勢力間でどの程度旧バアス党員を排除すべきか、あるいは取り込むべきか、その線引きについて激しい対立があるため、逆に中央政府が国民和解政策を推進することが各政治集団の勢力拡大に恣意的に利用されてしまう結果を招き、この政策がかえって政治的亀裂の拡大を促進してしまう効果を持っていると言える。

次に第2の課題については、まず、2014年11月、アバーディは登録された約5万人の軍・治安部隊要員が実際には任務を遂行していないことを公表した。しかし、アバーディ政権誕生後の注目すべき政治改革案は、2015年夏の最高気温50度を超える酷暑と停電頻発によって各地で起きた、行政に対する国民の抗議デモに対する一種の懐柔策として同年8月11日に発せられた。実はこの時も、シスターニ師が8月7日に汚職対策を含む改革案を政府に求めたことが改革案提示の直接のきっかけとなっていた。

この時の改革案は、アバーディ政権発足時に挙国一致体制を作るために宗派・民族間で有力政治家たちに配分された各3人の副大統領職および副首相職を同時に廃止すること、さらには汚職捜査の強化と省庁顧問や大臣職、政府高官警備要員の大幅削減による財政支出の削減、以後の宗派・民族に基づく政府ポスト割り当ての廃止といった、腐敗汚職の元凶とされた既得権益の打破と政治家のいわゆる「身を切る改革」を主たる内容に含んでいた。

これは2014年来の原油価格低迷による歳入の落ち込みとIS掃討のための戦費膨張による財政赤字が、国際通貨基金(IMF)の試算では国内総生産比17%にも上るといったイラク政府の財政危機を乗り越える妥当な目的も伴っていた。

しかし、分極化したイラク国内政治の状況においては、先述したように、民族・宗派集団間の合意に基づいてポストを配分するクオータ・システムこそが、多極共存型民主主義を指向することによって国民和解を達成するための安定装置であったと言える。

したがって、この従来の政治慣行を壊してしまうことは、直ちに各勢力間の均衡を崩してさらなる分裂をもたらす危険があるし、また、アバーディ首相が述べたとおりの能力主義人事がすぐに達成できるはずも無い。

政府の思惑とは別に、かえってシーア派主導の不透明な人事と権益の配分が横行して、マーリキー前首相時代と同様なアバーディ首相とその仲間への権力集中が起きてしまう恐れもあるだろう。

実際、宗派横断型の民族主義政党ワタニーヤ連合を率いるアッラーウィー元暫定政権首相はアバーディ首相と同じシーア派に属しているものの、自らが副大統領職を解任されることもあって、首相の改革案を憲法違反であるとして批判したのである。他の野党勢力の多くも、実際にはこの改革案の実行を妨害しようとしていると考えることが可能だろう。

さて、ISの脅威に対抗し、イラクの領土保全と治安維持を強化する上でアバーディ首相にとって重要であるのが、第3の軍と治安部隊の再建問題である。この点に関して、アバーディ政権の対応は非常に危険なものであった。

その理由は、アバーディ政権がISとの戦闘を継続する中で軍・治安部隊の再建に効果を上げることが遅々として進まず、結局2014年6月10日のモースル陥落直後に再動員されたシーア派民兵に対IS掃討地上作戦の主力部隊の機能を委ねてしまったからである。

当初南下するISに対抗して首都北方のシーア派聖地サーマッラーを防衛するためにシーア派コミュニティから再動員された民兵組織は、サドル派のマフディー軍やバグダードの東部に位置するディヤーラー県を拠点とするバドル軍団など、既存組織が中心であった。

しかし、シーア派の一般市民からも多くの義勇兵が参加するようになると、2014年7月頃にはシーア派民兵組織が次第に緩やかな人民動員隊として統合されるようになった。問題は、指揮統制がばらばらで寄せ集めの戦力に過ぎない人民動員隊が、イランのイスラーム革命防衛隊から大きな支援を得ていることで、脆弱な中央政府や瓦解したイラク政府軍の力ではコントロールできない程強大な勢力となってしまった点であろう。

イラン・イスラーム革命防衛隊のイラクへの軍事介入は、ナジャフとカルバラーにあるシーア派聖廟を直接防衛するために2014年7月、革命防衛隊の特殊作戦軍であるコッズ部隊(Nīrū-ye Qods)が司令官ガーセム・ソレイマーニー(Qasem Soleimani)少将と共に派遣されて実際にサーマッラー防衛作戦を指揮したことに始まる。

それ以来、ソレイマーニー司令官は人民防衛隊やペシュメルガと協力し、武器や兵力、諜報面で対IS作戦の遂行を事実上主導している。その最も重要な成果が、2015年3月のティクリートのIS武装勢力からの解放作戦であった。

同作戦では、主力となった人民防衛隊の兵士たちによって、ISに協力したスンナ派住民に対する報復や略奪・放火が行われたとされる。また、バドル軍団が主力となってIS掃討作戦を成功させつつあったディヤーラー県でも解放区におけるシーア派民兵のスンナ派モスク襲撃事件が2014年夏に起きた。

こうした宗派間抗争を助長するシーア派民兵の活動の背景に、イラク国内での影響力を高めようとするイスラーム革命防衛隊コッズ部隊の支援があったことは十分に考えられるだろう。

人民防衛隊の関与した略奪と暴行に反発したスンナ派部族長と政治家が中心となって、対抗措置としてISと戦うスンナ派部族自警団である国民防衛隊が、2015年2月に公的に結成された。この構想自体は、2006年から2007年に激化した内戦を克服するために米軍によって結成された覚醒評議会がモデルとなっている。

2015年2月、アバーディ政権も国民統合を再強化する方策として同構想に賛同しており、各県から集めた義勇兵に加えて15万人規模の国民防衛隊を結成するのが当初の素案であった。部族軍結成に当たっては武器に加えて2万人分の給与の支給も準備されることが公表された。

だが、シーア派が多数を占める国民議会においてはスンナ派兵士に広範な武器供与を実施することに反対であり、依然として国民防衛隊の構想はなかなか進展していない。シーア派が主導するイラク中央政府としては、仇敵である旧バアス党勢力の復権やスンナ派地域政府の実力部隊に国民防衛隊が変じる危険性があることが、逆に国家の分断を促進することに繋がりかねないことを強く懸念しているのであろう。

このようなバグダード中央政府の意向を無視して、イラク軍の訓練に当たるためにアンバール県に駐屯している米軍特殊部隊は、イラク軍に加えて国民防衛隊の主力部隊となる部族兵士の訓練を強化している。また、約3千5百人のイラク駐留米軍の主たる任務はイラク治安部隊とペシュメルガの訓練と助言であるが、2016会計年度米国防授権法(FY2016 National Defense Authorization Act)の第1223条では、もしイラク政府が民族・宗派の少数派を統治および治安組織に十分統合することに失敗していると大統領が(議会に)報告した場合には、(バグダードの中央政府を介さず)直接ペシュメルガとスンナ派部族治安部隊に対して武器供与ができる権限を大統領に与えているのである。