2015年12月31日木曜日

イラク政府軍ラマーディー奪還に関する考察

 1228日には、先の投稿で分析した「慰安婦問題」最終合意のほかにもう1つ、イラク情勢に関して大きなニュースが入った。それは、イラク政府軍が518日にIS(イスラーム国)によって奪われた西部スンナ派居住地区アンバール県の県都ラマーディーを約7か月ぶりに奪還したことである。ラマーディーは首都バグダードの西方約110kmのユーフラテス川両岸にまたがる戦略的要衝であり、シリアとヨルダン両国に向かう道路の要の地点に位置している。

 しかも、今回の作戦には331日の北部ティクリート奪還の際に起きたようなシーア派民兵によるスンナ派住民に対する略奪、暴行は起きなかった。今回の政府軍のラマーディー奪還作戦では、IS拠点に対する空爆で政府軍の攻勢を支援したアメリカの圧力によって、シーア派民兵は動員されなかったためである。したがって、シーア派民兵に対して強い影響力を持つイランのイスラーム革命防衛隊の奪還作戦への関与も多分なかったのだろう。

 政府軍はシーア派民兵に代わって地元のスンナ派部族を支援戦力として活用したようであり、動員した兵力は1万人以上だったらしく、市内に残存していたIS戦闘員がわずか300人程度だったと言われているから、圧倒的な政府軍兵力が西方に迂回してユーフラテス川を渡河することをISが結局阻止できなかったというのが戦況の推移だったようである。

IS戦闘員約300人は、多くの塹壕とトンネルに籠って防衛線を張り、主として狙撃で政府軍を迎撃する作戦を選択した模様だ。また、住民を人間の盾とし、地雷や仕掛け爆弾を設置するとともに、自爆攻撃を相次いで敢行して政府軍の進撃を阻止しようとしたらしい。これは、市街戦において極めて有効な戦術を、兵力劣勢なIS側が採ったものであろう。

したがって、政府軍は極めて慎重に包囲網を縮小しながら、1222日の攻勢開始から約1週間の時間をかけて市街中心部に攻め込んだものと見られる。この双方の戦いぶりから見ると、その圧倒的な兵力差から考えても、依然としてISの戦闘力はさほど弱まってはいないようだ。

 結局、ラマーディーからのIS駆逐に効果的だったのは、有志連合軍による従来以上の激しい空爆の実施であったのだろう。ロシア空軍による民間人の付随的損害を配慮しない対価値無差別爆撃ほどではないにしろ、最近の有志連合軍の空爆も相当に強化されたカウンター・フォース爆撃となってきたからである。

 そのため、ISは都市部に分散して塹壕に立て籠る消極作戦しか選択できなくなっている公算が大きい。かつて1千人以上のIS戦闘員がいたラマーディーでの兵力減少度から考えると、イラク国内の一部都市からは撤収する作戦をISが採り始めたのかもしれない。とすれば、来年2016年のイラクでの対IS戦線における勝敗の行方は、北部の主要都市モースルを政府軍が奪還できるかどうかにかかってくるだろう。

 ISとしても、北部の要衝モースルを仮にイラク政府軍やクルド民兵のペシュメルガの攻勢によって奪還されるようなことになれば、もはやイラク国内にとどまって活動を続けることは非常に困難になる。したがって、ISはラマーディーとは異なってモースルについては、絶対にこれを死守しようとするはずだ。来年の決戦は、恐らくモースルの攻防戦になると筆者は考えている。

 もし、イラク政府軍が来年モースルを無事奪還することに成功すれば、もはやISの宣言した「カリフ国」は事実上シリア国内だけに封じ込められることになるだろう。その後は、アメリカ主導の有志連合は、トルコとエジプトへの対IS作戦での支援を重点的に強化すべきではないかと筆者は考える。

 なぜなら、ISのみならずアサド政権擁護のために反体制派全体を無差別に攻撃しているロシアの軍事介入が既成事実化している以上、直ちにシリア情勢を改善する手立てが見当たらないからである。結局、IS「カリフ国」を消滅させることに成功したとしても、シリアは地中海沿岸部のアサド政権支配地域と南北に分断された反体制派支配地域、そしてトルコ国境沿いに長く伸びたクルド人自治区に三分割するしか妥当な解決策はないだろう。

 ロシアのシリア内戦介入は、直接的には自国のイスラーム過激派の活動を予防的に抑えることを第一の目的としているのかもしれない。だが、地政学的には、クリミア半島のセヴァストポリ軍港を基地とする黒海艦隊の唯一の地中海への進出(補給)拠点であるタルトゥース港の施設を確保する目的も重要だろう。

シリア内戦への介入をめぐってクリミアとウクライナ問題での欧米との対立を棚上げする目的がプーチン大統領にあるとすれば、セバストポリ軍港を失うことがロシアの黒海における制海権をNATO加盟国であるトルコに奪われることを同時に意味していることにもっと注目すべきだろう。NATO加盟国が東方にどんどん拡大している現状を阻止するためにも、ロシアとしてはセバストポリ軍港を有するクリミア半島を併合してしまう必要があるだろうし、その延長線上にタルトゥース軍港を持つシリアに軍事介入して自国の権益を確保する必要があったのかもしれないからだ。

 そこで、欧米としてはユーラシアのハートランドであるロシアのこれ以上の権益拡張を阻止するためにも、地政学上リムランドであり、かつ橋頭堡国家でもあるトルコ(重要な基地があり、ボスポラス海峡というチョークポイントがある)とエジプト(スエズ運河がある)をISの脅威から重点的に守るとともに、様々な内政上の問題を抱えるこの両国の体制を当面強化することを通じて、ロシアのシリア進出を牽制していく必要があるのではないだろうか。

*筆者は1月5日まで正月休みに入りますので、その間は投稿を中断します。

日韓「慰安婦問題」最終合意に関する地政学的考察

 1228日、日韓両国間のいわゆる歴史認識問題をめぐる争点の1つであった「慰安婦問題」について、両国の外相会談で最終的かつ不可逆的に解決する旨の合意に達したという報道がなされた。


その内容は、日本側が旧軍の関与を認めて首相が謝罪し、韓国側が設立する元慰安婦支援基金に対して10億円を拠出することで、事実上の補償を行う。これに対して、韓国側は北朝鮮系の反日市民団体である韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)が在韓日本国大使館前に設置した慰安婦少女像を撤去するとともに、慰安婦に対する補償問題を今後蒸し返さないということである。

 国内外の主要メディアではこの日韓「最終合意」について、「歴史的」であるとか「画期的」であると論評するものも多い。筆者から見れば、今年の「歴史的合意」といえば、714日にE3/EU+3(米英仏独露中とEU)とイランとの間でイラン核開発問題を最終的に解決するために結ばれたJCPOA、つまり「包括的共同行動計画」の合意が直ちに想起される。

だが、本当に年内に複数の「歴史的合意」が締結されたとすれば、2015年は、1月に湾岸戦争が起こり、7月にワルシャワ条約機構が解体し、そして12月にソ連邦が崩壊した1991年に匹敵するほどの後日驚嘆すべき1年であったということになるだろう。

 JCPOAについてはイランと鋭く対立するイスラエルのネタニヤフ首相が「歴史的過ち」であると論評したが、慰安婦問題最終合意についてもあるいは同様の論評ができるかもしれない。確かに今回の合意については日韓両国の従来の立場を維持しつつ、双方の利益を最大限に盛り込んだ内容となっている。

 例えば韓国側は、今回の合意で、1965年に締結された日韓請求権・経済協力協定で請求権問題を完全かつ最終的に解決したとする日本側から事実上の謝罪と補償を引き出すことに成功したし、日本側は韓国政府に大使館前慰安婦像撤去の努力義務(これが基金に対する日本政府の資金拠出の前提条件であるとして、今後韓国側に圧力をかけるだろう)を認めさせることに成功した。

 しかし、合意は何も文書化されていないし、双方の特に韓国側世論の動向次第では問題が再度蒸し返される恐れも否定できない。筆者の見るところ、韓国が中国と連携して国際社会に対して反日活動を続けているのは、慰安婦問題を含む歴史認識問題の点で中国と共通認識を持っているという情緒的問題よりも、むしろ韓国の逃れがたい地政学的位置によるものであると考える。

 ここで筆者が述べる地政学とは、英国のハルフォード・マッキンダーや米国のニコラス・スパイクマンが第二次世界大戦前に概念化した、アングロサクソン的なユーラシア内陸部(ハートランド)国家群と大陸縁辺部(リムランド)三日月地帯を挟んで島嶼海洋国家群との対立・相克関係を論じた一種の戦略的見方のことである。

 このユーラシア大陸を沖合から三日月状(アウター・クレッセント)に取り囲む島嶼海洋国家群には日英両国はもとより、アメリカ(南北米大陸)をも含んでいる。そして、ハートランドとは、背後に航行困難な北極海を置いているため、地理的必然として不凍港を求めて南下政策(拡張主義)をとらざるを得ないロシアのことを意味している。

 つまりアングロサクソン的地政学の視点に立てば、国際政治とはハートランドの大国ロシアのリムランドへの拡張政策を封じ込めようとして、英国や米国のような海洋国家群がリムランドの橋頭堡国家に対して基地と海軍のアクセスを確保しつつ、リムランド内部を支配下に置こうとする地域覇権国の台頭を阻止しようとする行動から導き出されることになる。

 19世紀のアフガニスタン等をめぐる英露間のグレートゲームや、冷戦期の米国のベトナム戦争やイラク戦争、その他の度重なった軍事介入はほとんどこの地政学的視点から説明できるだろう。そして、かつての朝鮮戦争もリムランドの橋頭堡国家南北朝鮮の支配権をめぐる内陸国家と海洋国家との間の争奪戦であった。

 注意すべき点は、今日既存の国際秩序に対する挑戦国と見なされている中国はロシアのようなハートランド国家ではなく、橋頭堡国家ではないがリムランド国家なのである。この点では、中国の地域覇権を目指す拡張主義的政策はかつての帝政あるいはナチス時代のドイツの東欧支配政策に極めて類似している。

 この見方が正しいとすれば、早晩アメリカは中国の地域覇権獲得を阻止するため、日豪など海洋国家群と連携して、また2度の世界大戦の経験を踏まえればハートランド国家ロシアとも連携して中国の勢力拡張を抑えようとするはずである。実際そうした動きは、最近観察されつつあると筆者は考える。

 世界大戦期のドイツの場合と中国のケースが異なるのは、中国が内陸に向かって勢力を拡張しようとするのではなく、むしろ南シナ海と東シナ海の海洋に向かって勢力圏を広げようとしていることであろう。そのため、海洋利権を重視する日米豪トライアングルとの対立が今後益々激化する危険性があると思われる。

 さて、その場合、朝鮮半島の橋頭堡国家である韓国は日米と中国の双方から強い圧力を受けることになるだろう。韓国にとっても対米同盟関係の維持は自国の生存にとって死活的価値を有しているといえるから、日米韓三国の連携を阻害しかねない歴史認識問題の早期解決を図れとアメリカから強い圧力を受けていることが予想される。

 安倍政権は、こうした韓国の弱い立場を利用して日本側が従来以上の一定の譲歩を示しつつ、歴史認識問題をめぐる韓国と中国との反日連携関係を分断しようと今回の合意に結びつけたのだろう。その意味では、中国の脅威をリムランドの橋頭堡国家であり、米中対立の最前線となりかねない緩衝地帯に位置している韓国よりも遥かに認識しにくい日本の優位な地政学的位置が、今回の日韓最終合意を生み出す要因となったともいえるだろう。

 ただ、韓国の弱い地政学的位置が、今後も中国と連携した歴史認識問題に関する反日行動を再燃させる蓋然性はかなりあると筆者は見ている。韓国政府が冷徹な地政学的戦略に基づいて日米中三国間のバランスを維持しようとしたとしても、情緒的な反日感情に流されやすい韓国内世論の「観衆費用」の大きさに引きずられて問題の蒸し返しを試みようとするかもしれない。この点だけは、日本政府も十分に考慮しておく必要があるだろう。

2015年12月18日金曜日

慶長20(1615)年大坂夏の陣における豊臣方の当初作戦に関する考察

 慶長191219日に締結された大坂冬の陣に関する徳川・豊臣双方の和睦合意の結果、よく知られているように大坂城の惣構と空堀は破却・埋め立てられ、二の丸、三の丸の水堀も埋め立てられて更地となり、太閤秀吉が築いた堅固な大坂城も全くの裸城にされてしまった。

 したがって、翌慶長20年に起きた夏の陣での東西再戦に当たって、大坂方はもはや前年の冬の陣の際に選択した籠城策を採れなくなり、野戦軍を城外に派遣して徳川勢を迎撃する作戦しか選択できなくなってしまった。

筆者が興味深く感じたのは、大久保彦左衛門の著書『三河物語』にあるように、大坂方が徳川勢の五畿内侵攻以前に、徳川方の補給地であった泉州堺のみならず、京都と奈良、さらに近江大津の三古都を焼き、瀬田川と宇治川の橋を焼き落として防衛線を張る作戦を実際に検討したらしいことである。このことは、利休七哲の1人で高名な茶人・文化人であった古田織部重然が豊臣方と内通して京放火を企てた嫌疑により、大坂落城後の611日に切腹を命じられた事実からも確かにあったと推定できるだろう。

 『三河物語』の記述によると、この大坂方の三都焼き討ち積極作戦案は大野主馬治房(大坂方の事実上の指揮官であった大野修理亮治長の次弟)と真田信繁、そして明石掃部全登らが提唱した作戦であったとされる。

 確かに真田左衛門佐信繁は前年冬の陣の際にも、籠城する前に宇治と瀬田に軍勢を進出させて、両河川を前に当てて防戦する積極策を提唱していたようであるから、籠城作戦がもはや不可能になった夏の陣に際して同じ積極策を再度主張したとも取ることができよう。

 結局、徳川家康が尾張名古屋城主の九男義直と浅野幸長息女との婚儀に出席するために44日に既に駿府を出発し、10日には名古屋城に到着していたため、419日には諸大名に対する大坂表への出陣を命じて迅速に畿内に進出できる態勢をとることができた。

 つまり、徳川方の進撃が早かったため、大坂方の三都焼き討ちと宇治瀬田防衛作戦は間に合わなくなったわけである。だが、もし徳川勢の出陣が当時遅延していた場合、大坂方ははるか遠方の近江にまで本当に進出して有効な防衛線を構築することが可能であったのだろうか。

 古来のわが国における戦史をひも解いてみても、瀬田川の最終防衛線を挟んで大海人皇子の反乱軍を迎え撃った壬申の乱での大友皇子の近江朝廷側や、治承寿永の乱の際に起きた木曽義仲勢の鎌倉勢迎撃、さらには承久の乱で後鳥羽上皇が派遣した京方の軍勢による鎌倉幕府軍迎撃の事例など、実際に瀬田川と宇治川に防衛体制を敷いた側が、比較的簡単に攻撃側に最終防衛ラインを突破されて脆くも崩れ去った事例は非常に多い。

 こうした過去の戦いでの防御の事例では、橋自体を焼き落とすことは余り無かったようであるが、橋板を外して敵が渡るのを困難にさせる作戦は多く採られたようである。だが、大坂夏の陣の際に検討された大坂方の当初作戦によると、大手側の瀬田川はもちろんのこと、搦め手に当たる宇治川でも橋を焼き落とす徹底策を取る心算であったようだ。

 こうなると、三都焼き討ちを含めて、現地住民の大坂方に対する反感は非常に激しくなったであろう。しかも、実際に大坂方が京都を焼き払うためには、まず二条城を攻撃して、当時所司代として現地に駐留していた板倉勝重を討ち取ってしまう必要があっただろう。

 徳川方のもう1つの畿内での拠点であった伏見城も同時に攻略しなければ、たとえ京都や奈良を焼き払うことに成功したとしても、宇治瀬田に進出した大坂方が自軍の背後を突かれる恐れがあるから、これにも成功しなければならない。当時大坂に残っていた豊臣勢の数を約5万人と見積もることにしても、その約半数は出陣しなければ三都焼き討ちと河川防衛作戦の成功は到底覚束なかったのではないだろうか。

 そうなると、作戦に失敗した場合のリスクは非常に大きく、恐らく大坂城南部の住吉や平野、あるいは阿倍野と天王寺近辺に徳川勢を引き付けて最終決戦に持ち込むその後実際に起きた展開は起こり得なかったかもしれないと、筆者は考える。

 夏の陣当時大坂に侵攻した徳川勢の構成は、大御所家康と将軍秀忠の率いた直属の旗本勢を除けば東国と五畿内の諸大名が率いる軍勢だけで、西国大名の軍勢は待機を命じられていた。そして、進撃路については、奈良を経て生駒山地東麓を南下して国分と藤井寺方面に抜ける大和口方面軍と、京都から淀川左岸を枚方経由で南下して平野方面に抜ける河内口方面軍とに分進する作戦を採った。

その結果、大坂方が実際に56日に実施した当初の迎撃作戦である道明寺合戦と八尾・若江合戦では、前者が大和口方面軍約3万人の徳川勢に対して山間を抜ける隘路で迎撃する作戦目的を持っていたし、後者は河内口方面軍約5万人の軍勢を河川堤防と湿地帯を利用して拘束することにより、敵軍の道明寺方面への進出を阻止する目的を持っていた。

 しかしながら、この遠方進出作戦はいずれも大坂方の兵力劣勢のために失敗に終わり、道明寺合戦では後藤又兵衛基次と薄田隼人正兼相が、八尾・若江合戦では木村長門守重成ら貴重な武将たちが戦死する大損害を被った。道明寺合戦では伊達政宗の軍勢の先鋒片倉重綱勢を真田信繁の軍勢が撃退して大坂方の敗軍の退路を開き、翌日の最終決戦を可能にしたものの、真田勢も信繁の長男大助幸昌が負傷するなど相当な損害を出して天王寺方面に撤退したようである。

 この例から考えても、宇治瀬田に軍勢を進出させる積極策は、兵力劣勢であった大坂方には極めてリスキーな作戦であったのではないだろうか。ただし、同じ兵力劣勢であったとしても、それまでの宇治瀬田防衛戦の事例とは異なって大坂方が鉄砲で武装していたことが戦況を変えた可能性はあるかもしれない。両河川の橋を焼き落とした上で、渡河してくる徳川勢の大軍を銃撃で阻止する作戦を真田信繁らは構想していたのかもしれない。

 確かにそれならば、あるいは防御側の大坂方が有利な状況を作ることが可能であったかもしれない。ただし筆者が思うに、その大前提として、大坂方が京都所司代を排除して二条城と御所を焼き払うことに成功した時点で、天皇(玉)の身柄を確保するとともに(伏見城をなるべく損傷の少ない状態で大坂方が攻略した後、同城に天皇を行幸させる案が最善策かと思う)、大軍である徳川勢が他の渡河地点に迂回することを阻止できるかどうかという点が、この積極策の成否を決めたのではないだろうか。

今年の中東安全保障環境についての錯綜した3つの見方に関する考察

現在の中東における安全保障秩序を規定した19165月のサイクス・ピコ協定から、99年を経過した2015年の年の瀬も迫って来た。来年516日には、第一次世界大戦敗戦後のオスマン帝国領土を分割する英仏露三国間の勢力圏を定め、現在迄にいたる中東での国境の線引きと近代主権国家体制を構築して、約1世紀間にわたって地域国際秩序を規定したその秘密協定からちょうど100周年を迎えることになる。

この点に関連して、筆者が専門とする中東情勢について2015年を概観すると、今年は本当に情勢が激変したカオスの1年であった。そうした中東情勢のカオスをもたらした原因について考える上で、専門家の間では概ね3つの見方があると思う。

まず、第一の見方は、長く続いた独裁体制を倒して当初は平和的な民主化への移行を目指した2010年末以降の「アラブの春」後の中東国家体制をめぐる安保環境が、サイクス・ピコ協定によって規定されたモダンな体制からついに乖離し溶解し始めたと見る、世紀単位でのポスト・ポスト・モダンな大激動と考える長期的な視点である。

この見方によれば、宗教的権威と政治権力に対する忠誠および支配服従関係が重層的に存在していたウェストファリア体制確立以前のヨーロッパのように、中東が「新しい中世」状態に回帰しつつあると見るのである。こうした見方のわが国での代表的論客は、東大の池内恵氏だろう。

彼の見方を筆者なりに解釈してみると、実態はともかくシリアとイラク両国にまたがる一定領域を実効支配しているIS(イスラーム国、むしろ筆者はDa'ishダーイシュと呼ぶ)が宣言した時代錯誤な「カリフ国」設立と、彼らの言う所の欧米と「背教者」が連合した「十字軍」に対する「ジハード」の遂行は、まさにこの「新しい中世」状態への回帰を指し示す事象ということになるだろう。

次に第二の見方は、冷戦終結(マルタ会談、198912月)とソ連崩壊(199112月)後の中期的な視点から中東の安保環境を考える見方である。この見方の代表的な日本の論客は、恐らく東大名誉教授の歴史学者である山内昌之先生ということになるだろうか。

この見方によると、シリアやイラク、リビアやイエメンなどで、アラブの春以後国内での政治権力や領土支配をめぐって連鎖的に起きた内戦状況は、冷戦時代の安定した米ソ二極構造が壊れてしまった結果、特にそれまでソ連の経済的、軍事的支援に依存していた反米諸国において、主として民族・宗教的な対立に起因する政治的暴力と政府に対する反乱の発生を封じ込めることができなくなった結果であると考えるのである。

したがって、この第二の見方は、冷戦期以来の国際システムの構造的なパワー配分を基本的な論拠としているから、近代主権国家体制を前提とした地域安保環境に関するモダンな視点を維持しているパラダイム(認識枠組み)であると言えるだろう。

そして、最後の第三の見方は、冷戦後唯一の超大国として国際公共財である安保秩序を提供してきたアメリカが、主としてイラク戦争失敗の後遺症による国内世論の「観衆費用」の増大を配慮しつつ中東への関与の度合いを決めざるを得なくなったことで、その介入コミットメントの信憑性が弱まったことを重視する、言わばポスト・モダンな見方である。

この見方は、自国が主導して地域紛争へ介入するアメリカの意図あるいは能力が弱まってきたために、一見するとアメリカの覇権が衰退したように見えることが、その安保秩序維持に関するコミットメントの信憑性に疑念をもたらし、中東における紛争多発の原因となっていると考える視点である。

この見方をやや中期的なスパンに延長して考えると、中東安保環境の現状を含め、世界全体で第二次世界大戦後の現状維持国として国際公共財を提供してきた超大国アメリカが現在衰退に向かいつつあり、同時に既存秩序に対する挑戦国としてゲームのルールを変更しようと意図する中国の様な大国が台頭して、世界が非常に危険な力の変遷期に差し掛かっていると考えることも可能なのである。

仮にこの敷衍された覇権移行のポスト・モダンな視点が妥当すると考えた場合には、早晩覇権交代のための大戦争(つまり第三次世界大戦)が、東アジアかあるいは中東での地域紛争を契機として勃発する蓋然性が高いと考えることもできることになる。

 以上述べた3つの中東安保環境に関する見方は、いずれも最近中東で起きた事象のある側面を巧妙に説明している。だが、これら3つのパラダイムは、興味深いと同時にいささか実証性の足りない素朴な歴史認識であると筆者は考える。その意味では、ISのアナクロニズムな「カリフ国」再建宣言と大同小異であるという、大きな問題点があると思う。

 筆者の考えでは、混沌とした現在の中東安保環境に関するパズルの実態を十分に解明するためには、より厳密なデータに基づく実証的な分析をもっと重視すべきだろう。

例えば、前記第一の長期的なポスト・ポスト・モダンの認識枠組に立つ視点は、既存の国境線を無視したISのテロ活動や民族・宗派間抗争の原因を、もっぱら中世の欧州社会になぞらえて理解しようとする見方であるが、問題の根源であるはずの民族性や宗教性は社会的に形成された集団共通のシンボルや神話、そして記憶の積み重ねによって構築されたものであることは今日常識である。したがって、よく考えると、民族性や宗教性それ自体が政治的暴力を引き起こすものでは決してないだろう。こうした「新しい中世」論に立ってしまうと、かえってISの主張する土俵にこちらから乗ってしまう危険があるのではないだろうか。

むしろ、これまでの中東国内政治での実態に立ち返ってみれば、政治指導者によってそうしたシンボル操作が戦闘員の動員手段として利用されてきたことこそ、内戦頻発の根本原因であったと思われる。

このことは、イラクの故サッダーム・フセイン大統領や、今日のISの所業を見ても明らかだろう。したがって、私見では、「新しい中世」状態に陥った宗派・民族間の対立と内戦の発生が直結するわけではない。筆者の見るところ、バース党独裁体制解体後のイラク中央政府の様な国内政治基盤がきわめて脆弱な失敗国家での治安維持能力の機能不全が、むしろ国内におけるアナーキー状態をもたらし、一般市民の間に典型的な「安全保障のジレンマ」を引き起こしているのが実態なのである。

つまり、中東安保秩序の現状を比喩的に述べるとすれば、国際政治学者ヘドリー・ブルがThe Anarchical Societyで提唱したような「新しい中世」状態に陥ったというよりも、トマス・ホッブズが『リヴァイアサン』で指摘したように、言い古された「万人の万人に対する闘争」の自然状態に陥ったという方が事象の本質をよくとらえていると筆者は考えるのである。

次に、第二の中期的・構造的な視点についても、冷戦終結とソ連崩壊のパワー配分の構造変化と内戦頻発とは、実証的なデータ分析からは実のところ必ずしも相関していないのである。ましてや両者の因果関係の存在については、明確な法則性を見出すことは恐らく困難だろう。

内戦による中東地域秩序の分断化自体は、まだ冷戦期であった60年代の脱植民地化運動の時代から、既に増えている実証データがある。1954年の民族解放戦線(FLN)の武装蜂起から62年の対仏独立まで続いたアルジェリア独立戦争を見ても、それは明らかだ。その意味において、やはり、脆弱な中央政府の統治困難というアナーキーな国内環境要因こそが、権力や領土をめぐる分断された集団間の無差別な政治暴力を伴う反乱(insurgency)を惹起する、主たる要因であったと考えるべきだろう。

最後に、冷戦後のポスト・モダン的なアメリカの介入コミットメント問題についてであるが、少なくとも軍事力および経済力の2つの点については、能力的にアメリカの地域紛争への介入が困難になったとされるデータは無いと思う。

例えば、今年4月にストックホルム国際平和研究所(SIPRI)が発表した 2014年の世界の軍事費動向に関するデータ(Trends in World military expenditure, 2014)の内容によれば、同年の世界全体における軍事費総額17760億米ドル中、イラク戦争後の国防予算強制削減が続いているアメリカが6100億ドルの軍事支出を計上して、全体のシェア34%を占めて圧倒的な首位なのである。

この支出額は第二位中国の推定額2160億ドルの3倍近く、第三位ロシアの推定額845億ドルを遥かに上回っている。ちなみに、サウジアラビアは前年比17%増の軍事費約808億ドルで、ロシアに次ぐ第4位(GDP10%以上の支出)を占めている。

軍事力だけではない。アメリカは経済力の点で見ても、景気後退が著しい中国に比べてFRBのジャネット・イエレン議長が1216日の会見で明らかにしたように、年内利上げによる金融引き締めを宣言した程の好調を維持しており、世界経済を牽引している。

しかも、シェール革命の結果としてアメリカの原油生産は急増しており、1215日に議会与野党が合意したとおり、第一次石油危機後の1975年以来続いた原油の輸出禁止を解除する方向である。したがって、アメリカはもはや日本や中国のように、ペルシャ湾岸産油国に自国のエネルギー安全保障を依存する必要すらない立場なのである。

こういう点を考えれば、軍事力においても経済力においても、アメリカが衰退しているという事実は全く根拠が無いと言えるだろう。

筆者の考えでは、アメリカの紛争への介入コミットメントの信憑性が弱まったのは能力の問題ではなく、イラク戦争の後遺症による国内世論を考慮した介入意図の弱体化によるものだろう。

しかし、いわゆる「同盟のジレンマ」を指摘するまでもなく、シリア内戦への介入の様な有事の場合に有志連合が組織されるのは、同盟による公式コミットメントが軍事介入に際してそもそも不要であるという理由からなのである。

つまり、アメリカの拡大抑止のコミットメントの信憑性は、公的同盟関係の存否などではなく、むしろ地域同盟国との取引、換言すれば双方の共通利益と費用分担の対称性によってその結果が決まるものである。その意味で、第三の短期的なポスト・モダンな視点についても、アメリカの覇権衰退論に筆者は賛同しないわけである。

2015年12月11日金曜日

慶長19(1614)年 真田丸の戦いに関する考察(追加その2)

真田丸の戦いを考える上で従来納得できなかった点の1つは、慶長19124日早朝に前田勢が攻め寄せて合戦の発端となった篠山の位置についてであった。これに関して平山優氏の著書『真田信繁―幸村と呼ばれた男の真実』では、合戦当日早朝に前田勢が攻撃を仕掛けた篠山は、当時小橋村を中心に布陣していた前田勢の前面に存在しており真田出丸全体を含む丘陵地に隣接して大坂方が防御柵を敷設していた、「伯母瀬(の柵)山」が恐らく該当するのではないかという考察がなされている。

実はもう1つ、真田丸の戦いを考える上で筆者の腑に落ちなかった点がある。それは、真田丸に立て籠もって124日の徳川勢の攻勢を撃退した真田左衛門佐信繁が率いた軍勢の構成についてである。通説によると、信繁は関ヶ原の戦い時点まで大名身分を持っておらず、したがって、沼田城主であった兄伊豆守信之(関ヶ原の合戦前は信幸)と違って独自の所領と家臣を持たない、言わば父安房守昌幸の部屋住の次男坊であったと考えられてきた。

 ところが、平山氏の著書第二章9497頁の考察によると、天正182月の小田原出兵時に際しての真田家に対する豊臣秀吉の軍役賦課基準(百石につき5人役で合計3千人)から計算すると、仮に昌幸の知行した信州小県郡上田領38千石と信之の知行した上州吾妻郡8千石の合計46千石では23百人の軍勢動員数にしかならず、実際の真田家の動員兵力から7百人も足りないことになってしまうという。そして、その不足分に該当する知行高14千石こそ、信繁の知行分に該当するのではないかというのである。

 確かに、信繁の官途名である左衛門佐は兄信之の受領名である伊豆守と同じく単なる僭称ではなく、秀吉の推挙によって文禄31594)年112日付で朝廷から叙爵(従五位下叙位)と同時に任官された正式の官位であって、これは兄信之の叙爵・伊豆守任官と同日のことであり、同時に信繁は秀吉から伏見城下に屋敷を拝領して豊臣姓を下賜されている。

 つまり、真田兄弟は当時全く身分的に同格であったのであり、これは兄信幸が徳川四天王の本多中務大輔忠勝の女婿であったのに対して、弟信繁が豊臣家奉行の大谷刑部少輔吉継の女婿であったことを考えても頷けるだろう。とするならば、信繁も兄と同様に1万石以上の大名身分であったことが容易に想像できる。

 もし信繁が関ヶ原の戦い以前に大名身分であったとしたならば、父昌幸とともに改易されて紀州高野山に配流されるまでは恐らく昌幸の家臣団とは別に数百人規模の直臣たちを抱えていたはずであるから、大坂入城に当たって信州から旧臣たちを呼び寄せたことは間違いないだろう。彼らが真田丸に籠城した真田勢の中核部分を成したと考えたならば、俗に言われるような真田丸5千人の将兵が諸国牢人寄せ集めの烏合の衆であったという認識は改めなければならず、それ相応の精鋭部隊であったとも考えられるだろう。

 逆に言えば、真田丸に相対した徳川方の加賀・前田利常(利家四男)と彦根・井伊直孝(直政次男)、越前・松平忠直(秀康長男)はいずれも大坂冬の陣が初陣で実戦経験皆無であったから、勇将であった彼らの父たちの様な采配を戦場で振るうことは端から期待できなかっただろう。その意味では信繁を含む大坂方の方が大将分の能力という点では遥かに優位にあったと思われる。これが真田丸の戦いで、徳川勢が脆くも敗退した最大要因であったのではないだろうか。

 実際に残された記録によれば、合戦当日早朝の篠山奪取後に大将利常の下知も無いまま、小姓や馬廻達の抜け駆けでなし崩し的に前田勢の真田丸攻撃が開始され、それに釣られた隣の井伊勢と越前勢が鉄砲除けの竹束も用意せずに競って惣構と真田丸の空堀に侵入して柵を撤去し始めたため、敵の接近に気付いた大坂方による午後3時頃まで続いた激しい銃撃に曝された結果、各軍勢とも数百人以上の名のある武士達と多くの雑兵らの死傷者を出す大損害を被ったようだ。

 徳川勢第二の敗因は、大坂城惣構から東南部湿地帯に突出した真田丸の、巧妙な横矢掛り可能な配置にあるのであろう。言うまでもなく、右利きの多い将兵たちは右頬に鉄砲を当て、また右腋に槍を抱えて攻城戦に向かうことになる。その場合、たとえ仕寄せを完成して十分な竹束を前面に押し立てて惣構の城柵に接近したとしても、徳川勢攻撃部隊の右前方に位置していた真田丸からの銃撃には、極めて脆弱な側面を曝してしまう危険が大きかっただろう。

 しかも、124日の真田丸の戦い当日時点では、記録によると肝心の仕寄せ(塹壕)の構築は未だ完成しておらず、そもそも高台にあった真田丸前面は前述のとおり「一騎打之通」(平山、195頁)しかない湿地帯が広がっていたため仕寄せの構築が困難であった。

 その上、一部前田勢の抜け駆けに触発された実戦経験皆無の大将達に率いられた大軍が、十分な竹束の防弾楯も用意せずに、一斉に殺到して空堀に落ち込んだのであるから、大坂方の激しい銃撃に対して為すすべもなく大損害を被ってしまったことは当然であっただろう。

 仮に野戦であれば、古代ギリシャやマケドニア時代の重装歩兵のファランクス(密集方陣)の様な隊形をとり、右翼に精鋭部隊を配置して敵と交戦する戦術も出来ただろうが、平地の少ない日本では歩兵部隊の完全な密集隊形が衝突する会戦はついに出現しなかったし、いわゆる「左上右下」の配置が古来の伝統であったためか、筆者の管見の限りでは、野戦においても攻撃側が最精鋭部隊(先鋒)を左翼に置くのが日本の主たる戦術であったように思われる。

 例えば、桶狭間の戦い(今川勢左翼は松平元康)、姉川の戦い(織田・徳川勢左翼は徳川家康)、長篠の戦い(武田勢左翼は山縣昌景)、長久手の戦い(徳川勢左翼は井伊直政)、そして関ヶ原の戦い(東軍左翼は福島正則)など、左翼重視の陣形が非常に多いように感じる。

 その理由は、防御力を重視して右翼に精鋭部隊を置いた西洋式戦術とは逆に、日本ではむしろ攻撃重視で左翼に精鋭を配置し、将兵が右側面に武器を保持する結果、右前方からの攻撃に脆弱な敵の右翼を粉砕・突破する戦術が武将たちに好まれたためではないだろうか。

 同様の発想で、右翼に精鋭部隊を配置する防御的な西洋伝統の戦術を逆手にとって左翼に打撃力を集中して大勝利を導いたのが、紀元前371年に起きたレウクトラの戦いだろう。この戦いでは、テーバイの名将エパメイノンダスが、ボイオティア同盟軍を率いて左翼に重装歩兵の戦力を集中する斜線陣を敷き、伝統戦術に固執して右翼にラケダイモン(スパルタ)の精鋭部隊を配置して交戦したペロポネソス同盟軍を撃破した。

 西洋古代のファランクス戦術では、右手に長槍を保持した右隣の兵士が左手で持つ楯が左隣の兵士の右側面を防護する役割を担っていたため、戦列の最右翼に位置する兵士は自分の右側がほとんど防御されていないため、最も勇敢な者でなければ勤まらないと考えられていた。

だが、それでも敵の右前方からの攻撃を恐れるあまり、右側に戦列を伸ばそうと右へ向かう圧力が陣形全体に強まってしまうために、相対した両軍とも右翼の戦列が右側にどんどん伸びてしまった欠点があったと言われている。

 慶長19124日の真田丸の戦い当日も、前田勢の左側に位置していた井伊勢と越前松平勢の将兵たちは、恐らく真田丸が位置していた右側面からの銃撃を恐れるあまり、古代ギリシャのファランクスが互いに右翼側に伸びてしまう欠点を持っていたのと同様の理由によって、右翼の真田丸側に戦線を必要以上に延ばしてしまったのではないだろうか。

 その結果、合戦当日に真田丸正面からの攻撃を担当した加賀前田勢の戦列に井伊勢や越前松平勢が不用意に入り込んでしまったことが、徳川勢全体の戦線を一層混乱させることに結び付いたために、想定外の大損害を徳川方にもたらしたのではないかと筆者は考える。

2015年12月9日水曜日

慶長19(1614)年 真田丸の戦いに関する考察(追加)

 今年722日の投稿で、筆者は城郭考古学者の千田嘉博・奈良大学学長による真田丸に関する最近の学説(惣構外の要害に出張った死地布陣説)を紹介した。ところが1025日に、来年のNHK大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当する山梨県立中央高校教諭の平山優氏によって、角川選書から『真田信繁―幸村と呼ばれた男の真実』という本が刊行された。

同書の第五章と第六章は、真田丸に関してその実像と大坂冬の陣における慶長19124日の戦いについて非常に詳細な考察が加えられており、戦史マニアである筆者にとっても大いに参考になった。そこで、今日は平山氏の学説について筆者の感想を述べてみたい。

 まず、平山氏が真田丸考察に際して依拠する資料は主として3種類あり、まず1つは千田氏と同じ『浅野文庫諸国古城之図』の「摂津真田丸」である。第2は江戸時代から大正2年にかけて描かれた真田丸跡周辺の絵図面であり、そして第3は、これが氏の独特なのであるが、(文献)資料として永青文庫蔵「大阪真田丸加賀衆挿ル様子」(以下、「加賀衆」と略す)が専ら依拠されている。そして、この第3の「加賀衆」に関する平山氏の考察が、筆者には大変興味深いものであった。

 まず、真田丸が置かれた位置であるが、筆者と同様に平山氏も現在大坂明星学園の敷地がある上町台地東部の丘陵地であったと結論付けている。特に興味深かったのが、この出丸周辺エリアが上町台地に接続する西部を除いて東部と南部が一面の湿地帯で、寄手であった徳川勢による接近目的の塹壕(仕寄せ)構築が困難であったことである。

 そして、真田丸背後の惣構堀は、八丁目口辺りまで東側から台地に入り組んだ清水谷の自然地形を利用して堰き止めた水掘りであったらしく、真田丸南部にも味原池がある他、出丸南部の空堀の一部にも湧水を利用した池(すなわち水堀)があって、真田丸本体(現在の明星学園敷地)とその東部に連結していた宰相山に続く丘陵地を分断する一種の堀切の役割を果たしていたという点である。

 しかも、真田丸は堀の外部を取り囲むように宰相山を含む丘陵地を取り込んで三重の柵(土塁に面する堀際と堀の底、そして堀の外部)が構築されていたようであり、例えば加賀前田利常の軍勢が布陣していた小橋村付近からは相当高台に位置していたようなのである。しかも、小橋村付近は前述のように一面の湿地帯であったというから、これでは徳川方の真田丸攻撃は著しく困難を極めたことであろう。

 平山氏によると出丸の規模についても、南北220m×東西140m説と、堀幅を除いて南北270m余×東西280m説が対立しているとのことであるが、前者の説は空堀と南部の池に囲繞された丸馬出型の真田丸本体(つまり、昔の真田山が在った今の明星学園敷地)だけを示したものであり、これに対して後者の説は、出丸本体東部に隣接した宰相山や西部の八丁目口方面に続く丘陵地を取り込んだ五角形のエリア全体を出丸の縄張りと見なしたものであると考えれば、説明に整合性があって納得できるであろう。

 なお、池を含む真田丸南側の堀は、現在の高津高校北側の段差が恐らくそれに相当する模様なのである。

 また、当時の真田丸の戦いを考える上で従来どうもすっきり納得できなかったのが、真田勢が前田勢の陣地構築を銃撃で妨害したため、慶長19124日早朝に前田勢が攻め寄せて合戦の発端となった篠山が一体どこにあったのかという点であるが、これについても平山氏の考察は非常に興味深かった。

つまり、合戦当時の篠山は味原池南にあった笹山のことではなく、真田山と宰相山を含む惣構東南部に位置していた平野口南部の丘陵地全体を呼称したものでないかというのである。そして、合戦当日早朝に前田勢が攻撃を仕掛けた篠山は、この真田出丸全体を含む丘陵地に隣接して小橋村に布陣していた前田勢の前面に存在していて大坂方が柵を敷設していた「伯母瀬(の柵)山」が恐らくそれに該当するのではないかというのである。

 確かに平山氏のこの考え方によれば、従来の笹山が真田丸から出張るには味原池を挟んでいたため出丸からの援護が困難であったことの不審な点を説得力を持って克服することが出来るし、何しろ小橋村付近の前田勢の陣地前面に篠山が位置していたことに他ならないことになるから、出丸から出張した真田勢がサボタージュ(妨害工作)の銃撃を行うには格好の地点であっただろう。筆者はこの考察に賛同する。

 なお、平山氏によると、真田出丸は堀で囲まれた本体内部の北端に、本体と幅八間(約1.8m×8=14.4m)の堀で仕切られた小曲輪があったという点では千田氏が依拠した「摂津真田丸」の考察を受け継いでいるから、氏によると真田丸は小曲輪-出丸本体-丘陵全体を柵で囲む外郭部の極めて堅固な三重構造になっていたことになる。

 そして、真田出丸に構築された矢倉下と前田勢の陣地との歩測による距離の計測結果が180歩であったとされ、旧日本陸軍の10.75mで積算すると両者の間に大体約135mの離隔があったと想定される点(同書、217頁)も筆者には大変面白い考察であった。


 確かに、当時の火縄銃(マスケット)の有効射程距離を考慮すれば、前田勢はこの程度真田丸から離れて布陣せざるを得なかったと考えられるからである。

2015年12月4日金曜日

日米同盟の対称化(コミットメント強化)政策に対する反論として、安全保障のジレンマと同盟のジレンマを持ち出すことの理論的問題について(本論)

 さて、昨日筆者が投稿した『文藝春秋オピニオン2016年の論点100』での日本の集団的自衛権行使に関する柳澤協二氏の論説への反論について、筆者の見解を今日は述べてみよう。

再度柳澤氏の論点を要約すると、集団的自衛権行使による日米同盟の「対称化」努力は日米対中国の間に「安全保障のジレンマ」を引き起こし、東アジア地域の緊張を激化させかねない。また、最近のわが国周辺の戦略環境の激変の本質はアメリカの介入意図ではなく能力の欠落に起因するもので、日本本土の戦略環境はソ連が脅威であった冷戦時代と何ら変わりなく、戦略的な対象がソ連から中国に置き換わっただけである。よって、我が国周辺における紛争への対処は従来通りの個別的自衛権を行使することだけで十分足りるし、むしろ現状では、アメリカが「同盟のジレンマ」における尖閣問題等をめぐる日中対立に「巻き込まれる恐怖」を感じていると見るべきだという主張である。

なお、日米安全保障条約(1960年)第5条では、日本の施政下にある領域での日米両国の共同防衛義務だけが規定されているだけだから、確かにNATOと異なり防御同盟として日米同盟が非対称であることは間違いない。だが、次の第6条では米軍の日本国内での駐留権と地位協定に基づく法的地位(特権)の付与が日本側に義務付けられていることから、日米同盟は決して片務的な同盟関係ではない。

したがって、我が国が将来集団的自衛権を限定行使することによって日米同盟を「対称化」させることは可能であるが、同盟を「双務化」するという言葉は日米安保条約の解釈上正確ではない。そのため筆者はこの言葉を用いないのである。

 ここで、重要な論点は、まず第1に「安全保障のジレンマ」の定義を再確認することである。代表的なロバート・ジャービスの定義などによると、「安全保障のジレンマ」とは軍備増強や同盟形成等による自国の安全保障強化措置が、相互不信や先制攻撃の恐怖の連鎖反応を招くことによって、かえって他国の安全を減少させる状況を意味している。

このジレンマを引き起こす原因は、相手国の意図に対する相互不信と恐怖の連鎖とスパイラルである。そして、かかる相互不信は国際システムが無政府状態で合意の履行強制が個々の国家のコミットメント(約束の履行)問題に帰着することから生じ、また、恐怖は自助システムによる安全保障上の自己責任から生じるのである。

 ところが、このジレンマは本来防御的意図しか有しない現状維持国間で生じることから不本意な軍拡競争による緊張激化を引き起こす「ジレンマ」と言えるのであって、相手が現状維持国側に対する力の変遷を望んで均衡化を図ってくる挑戦国である場合には、現状維持国側がむしろ力の不均衡を増大させる能力増強競争を行って、挑戦国の勝算の期待値を引き下げることが戦争を引き起こさないための妥当な政策になるのである。

 そして、筆者の考えでは、現在の中国は東アジアにおける日米同盟に対する挑戦国と見なすのが妥当であるから、柳澤氏の主張するような「安全保障のジレンマ」は本来起こり得ないはずである。その場合に考慮されなければならないのは、あくまでも現状維持国側の能力増強による抑止の効果についてであって、日米サイドが能力増強を控えれば、却って中国の現状変更行動(既存秩序を支えているゲームのルールの変更)を認めるという、誤ったシグナルを相手に送ってしまう危険な安保政策となりかねないだろう。

 さらに最近の実証研究から言えば、安全保障のジレンマによって戦争が引き起こされるという因果関係には懐疑的な見方が有力で、当該ジレンマは単に双方の協力関係を阻害するに過ぎず、軍拡競争や戦争の原因とはならないとするモデルも提唱されている。仮にジレンマによって緊張が激化したとしても、信頼醸成措置(CBMs)などの安心供与を相手国に与える措置を講じれば十分で、これは同盟の能力及びコミットメントの強化による抑止力の向上とは全く別の論点なのである。

実際、日米対中国の間で安全保障のジレンマが生じていることを仮に認めたとしても、日中海空連絡メカニズムの構築等のCBM合意は徐々に進展しているのだから、柳澤氏の主張するような日米中間の緊張が必ずしも激化しているわけではないだろう。

 第2の論点は、「同盟のジレンマ」についてである。確かに柳澤氏の言うとおり、日本の様なジュニア・パートナーが集団的自衛権を行使してアメリカの軍事介入に協力するようになれば、理論上は「巻き込まれる恐怖」を避けながら、同盟強化によるアメリカのコミットメントの確実な履行を探って「見捨てられる恐怖」を払拭していく難しい安保政策の舵取りを今後強いられるようになるかもしれない。

 だが、同盟関係の維持管理とは、本来パートナー国のコミットメントの不確実性(不完備情報ゲームの性質)を和らげるためのバーゲニングが本質なのである。なぜなら、コミットメントの履行は決して自動的になされるものではなく、その信頼性はあくまでも有事の際の相手国の意思決定次第なのであり、また、同盟による抑止が成功するかどうかは、被抑止国側がコミットメントの信頼性についてどう認識するかにかかっているからである。

 したがって、アメリカの日本に対する拡大抑止を間違いなく履行させるためには、かつてトーマス・シェリングが指摘したようにコミットメントを供与しない「逃げ道」を塞ぐような「仕掛け線」(tripwire)、すなわち、米軍を事前に最前線付近に配備しておくことが重要なのである。実は沖縄への米海兵隊配備には、有事の際にアメリカを地域紛争に「巻き込む」ことを強要する、そうした「仕掛け線」の意味合いがあると筆者は考える。

 その点では、米海兵隊が沖縄に駐留している限り、一定の程度で日本の「見捨てられる恐怖」は弱められているのである。また、有事の際の緊急抑止に関して言えば、紛争の初期段階で戦場に到達できるような緊急展開能力の優勢を保つことが決定的に重要であるから、その意味でも沖縄に米海兵隊を配備しておくことによる「仕掛け線」の設置は、日本の安全保障にとって有意義であるだろう。柳澤氏以上に有名な安保問題の論客である孫崎享氏(元外務官僚)や森本敏氏(元防衛大臣)の言説は、このあたりの点に関して認識不足であると筆者は感じている。

 さらに、平時の一般抑止において被抑止国に対する同盟コミットメントの信頼性を強化するためには、被抑止国の戦争費用を引き上げて攻撃のインセンティヴを逆に引き下げるような、有効な抑止シグナルを相手に伝達する必要がある。

その意味において、同盟国が介入意思と能力を持つことに疑問の余地が無い位に高いコストとリスクを平時から負担しておくことが、有事における実際の便益(介入の有無)を度外視しても、私的情報であるコミットメントのシグナリング効果を増大させるはずである。

筆者が思うに、安倍政権が容認した限定的な集団的自衛権行使の本当の意義は、実はこのような被抑止国に対するシグナリング効果を強化することにあるということなのだ。柳澤氏たち行使容認反対派は、こうした側面を正確に理解してはいないのではないだろうか。

2015年12月3日木曜日

日米同盟の対称化(コミットメント強化)政策に対する反論として、「安全保障のジレンマ」と「同盟のジレンマ」を持ち出すことの理論的問題について(序論)

 毎年年末になると今年起きた国内外の出来事を纏め、いわゆる有識者たちが来年度を予想して論点を語るような(失礼ながら浅薄な)情勢整理本が書店に並ぶようになる。筆者も今日職場近くにある大型書店で、そうした本の1つである『文藝春秋オピニオン2016年の論点100』をざっと眺めてみた。今日はその中の国際情勢と安全保障問題に関する論説について、筆者の感想を述べてみたい。

 まず、筆者の良く知っている知人である池内恵氏と柳澤協二氏の論説が目に留まった。池内氏はイスラーム問題について有名な若手論客として活躍中だが、彼は昨年来のISの台頭でシリアとイラクが「新しい中世」状態に陥っており、よく言われるような中東では民主制ではなく独裁者でなければ統治できないという認識すらもはや成立せず、仮に独裁制に回帰したとしても現在の混沌から逃れることは出来ないだろうという認識を示していた。

 この池内氏の分析は、なかなか鋭い内容を含んでいる。というのは、中東の現在の国家体制と安全保障環境を規定した英仏(露)のサイクス・ピコ協定の打破をISがスローガンにして、カリフ国の樹立を昨年6月のイラク北部モースルの陥落後に宣言したこと、その後ISが欧米諸国その他からなる有志連合(彼らの言う「十字軍」)の攻撃を一手に引き受けて迎え撃っているという宣伝を流布していることが、昨年来、国際安全保障上の大問題となっている現実の本質的な側面を、非常に上手く表現しているからである。

 ただし、池内氏の述べた「新しい中世」という言葉は他人の受け売りだし、ISの活動による中東近代国家体制における国境線否定の現実が、必ずしもウェストファリア体制以前の中世欧州の様なローマ教皇と教会権力や神聖ローマ皇帝、国王や領主に対する忠誠と義務(換言すれば一定領域内での権威と権力)の錯綜関係への復帰を必ずしも意味してはいないのだから、ややオーバーに言い過ぎている嫌いはあるだろう。

 筆者が問題というか、認識不足で大変頓珍漢な議論であると思ったのは、柳澤氏による日本の集団的自衛権行使に反論する論説文の方である。断っておくが、筆者は2001年の911事件の頃から彼とは知人であり、その言説についても十分把握していると思うのだが、最近の彼は昨今の国際安全保障問題の本質を正確に理解しないまま、もっぱら安全保障担当の内閣官房副長官補まで務めた防衛官僚としての経験論に基づく、(筆者に言わせれば浅い)議論を繰り返しているように感じてならない。

 あくまでも『文藝春秋オピニオン2016年の論点100』での柳澤氏の論説から感じたことだけなのだが、要するに彼は、集団的自衛権行使による日米同盟の「対称化」(「双務化」という言葉は日米安保条約の解釈上正確ではない)努力が日米対中国の間に「安全保障のジレンマ」を引き起こして東アジア地域の緊張を激化させかねないし、最近のわが国周辺の戦略環境の激変の本質はアメリカの介入意図ではなく能力の欠落に起因するもので、日本本土の戦略環境はソ連が脅威であった冷戦時代と何ら変わりなく、戦略的な対象がソ連から中国に置き換わっただけである。そして、いわばアメリカが「同盟のジレンマ」における尖閣問題等をめぐる日中対立に「巻き込まれる恐怖」を感じていることだと主張しているのである(この認識はかなり疑問だ)。

これに対して安倍政権は「見捨てられる恐怖」を感じているから同盟の対称化を進めているのであって、柳澤氏の分析ではその本質は現行の国際秩序を維持しようとする意図の弱まったアメリカの対外介入に日本がどう協力するかという問題に過ぎないということらしい。したがって、集団的自衛権行使による日米同盟の対称化の結果、自衛隊は地球の裏側までアメリカの介入に協力させられる危険があるし、そもそも現状の日本周辺の紛争に対処するためには従来の個別的自衛権を行使することだけで十分なのだ、というのが防衛のプロであると自他ともに認める柳澤氏の現状認識なのである。

 はっきり言って、この柳澤氏の言説は国際政治学の理論的に見ても実証的に見ても浅薄で不正確な理解に基づく、非常に頓珍漢な安全保障論である、と筆者は考える。

 実はこの点について筆者の見解を述べたいのであるが、残念ながら今日は時間が足りない。そこで、当該問題に関する本論については明日の投稿で詳しく述べることにしたいと思う。

2015年12月2日水曜日

ロシアの対トルコ輸入禁止措置の経済制裁発動は、紛争の機会費用に関するリベラリズムの前提を覆す可能性がある。

ロシア政府は121日、Su-24M戦闘爆撃機撃墜の報復措置として、トルコに対する制裁のリストを公表したが、そのリストによると、農産品の他にも鶏肉や塩など計17品目の輸入を来年11日から禁止するということである。

ロシアはウクライナ問題をめぐる対立からEUからの農産品の輸入も制限しているため、今後の物価の上昇による市民生活への影響が懸念されていると報じられた(NNNニュース、122日)。また、地元メディアによると、ロシアからトルコに天然ガスを供給するパイプライン建設計画についても、「交渉が停止される」との話が伝えられているそうだ。

 国際政治学におけるリベラリズムの前提によると、経済相互依存下にある国家間関係においては、紛争の機会費用が高まるため、双方の関係悪化がもたらすコストの負担を考慮して紛争のエスカレーションが抑制され、その結果平和が保たれると考えられている。

 これはリベラリズムが、国益とはもっぱら国内アクターの選好に由来し、絶対利得、換言すれば経済的利益の最大化を国家が追求するはずであると考えていることを前提としている。すなわち、リベラリズムの前提では、国家間で絶対利得が求められるため双方の利益が合致することで協調がもたらされ、武力紛争の機会費用が考慮されてそれを回避することが国家間の共通利益になると楽観視されているからである。

 だが、今回のロシアの対トルコ経済制裁措置は明らかにロシアの絶対利得を減少させるものだろう。なぜなら、報道されているとおり、ロシアはトルコとの経済相互依存状態にあるからだ。したがって、ロシア政府がトルコからの物資の禁輸措置を選択することは、自ら自国に損となることを承知でトルコとの友好関係を毀損したことになる。

 両国間で経済相互依存が深まれば経済的損失が大きくなるために双方の紛争が抑止され、協調が維持されるとするリベラリズムの考え方はかなり疑問視されると言わざるを得ない。この事実が、今回のロシアの対トルコ制裁の発動を見ても明らかなのではないだろうか。

 筆者が思うに、現実主義の考え方である、A国の利得が直ちにB国の損失に結び付くとするゼロサム的な「相対利得」の追求が国際政治の前提であるため、国際協調は困難であるとする見方は国際関係を一面的に捉え過ぎている。

 だが、同様に国家が「絶対利得」を常に追求するため、他国との協調を重視し、紛争の機会費用を考慮して紛争のエスカレーションを回避するというリベラリズムの考え方も、甘すぎる一面的な見方であると言わざるを得ないだろう。

 問題の本質は利得の形態ではなく、その時に当事国の置かれた戦略環境による政策の選択肢の幅にあるのだろう。こうした視点に立てば、今回のロシア政府によるトルコへの禁輸制裁措置の発動に見られるように、自ら経済的な絶対利得を縮小しても安全保障上の相対利得の損失を最小限に抑えることを選択するという、一見損な政策を採ることも国際政治では有り得るということなのである。

 ロシアとしては、トルコのエルドアン大統領があくまでもロシア空軍機のトルコ領空侵犯の主張を取り下げず、現時点で一切の謝罪や金銭的賠償にも応じる気配を見せていないことから、有効な争点分割が出来ないためバーゲニングが不可能な状態に陥っているとも考えられる。

 ロシア側はあくまでもSu-24M機が領空侵犯をした事実は無かったと主張し、トルコ側はNATOの支援も受けてロシア機の自国領空侵犯を主張しているため、この争点を他の争点での譲歩と交換することが今のところ出来ないだろう。いわゆる争点のリンケージという、紛争当事者間における交渉上の知恵を働かせることが不可能な状況なのである。

 だが、分割不可能な争点のほとんどは両国の置かれた政治的文脈に規定されたものであって、決して物理的に争点分割が出来ないわけではない。特に今回の国家の領域主権に関わる領空侵犯の様な安全保障問題については、個々の紛争自体は取るに足らないような些細な行き違いに起因したものであっても、国内政治における「観衆費用」を高めて自国が容易に引き下がれないような状況を作り出すことによって相手の譲歩を引き出すバーゲニング・パワーを創出するためにも、トルコとしては安易な妥協を避けなければならないはずである。

 しかし、それによって、必ずしも両国の紛争が武力衝突にエスカレートしていくわけでもないだろう。筆者の見立てでは、今回の紛争原因はもっぱらトルコ側のクルド問題に関する安全保障のジレンマにあると考えるが、それは脅威認識の相手をトルコからの分離独立を志向している国内反体制派PKKや、ISと戦っているシリアのクルド人民防衛隊(YPG)を支援しているロシアと考えた場合には、極めて間接的で非対称な相手と言わざるを得ないからである。

 ある意味では、その点にこそ、今回のロシア軍機撃墜問題が抱える複雑怪奇で解決困難な相手国の意図に関する「相互不信」と「恐怖」のスパイラルに基づく安全保障のジレンマが隠されているわけであろう。

2015年11月27日金曜日

撃墜されたロシア軍機搭乗員を射殺した、トルクメン人反体制武装勢力の戦闘員資格から見た追加的考察

 昨日の投稿で、筆者は今回のロシア空軍機撃墜をめぐるトルコとロシアの対立が、安全保障のジレンマに起因したトルコの対露脅威認識(恐怖)のエスカレートに基づく先制攻撃の意味合いがあるのではないかという点を指摘した。

 実は、今回の事件をさらに複雑にしている国際人道法上のもう1つの難しい論点がある。それは、シリア領内のトルクメン人反体制武装勢力によって、撃墜後パラシュートで脱出した2人のSu-24M(複座戦闘爆撃機)搭乗員のうち1人が降下中に射殺されてしまったことである。さらに、この搭乗員救出に向かったロシア軍捜索ヘリコプター2機のうち1機が迫撃砲による攻撃を受けて破壊・不時着したため、海兵隊員1人が死亡したとの情報もある。

 難しい論点とは、このロシア軍機搭乗員を殺害したトルクメン人武装勢力メンバーが国際人道法上の合法的戦闘員(Lawful Combatants)と言えるかどうかという問題なのである。

なぜなら、彼らが法的に戦闘行為への参加資格を持つ合法的戦闘員でないと見なされる場合には、取りも直さず不法戦闘員(Unlawful Combatants)ということになり、今回のロシア軍機搭乗員(や海兵隊員)殺害行為が単なる犯罪行為になってしまうからである。

 さらに問題を複雑にしているのは、今回の撃墜事件の引き金になったと思われるロシア軍のトルクメン人武装勢力に対する空爆作戦が、シリア政府軍地上部隊のトルクメン人に対する攻撃を支援する目的で行われていたと考えられることである。

 なぜなら、戦闘における敵対行為においては、攻撃によって得られる軍事的利益に対し、攻撃によってもたらされる人的、物的損害が過度にならないよう努めなければならないという、均衡性の原則が働くからである(井上忠男『戦争のルール』、宝島社、2004年、45頁)。

したがって、いわゆる民間人の巻き添え(付随的)損害(collateral damage)の発生をほとんど防ごうとしないシリア政府軍や、それに協力しているロシア軍のような紛争当事者による攻撃は、均衡性を失した違法な攻撃と見なされてしまうのである(井上、同上)。

 まず、前者のトルクメン人武装勢力の戦闘員資格について考察してみよう。前提として、シリアの現状の様な賛否両論はあるが一応正統政府であるアサド政権と、その支配に抵抗する国内武装勢力との武力紛争である「内戦」は原則として国内問題とされ、一般的には国際紛争とは見なされず、武装勢力が合法的戦闘員と認知されるためには、ハーグ陸戦規則の定めた戦闘員資格を満たすよう指揮官の下で組織的行動をしていることや戦闘服を着用して公然と武器を携行していること、そして何よりも戦争に関する法規と慣習を遵守して合法的に戦闘することが必要なのである(井上、同上、43122-3頁)。

 例えば、かつてのベトコンの様なゲリラは正規の戦闘員ではないが、抵抗運動に関与する不正規兵として民兵(パルチザン)と同様に、一定の条件(例えば軍事目標だけを攻撃し、テロリストのような無差別攻撃をしないこと等)を満たせば、ロシア軍やシリア政府軍の将兵の様な正規兵と同様の合法的戦闘員と見なされるわけである。

 ただし、内戦においては捕虜という概念自体が存在しないから、ゲリラは敵に捕らえられても捕虜とは扱われない(井上、同上、43頁)。これが内戦と国家間戦争との大きな相違点であるが、今回ロシア軍機搭乗員を殺害したトルクメン人武装勢力は、果たして合法的な不正規兵であるゲリラと言えるのか、これが問題であろう。

 先述したとおり、内戦における抵抗活動は国際人道法を順守して行われなければならないが、ゲリラと認められるためには政府軍兵士を人道的に扱い、拘束者を公正な裁判なしに処罰してはならない。

しかし、シリア内戦でも同様であるが、実際には政府軍側も反体制側も多くの違反をするのが通常である。特に反体制側の兵士が政府軍に囚われた場合は悲惨で、国家反逆罪で裁判にかけられて処罰されることが有ればむしろまともであり、大抵の場合には暴行や拷問が加えられて、裁判もなく処刑されてしまうのが通常であろう。

 その報復として、反体制側も政府軍兵士に対して違法な非人道的行動に出がちなのである。その極端なケースがISによる「捕虜」の惨殺である。今回、トルクメン人武装勢力が被撃墜機から脱出した後の無抵抗な遭難ロシア軍パイロットを狙撃して殺害したことは、ジュネーヴ条約第1追加議定書第42条に違反する非人道的な違法行為であるため、アサド政権やロシアが彼らを「不法戦闘員」や「テロリスト」と見なして攻撃しているのもあながち否定できない論理なのである。

 ところが、そのシリア政府軍やロシア軍の作戦自体も均衡性の原則から見て違法行為である疑いが非常に強い問題があるのだ。樽爆弾を反体制派が支配する市街地に無差別に投下するシリア空軍機の空爆や、ヒューマン・ライツ・ウォッチが述べたようにロシア空軍機がクラスター爆弾を投下したことが事実であれば、こちらも明らかに均衡性を欠いた違法な攻撃であると言えるだろう。

 つまり、筆者の見るところ、シリア内戦における紛争当事者はいずれも国際人道法に反する違法な攻撃の応酬を繰り返しているのが現状であり、それは人為的な誤爆の多い無人攻撃機を空爆に多用している米軍等の有志連合軍側にもある程度言えることなのである。

その意味で、シリア内戦への諸外国の介入がまさに報復の連鎖反応を引き起こし、双方の安全保障のジレンマによる紛争エスカレーションの危険が差し迫っていることこそ、今回のトルコ軍機によるロシア空軍Su-24M戦闘爆撃機撃墜事件から考察できる本質的問題であると、筆者は考えている。