2016年8月30日火曜日

ポール・ウォルフォウィッツ、米大統領選でヒラリー・クリントンに投票検討という記事に関する感想

 27日付のCNNの記事で、ブッシュJr政権期に2003年のイラク戦争開戦を主導したとされるネオコン(neo-conservative=新保守主義派)の代表格であるポール・ウォルフォウィッツ元国防副長官が、26日付の独誌シュピーゲルのインタビューの中で118日の米大統領選本選では共和党候補のドナルド・トランプ氏ではなく、民主党候補のヒラリー・クリントン氏に投票せざるを得ないだろうと言及したことを報じている。

そもそもウォルフォウィッツ氏は、力による正義と(民主主義や自由などの)価値の拡大を掲げる介入主義的な新保守主義の立場に依拠する論客であり、米国第一主義(America First=不介入主義)と反グローバリズムを掲げる原保守主義者(paleo-conservative、パレオコン)の立場に立つトランプ候補とは、同じ保守主義(共和党)陣営に属するとは言っても全く逆の思想的背景を持っているから、こんなことを言明するのも当然と言えるだろう。

 今回の米大統領選をめぐる政治的背景としてよく言われていることに、ポスト冷戦期に大いに進展したグローバリズム(つまり、ヒト、モノ、カネの自由移動による貧富の格差の拡大)の結果、米国内の白人中間層が没落して政治的な分極化が生じたことが挙げられる。

それは従来の大きな政府と小さな政府をめぐる民主党と共和党間の左右イデオロギーの対立によるものではなく、むしろ2008年のリーマン・ショック以降明らかになった資本主義社会、あるいはマーケット・エコノミーにおける「勝ち組」と「負け組」との間の激烈な感情的対立に伴うものなのである。

 トマ・ピケティが指摘したように、現在のアメリカでは上位1%の富裕層が富の4分の1を独占しており、「トランプ現象」を支持しているかつての白人中間層は今や非正規労働者等の低所得層に陥ってしまい、その怒りの矛先をヒラリー・クリントンに代表されるような東部のエスタブリッシュメントや、(不法)移民たち、さらには日本などの同盟国にさえ向け始めている。

 トランプの公約はわずか7つだけであり、彼の思想は保護貿易主義と言える。その主張はゼロ・サム思考に立っており、短期的な損得勘定を重視していて日本など相手側と長期的に信頼関係を構築していこうとする発想が見られない。そうした発想が、メキシコ政府に壁の建設費用を負担させるとか、日本の防衛費負担増大がなければ在日米軍を縮小・撤退させるといった安保タダ乗り論につながっていると言えるだろう。トランプの外交政策は通商問題に還元された単純かつ稚拙な内容で、ウォルフォウィッツのようなネオコンの立場から見れば、政策的に無意味で逆に危険な主張に映るものだろう。

 ただ、歴史的に見ると、もともとアメリカの保守主義の潮流は5つないし6つの派閥に分裂しており、いわゆるアメリカ版保守合同は、実は1981年のロナルド・レーガン政権誕生によってようやく実現したものに過ぎないのである。そして、それは反共主義だけを共通目標に掲げた「連合」であっただけなのだから、ポスト冷戦期に入るとたちまち瓦解して、再び以前のように分裂したというのが実態なのであろう。

 アメリカを代表する保守思想史の権威であるジョージ・ナッシュが、『中央公論』8月号に「アメリカ保守を破壊する“トランピズム”の意味」という講演録を発表している(同上、80-85頁)。ナッシュ博士によると、アメリカの保守主義は多様な潮流がつくる連合体であり、それは、外交では孤立主義の伝統に立ち、政府の介入を極力否定し市場経済と個人の自由を徹底追及する「リバタリアン」(libertarian)、道徳相対化に抵抗して宗教・倫理的な伝統への回帰を主張する「伝統主義者」(evangelical)、そして、左翼からの転向者も加わった「反共産主義者」が保守主流派であるということだ。

 筆者の見方では、ニクソンやキッシンジャーに代表される現状維持・勢力均衡重視の武力行使に慎重な外交姿勢を追及する、対外政策上の「保守穏健派」も存在すると考える。いずれにしても、「ネオコン」や「パレオコン」、さらには草の根宗教覚醒運動の「宗教右派」や「社会問題保守」などは、いずれも保守本流とは言い難く、保守派内の少数派に属しているようである。これらの各派閥の間で、1991年のソ連崩壊で反共産主義の結束が緩むとともに対立が再燃したとナッシュは分析する。

 問題は、トランプも属するとみられるパレオコンが、保守陣営の伝統にそぐわないナショナリズムとポピュリズムの融合体であるナショナリスト・ポピュリズム、すなわち、ナッシュの定義するところの「トランピズム」を保守主義に持ち込んで、白人中間層のエリート層に対する怒りを煽り、対外的に敵を求める危険な姿勢を助長していることである。

パレオコンの代表は92年の大統領予備選に参戦したパトリック・ブキャナンだが、2008年の世界金融危機以後明白になった、無制限のヒト、モノ、カネの移動とセーフティーネットを欠く貧富の格差拡大が、経済の停滞と高失業率、難民と移民の流入、そしてテロの危険の増大を解決できないエスタブリッシュメントに対する反対と反知性主義の台頭を招いていることが、90年代と現在の「トランピズム」の時代との相違であると言えるだろう。

 だが、11月の大統領本選を考えてみた場合には、有権者全体のうち約3分の1を占めるヒスパニックや黒人などのマイノリティ票を相当獲得できない限り(それはほぼ期待できないだろうが)、トランプがヒラリーに勝つ可能性は極めて小さいことも間違いないところだろう。トランプの支持基盤は白人男性の労働者層であるが、彼の女性蔑視発言もあって白人女性票の獲得もなかなか困難な状況ではないだろうか。

 トランプに対するヒラリー・クリントンとしては、2012年大統領選でのオバマと同様に非白人マイノリティ票の8割程度を獲得できることを前提に、11州あるともいわれる浮動票の多い激戦州(スウィング・ステイト)のいくつかを制することができれば、女性初の米大統領就任の道が開けてくるだろう。

ただ、彼女の国務長官時代の私用メール・アドレス利用問題が再燃する恐れも、いまだ否定できないと筆者は考える。我が国の安全保障上は、支離滅裂なトランプではなく、経験豊富なヒラリーが大統領選を制した方が勿論明らかに好ましいが、なお本選当日を迎えるまで予断を許さないことは日本人も心しておいた方がよいと思われる。

2016年8月17日水曜日

ハフィントンポスト、鳥越俊太郎氏、都知事選後独占インタビューに関する感想

 公私混同疑惑問題で引責辞任した舛添要一前都知事の後任者を選ぶために実施された東京都知事選は731日に開票され、自民党公認を得られなかった小池百合子元防衛大臣が2912千票余りを獲得して女性初となる新都知事に当選した。これに対し、民進党や共産党など野党各党の統一候補として推薦・支持を得ていたジャーナリストの鳥越俊太郎氏は1346千票余りの獲得投票数にとどまり、小池氏にダブルスコア以上の大差をつけられて結果的に惨敗した。

 その鳥越氏が810日、都知事選を振り返ってハフポスト日本版の取材に応じたのだが、それがまたネット上などで批判を浴びている。批判の主なものは、鳥越氏が事前の準備もせず都政について不勉強のまま、710日に行われた参院選で与党自民党が勝った結果を受けて、もっぱら安倍政権に国政上対抗する目的で急遽都知事選に立候補したという政治的脈絡の無さや、氏が「ペンの力って今、ダメじゃん。」と、ジャーナリストを自称しているにもかかわらず自己否定しているような突っ込みどころ満載な点にあるようだ。

だが、筆者が記事を読んでみた感想では、鳥越氏が政治指導者としても知識人としても最も資質に欠けて問題であるのは、彼が物事を突き詰めて考える知的誠実さを持ち合わせていない点にこそあると思われる。

 例えば鳥越氏は、「報道の現場の仕事をしていれば、何か月もかけて物事に精通するとかではなく、本当に急ごしらえでガーッと詰め込まなければいけない仕事してきているわけ。50年間。だから」都知事に就任してから勉強しても心配ないし、「出馬会見ではそういう風に言わざるを得ないじゃないですか。」というわけだが、これではいかにも課題山積で停滞する都政を変えてほしいという、多くの都民の期待に応えようという姿勢が氏には根本的に欠落していると言わざるを得ないだろう。

 その次に例の「ペンの力って今、ダメ」というジャーナリストとしての自己否定発言が出てくるのだが、「だって安倍政権の跋扈を許しているのはペンとテレビでしょ。」というわけで、選挙の中で訴えるという一つの手を打ったというのが鳥越氏の出馬理由らしい。だが、この点についても筆者は鳥越さんの認識不足が垣間見えると考える。

 筆者の見立てでは、安倍政権の(鳥越氏の言うところの右傾化の)跋扈を許しているのは、日本ジャーナリズムの力不足というより、ポスト冷戦期のアメリカの力の衰退と中国の台頭という、我が国周辺の安全保障環境の変化の影響の方がずっと大きいだろう。さらに言えば、そのシーパワーと英語というソフトパワーで19世紀以降の国際主義を推進してきたアングロサクソン人の内部で、イギリスがEU離脱を国民投票で決定したり、アメリカ国内でトランプ現象が生じるなど、かつてない程の内向き志向が強まっていることが日本の戦後安全保障体制を揺るがせていることに大きな要因を見出すことができるのである。つまり、鳥越氏の見方は表層的で浅薄なのである。

 鳥越氏の知的誠実さの欠如は、「候補者って要するに、街宣の時にしゃべる駒だから。」と自ら政党の傀儡であることを臭わせたり、ニコニコ生放送の候補者討論会や池上彰氏の開票特番を欠席したことも「選対の部分でカットしているから、なぜか僕は全く知らない。」という、都知事候補者としては全く無責任としか思えない発言からも十分に窺うことができるだろう。

 また、週刊文春と週刊新潮が立て続けに報じた自身の女性スキャンダルへの対応として告訴という公権力の利用をもっぱら手段として、自ら説明責任を果たそうとしなかった点についても、鳥越氏は「説明責任というのは美しい言葉だけど、・・・(中略)・・・(冤罪に関する無かったという「悪魔の証明」は不可能であるから―筆者注)何の意味もないですよ。」と断言している。これでは、彼のジャーナリストとしての誠実さも否定すべきであろう。

 さて、肝心の都知事選に当たっての鳥越氏の選挙公約については、「待機児童ゼロ、待機高齢者ゼロと原発ゼロ、三つのゼロ、と一本の旗。一本の旗というのは、非核都市宣言」ということだったそうだ。だが、氏の掲げた三つのゼロ政策の実現に関する財源の捻出等に関する具体案の提示はなく、ただのスローガンの提示だけだったようだ。

 待機児童の問題については、現場に行って「保育士からいろんな話を聞いて」わかって語れる自分がいたと鳥越氏はいうが、聞いた話は「あなたの手取りいくら?」といった部分的な保育士の待遇改善などの問題だけで、当該問題に絡む複雑な理論的あるいは構造的要因を理解しようという知的努力は何らしなかったようである。これも氏の表層的で雑な理解に基づく議論の展開に過ぎなかったのだろう。

 鳥越氏のリベラリズム理解についても、大いなる欺瞞が潜んでいると筆者には感じられた。氏は衆院選でも参院選でも改憲勢力に3分の2を取られたことに戦後日本社会が「落ちるところまで落ちたな」と大いなる危機感と義憤を抱いているようだが、そもそもリベラリズムの前提は、国家という公権力(ホッブズの言う「リヴァイアサン」)が最低限、市民社会の安全保障を確保することによって成立している。

鳥越氏の過去の発言から考えると護憲を唱える一方で自衛隊の存在を黙認して、事実上アメリカの核抑止力によって日本の安全保障を維持しようとしているに違いない(ご本人には、その認識すら無いだろうが)。それでは集団的自衛権行使に関するいわゆる「解釈改憲」で現状を切り抜けようとしている保守勢力の一部と、突き詰めて考えた場合の結果は同じだろう。鳥越氏の唱えるリベラリズムは、全く欺瞞的だといえる。

 今回の都知事選で棄権した4割の有権者が、「自分たちの将来、生活について何も思っていないんですよ。」「何となく毎日これでいいんじゃん?」と考えて棄権したとする鳥越さんの認識も眉唾で、有権者を舐めた発言に筆者には思える。問題は棄権者が都政に積極的にクレームをつける意思に欠けていたのではなく、鳥越氏も含めてろくな候補者がいなかったことに対する消極的クレームの意思表示が、棄権という投票行動に現れたと見なすべきではないか。

 いずれにせよ、筆者にはこのような知的誠実さに全く欠ける、浅薄な考えしか持ち合わせていない鳥越さんが都知事に当選しなくて、一都民としてほっとしているのが実情なのである。

2016年5月12日木曜日

YAHOO JAPAN! ニュース5月10日「結婚したくないのか、できないのか~揺れるキャリア女子」についての感想

 久しぶりで婚活問題についての記事が出たので、今日は上記テーマについて筆者の感想を述べてみたい。その前に、今大問題になっている舛添要一都知事の政治資金私的流用疑惑について、一言論評しておきたい。

 当該問題は、昨日発売された週刊『文春』第二弾舛添氏追及記事で報じられた。その概要は、舛添氏の政治団体が氏の都知事就任前の2013年から14年の時期に、舛添氏の私的な家族旅行や飲食費、さらには個人的趣味である絵画関連の出費について、それぞれ政治資金から「会議費用」や「備品代」等を名目に相手から領収書を切ってもらい、経費として処理していたという事である。

 これが事実であるならば、政治資金収支報告書の虚偽記載に当たり、舛添氏は故意であったならば政治資金規正法上の犯罪行為を行っていたことになる。公訴時効は5年であるから、刑事告発は免れず、既に今日の時点で東京地検に告発がなされたようである。

 舛添氏は今日宇都宮市で開かれた関東地方知事会議に出席した後、記者団に対して「全力を挙げ、(13日の都庁での定例記者会見での説明)に間に合うよう(事実関係の精査に)努力している」と述べたようだが、これは氏にとっては都知事辞任を免れるのは極めて苦しい状況だろう。

なぜなら、2年連続で「会議費」を支払った木更津の温泉リゾートホテルで、正月3が日に大規模な会議を開催したこと自体がまず有りえないし、ホテル関係者の証言でもそんな事実は無かったと報じられているからだ。

舛添氏が刑事責任だけは何とか回避したいとするならば、直ちに辞職して問題となっている金額を全額返還して反省の弁を述べ、社会的制裁を自ら甘んじて受けるしかないだろう。野々村竜太郎前兵庫県議の様な下手な悪足掻きの弁解をすると、東京地検特捜部の捜査が入って、氏の刑事責任(政治資金規正法違反および業務上横領容疑)が追及されることになりかねないはずである。そもそも一般公務員が舛添氏の疑惑同様なことをしたら、一発で懲戒免職となるほどの重大事件だからだ。

 大体、事務所で精査するも何も、本件では、自分で2年連続してホテルから領収書を切ってもらった時点で、ほぼ舛添氏の故意が認定される事案ではないかと思われる。それにしても、彼の税金に対する感覚は全く麻痺しているとしか考えられない。こんなことをして、最後までばれないと舛添氏が高を括っていたとすれば、彼は本当の馬鹿者か、エリート意識が高じて政治感覚が麻痺しているとしか言いようがないだろう。いずれにしても、明日の定例記者会見の場での舛添氏の説明が注目される所である。

 さて、前書きが長くなったが、本題のテーマに戻りたい。婚活問題については、我が国の少子高齢化と衰退に直結する大問題なので、本ブログにおいても昨年来何度か筆者の見解を述べてきたが、標記の記事についてもいろいろな現状分析が可能であると思えた。

 記事によると、東京都在住の30代前半女性の未婚率は42.7%であるとのことだ。この数字が果たして大きいと言えるのか、地方におけるデータと比較して見なければ全体像は明らかでないが、少なくとも東京在住の30代キャリア女性については婚活に踏み切る最終期限が、30代前半頃にあるという事は言えそうである。

 なぜなら、筆者の個人的経験から言っても、一般的な男性であれば39歳、女性であれば34歳頃を境に生涯未婚に陥ってしまうパーセンテージが一気に跳ね上がってしまう感じが否めないからである。身も蓋もない話であるが、女性が結婚に踏み切る動機として、子供が欲しいと強く望むことが重要であると思われるからだ。この点は、記事に述べられているとおりであると筆者も共感できる。女性が子供を産むことを考えた場合、生物学的に30代前半までに結婚相手を見つけることは重要な要因となるだろう。

 そしてその場合、相手の男性は40代未満であることが望ましいようだ。筆者のケースで言えば、実際に結婚したのは、なかなか生活が安定せず晩婚が多い研究者のご多分に漏れず、ギリギリ期限内の39歳の時であった。その時は、彼女、つまり今の奥さんはいわゆる大企業勤務の7歳年下であった。したがって、筆者のケースでは夫婦いずれも何とか婚活成功の期限内に収まった事例であるということが出来るだろう。

 標記記事にもあるように、最近の30代前半婚活女性の相手側男性に対する条件提示はなかなかシビアである。まず、多くの場合「大卒・年収600万円以上」という高い壁が男性側に求められる。これは記事の中でも指摘されているように、25歳から34歳位までの婚活同世代の中では、ほんの5%程度の上位層に属する男性達なのである。したがって、この条件をクリアできる男性とうまく遭遇できる女性は極めて限られていると言えるだろう。

 実際、筆者のケースで言えば、婚活の競争相手であった男性陣はなかなか強力な面子であって、現妻の自己申告によると筆者の他に2人いたのであるが、そのうち1人は弁護士、もう1人は医師であったとのことである。恐らく年収条件では、筆者が最下位であっただろう。

 さらに年齢および年収条件をクリアしたとしても、次にキャリア女性が求めてくるのがYAHOO!の記事にもあるように、男性側の「家事分担」能力と、それと裏表の関係にある、女性が「私のキャリアをつぶさないで」という「仕事への理解」能力なのである。

 これが女性のパートナー選びの際の条件として、現在非常に重要な要素を構成していると標記記事には述べられている。これは、十数年前の筆者の婚活時期にも、既にキャリア女性の間で現れつつあった現象であると言える。

なぜなら、筆者の現妻が、実際その旨を当時パートナー選びの最重要条件に提示していたからである。年収条件では恐らく筆者を大きく上回っていたライバルであったロイヤー君とドクター君が最終的に婚活競争に敗北した最大の原因が、実はその点にあったのである。というのも、筆者の当時のライバル両名は、彼女に専業主婦になることを要求したらしい結果、彼女の選択肢から脆くも脱落したらしいからである。

 ではあるが、実際のところロイヤー君やドクター君の様な職業についているエリート層にとって、彼らの仕事の忙しさから考えて、妻との家事分担や配偶者の仕事への理解は、頭では理念として認識していたとしても、彼らが現実に実行することは恐らく非常に困難であっただろう。

彼らと比較すれば格段に時間の融通の効く研究者の立場であった筆者だからこそ、端から彼女に仕事を続けるべきだと勧めていたし、家事分担も掃除や洗濯については平等に担当する旨を当時から表明できたのである。年齢制限ギリギリで、筆者がパートナー選びに比較的円滑に成功できた最大の要因は、恐らくこの点にあったことは間違いないだろう。

 であるならば、現時点での婚活においては、男性側は状況の許す限り結婚後の家事分担を実行することを予め表明しておくべきであろう。逆に女性側としては、男性側に求める年収条件を緩和して、600万円以上などといった上位5%のハイレベルを要求せず、比較的年収が低くとも時間的余裕のある相手を見つけるように努力すべきだろう。

 実際に東京で子供を産んで円満に育てるためには、以前の投稿でも述べたとおり、筆者の感じでも世帯年収で最低600万円は必要な気がする。しかし、その年収全てを男性側に一方的に条件提示するのはやや無理があるだろう。結婚後の家事分担の平等を女性側が重視するならば、男性側に求める最低年収条件を400万円位に引き下げるとともに、結婚後の共働きを前提とするのが妥当な線と言えるかもしれない。この点についても標記記事には最後の項で示唆されており、その意味で筆者も頷ける内容であったと感じたのである。

2016年4月28日木曜日

舛添都知事の都市外交と海外出張豪遊問題に関する感想

 先の投稿で、筆者は舛添都知事の公用車利用による別荘送迎問題について感想を述べたが、今度は少し前に問題視された、舛添さんの都市外交と海外出張豪遊問題についての感想を述べてみたい。

 実は筆者の様な研究職公務員もかなりの頻度で海外出張を経験してきたが、その場合には必ず現地での訪問者のアポ取りを数か月(少なくとも3か月、多くは6か月くらい)前から実施しておく必要がある。筆者のような研究者の場合、海外研究機関や研究者とのネットワークがあるから、電子メールで直接先方とコンタクトを取って比較的容易に訪問調整をすることが出来る。

 したがって、現地日本国大使館に対して接遇支援を依頼することなど、ほとんどない。そういう意味では、研究職の公務出張は割と気楽にできるのだが、それでも調整には3か月くらいの時間は必要である。公務出張では通常の赤い個人パスポートではなく、公用パスポートを事務方が外務省に申請してそれを出張時に携帯する必要があるのだが、その発行手続きの関係からも数か月の時間が必要なのである。

 舛添さんの公務出張の場合、その頻度を年間4回、つまり3か月に1回程度を考えると、知事を補佐する担当部局である都の政務企画局の職員はほとんど年がら年中、都知事の外国訪問先との調整に追われている実態があるのかもしれない。そして、彼らの場合、我々研究者とは違って電子メールで簡単に訪問調整できるわけでは決してないだろう。

 おそらく、現地日本国大使館の接遇支援を都から依頼する場合が多いのではないか。その点を考えると、豪遊問題の本質が見えてくるように筆者には思えるのである。なぜなら、現地大使館としては国の外交を担当する立場にあるわけでもない都知事の接遇を、全力かつ本気で支援するとは到底思えないからだ。

 実は筆者も、10年以上前に、外交官パスポートを貰ってある外国の日本国大使館に勤務した経験がある。その場合、当然のことながら地方自治体の首長御一行が来訪することなどほとんどなく、彼らのために接遇支援をした経験も全く記憶にない。

 つまり、いくら舛添都知事本人が都市外交を提唱して自分は英語やフランス語が得意だと力説しても、地方自治体の首長に多忙な時間を割いて面会してくれるような暇な要人は滅多にいないのが実態であろう。そんな無駄な仕事のために現地の日本国大使館が全力投球するはずもないし、相手側の政府要人のアポを抑えることも現実には難しいと思う。

 したがって、都知事の訪問調整そのものの大部分は、外交経験不足の政務企画局が押し付けられているのが実態ではないかと思う。その結果、現状の3か月サイクルでは相手国訪問先のアポはなかなか取れないし、日程をタイトに詰め込むことも本来出来ないから、無駄な空港貴賓室を借り受けての舛添知事の待ち時間の暇つぶしや、あまり意味のないスウィートルームでの記者会見などを頻繁に出張日程に入れざるを得ないのではないか。

つまり、舛添さんが提唱している地方自治体首長の都市外交など、外国現地の訪問先にとっては、多忙な時間を割いてまで優先する程の重要性を最初から伴っていないのだろう。結局、都知事が出来る都市外交とは、植樹やシンクタンクでの講演、現地での記者会見、そしてパレードへの参加など、ほとんど儀礼的な内容の日程しか組み込むことは出来ないのが実態なのではないだろうか。

 筆者の様な一般公務員でも、欧米に公務出張する場合には、旅費規定上はビジネスクラスを利用することが出来ると聞いたことがある。しかし、我が国の財政上の経費削減の観点から、一般公務員の公務出張は原則的に通常料金のエコノミークラス利用であるし、大臣を含む特別職の場合でも公務出張である以上ビジネス位の利用までである。安倍総理大臣など政府要人が、政府専用機を外国出張に使うことが出来ること位が公務出張における例外ではないか。

 それを舛添都知事がファーストクラスを恒常的に利用しているというのでは、都の旅費規定上の問題は仮に無いとしても、自ら慎んでビジネスクラスの利用に格下げすべきであろう。また、記者会見に用いること位しかない現地一流ホテルのスウィートルーム利用については、都条例の宿泊費限度額約4万円の規定を5倍程度超過しているのだから、今後は直ちに中止すべきだろう。

そもそも、都の人事委員会では、都民の批判を浴びて自分達の責任問題になりかねないような、都条例で規定された都知事の宿泊費限度額オーバーの承認など、端からしているわけはないと筆者は考える。実態としては、多分、政務企画局が起案した予算執行計画案の書類に関して、言い訳程度に都の人事委員会に諮っているという程度の簡単な手続きしか踏んでいない可能性が高いと思う。

 筆者の外国出張の経験では、現地訪問先で相手側との実質的な意見交換をする日程をタイトに組み込んでいないような、曖昧な事前調整しかできない程度の公務出張は、ほとんど税金の無駄遣いである。政策効果は、ほとんど期待できないといっても過言ではない。

 舛添都知事の都市外交に関する公務出張については、現在の報道から筆者が感じるところでは、その費用対効果のバランスが大きく崩れているような、政策効果の乏しいものであるという残念な感想を抱かざるを得ないのである。

舛添都知事の公用車による別荘送迎問題に関する感想

 今週発売の『週刊文春』は、舛添要一都知事が2015年内にほぼ毎週末に計48回、自身が経営する舛添政治経済研究所が神奈川県の温泉地湯河原に所有する別荘に公用車を使って出向いていたことを批判するスクープ記事を掲載した。今日はこの問題について、筆者の感想を述べてみたい。

 まず、公用車を自宅との送迎に専属で利用できる立場にあるのは、各省庁で言えばいわゆる「政務三役」(大臣、副大臣及び大臣政務官)等の特別職に当たる幹部公務員だけである。都知事は当然特別職だが、今回の問題発覚で筆者がまず気になった点は、舛添知事が世田谷区にあるご自宅に立ち寄った後、改めて湯河原の別荘に向かうことが多かったと指摘されている点がある。

 なぜなら、公用車の使用に当たっては、舛添さんが釈明したように、出発地あるいは到着地のいずれかで実際に公務を行っていれば、規則上の問題は生じないからである。したがって、都庁で金曜日に公務を行った後に舛添さんが別荘に直接向かったのであれば、原則として問題にならないはずである。この点については、いずれの報道でも問題視していないようである。

 だが、筆者が疑問に感じたのは、知事がいったん自宅に立ち寄ってから改めて湯河原に向かうことが多かったといった点である。なぜなら、常識的に考えて自宅まで公用車が送った以上、そこから都庁に自動車を返す必要があるはずだからである。舛添氏が自宅からさらに別荘まで送らせたということになると、知事の自宅を新たな出発地と見なせばそこで公務を実施するはずはないから、到着地である別荘を公務地であると、どうしても強弁せざるを得ないことになるだろう。

 実際、今日の定例記者会見における舛添都知事の釈明では、別荘で静養していることを事実上認めたようだが、同時に公用車は「動く知事室」であると述べ、また、別荘に資料を持ち込んで公務をしていると昨日述べている。これは、彼がいったん自宅を経由していることが多かった事情から、到着地の温泉別荘で公務をしているとどうしても説明せざるを得ない事情が絡んでいると筆者は見ている。

 次に筆者が問題だと感じたのは、毎週末の頻度で隣県である神奈川県最南西部にある湯河原の別荘まで、金曜日午後2時半ころに都庁を出発していた点である。筆者の見るところ、都の最高責任者である都知事が金曜の真昼間から執務室にいないという事では、恐らく重要書類の決裁がかなり滞ってしまうのではないかと考える。

 都知事の決裁業務がどの程度のものなのか即断できないが、役所という所は、どこでも決裁権者の承認のハンコが貰えなければ業務を遂行することが一切出来ないものである。しかも、筆者の経験上からも、金曜午後は土日の休日を挟んで2日の間が空くことから、割と決済を週内に貰ってしまおうとして公務繁忙なことが多く、その時に肝心要の決裁権者が不在では、結局翌週初めに都知事が登庁してくるまで、あるいは非常に重要かもしれない仕事を開始できないことになってしまう不利益がある。

 今回の舛添都知事の金曜午後早くからの湯河原行きが、都庁職員内部からの『文春』に対するリークによるものであるらしいことから考えても、都庁職員内で金曜午後に知事の決裁が取れず、仕事が停滞して憤慨している人が少なからず存在していることをうかがわせるのである。

 また、昨日来の報道でよく耳にするのが、危機管理上の問題である。確かに都知事が毎週金土日の3日間都内に不在であって、自動車で到着するまで渋滞が無くとも約2時間はかかる湯河原に居るというのでは、いざ災害やテロが東京で起きた時に対応が著しく困難になってしまうだろう。筆者も本来神奈川県人で、湯河原温泉には時々自家用車で行くことがあるが、はっきり言うと小田原までは都内から比較的スムーズに行けるが、そこから先の真鶴と湯河原の間は海岸線に山が迫っていて道路がほぼ一車線しかなく、ゴールデンウィークなどには軽くその間を走行するのに1時間くらいかかってしまうほど渋滞する。

 この点、舛添都知事は都内の奥多摩から都庁に戻るより湯河原から戻る方が早いと言い訳していたが、筆者の実体験では全くそんなことは無い。渋滞に引っかかれば、下手をすると湯河原から都内に戻るまで、4時間くらいかかってしまうことも決して珍しいことではないだろう。

 ともかく、都知事の職にある以上、24時間都内に在住していることが公的責務であると舛添氏は認識を改めるべきだろう。もし、東京で熊本や大分が現在見舞われているような震度の直下型地震が土日曜日に起きた場合を考えると、舛添氏がいかに問題は無いと強弁しようとも、彼がスムーズに都内に帰還できる確率は非常に少なくなる。

3人の副知事がたとえどんな完璧な体制下にあって輪番で不在の知事を補佐しているとは言っても、災害やテロが現実に勃発した際の混乱した状況下に自治体最高責任者の知事が不在ということでは、都が迅速かつ一元的な対応を講じることはほとんど不可能となってしまいかねない。もしそうなれば、舛添さんの政治生命は即座に失われてしまうことにもなりかねない。舛添都知事ご本人は、そういったリスクを真剣に考えたことがあるのだろうか。

 これは、知事の別荘との送迎に係る公用車利用を、タクシーでの往復運賃に換算して約400万円に上る血税の無駄遣いであるといった観点からの批判よりも、はるかに重大な問題であると筆者には思われてならないのである。

2016年4月26日火曜日

国家公務員フレックスタイム制導入に関する感想

 男女共同参画社会とワークライフバランス(仕事と家庭生活の調和)の実現を促進する目的で、安倍政権が人事院に対して検討を要請(平成261017日「国家公務員の女性活躍とワークライフバランス推進のための取組指針」)していた事務職を含む一般職国家公務員全員を対象とした所謂フレックスタイム制の本年度からの導入が、国家公務員勤務時間法が改正されることによって実現した。民間、特に中小企業での導入がなかなか進んでいない同制度について、まず国家公務員から率先垂範することが、今回の法改正の背後に意図されているのだろう。

 だが、厳密に言うと、一般職国家公務員には労働基準法が適用されていないため、同法上規定されている労使協定によるフレックスタイム制ではない。あくまでも制度の適用を希望する公務員自身が申告した場合で、かつ、公務の運営に支障が無い範囲内において、始業および終業時刻について当該申告を考慮したうえで使用者側(官庁)の判断で勤務時間を「割り振る」制度であるに過ぎない。

 そうであるとは言いながら、筆者は同制度の導入に賛成である。それは、安倍政権の意図するようなワークライフバランスの推進に必要な労働時間の短縮に直結するからではない。筆者が肯定的に評価しているのは、勤務時間を個々の裁量で変更することにより、通勤ラッシュアワーに巻き込まれることに伴う疲労の蓄積と痴漢冤罪のリスクを軽減することが可能となる点についてである。

 実際問題として、筆者の様な研究職国家公務員には、すでにフレックスタイム制が導入されていた。だが、現実問題として同じ職場に勤務している事務方が従来型の勤務体系に置かれていた関係上、周囲の視線を気にして、これまでは一部の研究職員しか同制度を活用し切れていなかったのである。しかしながら、今回ほぼ全ての職員が制度適用対象となった以上、筆者も大手を振って制度の適用を申告できることになる。

 特に体質的に夜型である筆者のような人間にとっては、昨年78月に安倍政権が提唱して全省庁に原則適用された事実上の12時間早出勤務サマータイム制度「ゆう活」が苦痛でしかなかったこと、また「ゆう活」しても残業は一向に減らなかった現実を踏まえて考えれば、遅出勤務が出来るフレックスタイム制の方が遥かに健康的なのである。

 ところが、この筆者の個人的には好ましい制度についても賛否両論が対立している。特に国公労連が、鋭く制度の導入に反対していた。その見解の主だった内容は、つまり、フレックスタイム制は業務量の調整や労働時間管理が徹底されない限り、却って長時間・過密労働に繋がり、政府や制度を構築した人事院が提唱しているような「ワークライフバランスの充実による職員の意欲や士気の向上」や「効率的な時間配分による超過勤務時間の縮減」などは絵に描いた餅に過ぎず、到底実現することはできないという点にあるようだ。

 また、主として出先機関での窓口業務を想定しているのだろうが、フレックスタイム制の導入によって職場が混乱し、国民に対するサービス低下につながりかねないという、真っ当な反論も出されている様である。

 筆者が思うに、国家公務員の大多数を占めている出先機関の職員にとっては、そう易々と研究職のようにフレックスタイムを申告することは出来ないだろう。特に古いタイプの課長がいるような職場で、もしも若手がそんな「暴挙」に出たならば、たちまち村八分状態に陥ってしまうかもしれない。

それが、専門的で個々の裁量権が相当程度認められた研究職を除いた、一般的な事務方公務員村の恐らく偽らざる現実であろう。個人のワークライフバランスよりチームワークの和を決して乱さないことが、今も変わらぬ事務方の掟なのではないかと思われる。

国公労連の反論では、フレックスタイム制が導入されれば、勤務時間管理に膨大な労力が必要となり、現行の体制では複雑な労働時間管理が困難であるため、職員の健康管理がかえって蝕まれるという「こじつけ的」な議論も提示されている。これは多分、上司が部下の労働時間を個別に管理するのが「かったるい」というのが、裏に潜んだ彼らの本音なのだろう。

なぜなら労働基準法上の本来的意味でのフレックスタイム制では、1日単位や1週間単位で残業計算をする必要が全く無く、4週間の合計労働時間からその期間における所定労働時間、つまり、国家公務員の場合で言うと1週当たり38時間45分×4155時間を引き算するだけで、きわめて簡単に計算できてしまうというメリットがあるからである。

つまり、本当に面倒くさいのは、上司あるいは勤務時間管理者が職員の申告した勤務時間を考慮しつつ、エクセルシートに時間を「割り振る」作業なのである。これは本当に目がチカチカして、職員全員から申告されようものなら担当者は堪ったものではないと言えるだろう。

 そこで、以下ではもう少し冷静になって、フレックスタイム制のメリットとデメリットについて考察してみたいと思う。

 まず、これは時差出勤の場合も同様であるが、フレックスタイム制導入による仕事上のメリットとして、先に述べたとおり、何と言っても通勤時の疲労と痴漢冤罪リスクの軽減に大いに資することが挙げられるだろう。

 職員個人としては、さらに遅出の場合には朝の余裕ができること、通勤ラッシュ時の不快感が減ること、あるいは通勤時間が短縮できる場合も考えられることがある。理論的には、フレックスタイム制で勤務時間に関する個人の裁量権の範囲が広がることによって、ワークライフバランスは向上し得るはずだろう。

 一方、フレックスタイム制のデメリットとして、次のような業務上の課題が生じることも事実である。すなわち、他の部署や外部との調整を要すること、会議の時間が全職員が勤務を義務付けられているコアタイムに限定されてしまうこと、窓口の業務効率と対応能力が低下する恐れがあること、複雑な勤務時間管理に伴う雑務が増加する懸念があること、そして、一同が会した朝礼もできないし、職場村社会における「けじめ」がつきにくいこと、といったところだろうか。

 さらには残業時間が減らないのは、生産性が低く、だらだら残業することを「良し」としてきた我が国のブラックな職場環境が根本原因なのであるから、その原因自体を除去しない限り、フレックスタイム制を導入して勤務時間を操作することだけでは残業時間はあまり減らないかもしれない。

 特に日本の霞が関の官僚たちについては、主として国会対応の関係から、終電までの長時間労働が恒常化しているのが実態なのである。彼らの立場に立って見れば、今回のフレックスタイム制の全面的導入についても、昨年夏の「ゆう活」と同様に、勤務の実態に合致しないために政策効果の薄い、政府の単なる掛け声倒れに終わってしまわないかと心配してしまうのも尤もなことだろう。

2016年4月20日水曜日

震度7(マグニチュード7.3)の地震災害と熊本城の堅牢さに関する考察

 気象庁は4142126分頃から始まった熊本・大分両県にまたがる活断層を震源地とする一連の地震の本震(16125分頃)について、今日、地震規模がマグニチュード7.3で最大震度7であった(益城町、西原村で計測していた)ことを発表した。なお、この本震では名城熊本城の聳え立つ熊本市内の震度は6強であったとされている。

 この熊本城は、明治101877)年に起きた西南戦争の際に222日から415日まで、谷干城が率いる熊本鎮台兵35百人程の兵力が、当初1万人以上の兵力で包囲した西郷隆盛を担いだ薩摩軍の攻撃から籠城して守り切ったことで、近代戦に耐え抜いた近世初期の堅城としてその名がつとに知られている。筆者も平成になってから、2回ほど、一度は家族連れで訪問したことがある。確かに非常に堅固な要害であり、間違いなく九州一の名城であろう。

 さて、その熊本城が、今回の熊本地震による災害で、武者返しの急勾配で有名な石垣や国から重要文化財に指定されている櫓など多くの建造物が倒壊する大被害を蒙っている。当城を約400年前の文禄・慶長年間頃に築城した「清正公」こと、藤堂高虎と並ぶ築城名人とされていた加藤主計頭清正も、自分の築いた居城がこれほどの大地震に見舞われることは想定外であったかもしれない。

 清正の築城術は、内枡形を重複させた複雑な梯郭式曲輪配置の縄張りや、近江穴太衆の技術を使った打込接ぎ乱積みの武者返しの石垣構築が特に目立つ特徴だろう。また、重複する内枡形以外にも、他の城には見られないほど多くの五階櫓を要所に配置して多重防御体制を作っている点にも注目できると思う。これら清正が作った多くの建造物が、今回の一連の地震災害の結果、無惨に倒壊するに至ってしまった。これらを完全に修復するためには、少なくとも10年以上の期間を要し、その費用も一説には100億円以上かかると見積もられているらしい。

 熊本城は、北から続く舌状台地の先端部である茶臼山という丘陵地帯に構築された平山城である。人工的に掘られた水堀は城内中枢部の南西部を固める飯田丸の西側にあって二の丸との間を隔てている備前堀だけであるが、城域の東側から南西に向かって流れる坪井川を事実上の内堀に見立てて築城されている。茶臼山は標高50mくらいだから、山麓の市内との比高は約40m程度である。

 縄張り自体は清正築城当時から薩摩島津氏の脅威を想定していたため、特に南側の防御が異常なほど堅固になっている。これに対して搦手である北側の防御体制が薄いと評されているが、筆者が実見した限りでは、熊本城の搦手側は空堀と高低差のある断崖で守られており、特段防御が薄いという感じは受けなかった。

むしろ、緩やかに丘が低くなっていく城の西側が熊本城唯一の防御上の弱点であったのだろう。実際の縄張りを見ると、本丸西側に西出丸が築かれて西大手門と南大手門が連続して城の中枢部への敵の侵入を困難にしているし、西出丸のさらに西側には清正時代には未完成であっただろうが、二の丸と三の丸が城内最西端に位置する段山まで連なって守りを固めていた。

 熊本城が実戦に見舞われた西南戦争の際には、この段山の攻防戦が鎮台側籠城戦の成否を決める激戦の舞台となっていたから、やはり攻城側であった薩軍も城の西側が防御上の弱点であると考えていたのだろう。薩軍は官軍よりも砲兵戦力で劣勢であったが、青銅製の前装ライフル砲であった四斤山砲などの砲座を井芹川西岸にある標高約132mの花岡山に据えて、城内を激しく砲撃したらしい。だが、花岡山からでは飛距離が遠すぎて、熊本城の石垣と櫓には有効な打撃を与えられなかった模様である。ちなみに四斤山砲は射程3mまでは届かない。

 今回の地震による熊本城の被害状況はまだ明確ではないが、今日までの報道によると、大天守と小天守周辺の石垣、戌亥櫓脇の石垣、最近再建された飯田丸五階櫓台の石垣、西出丸から本丸など中枢部に入る位置にある頬当御門付近の石垣が大きく崩れてしまっている。特に飯田丸五階櫓は、8段ほどの隅石(算木積みか)を残して土台である石垣が崩れて空洞になっており、今にも倒壊寸前の惨状にある。

 櫓群では、大天守と小天守の屋根瓦が鯱も含めてほとんど落剝している他に、本丸東側の帯曲輪である東竹の丸に連なっていた東十八間櫓と北十八間櫓の2つの築城当時から現存する重要文化財が共に土台の石垣もろとも倒壊してしまっている。なお、この両櫓の北に連なる五間櫓と不開門(いずれも築城時から現存)についても、倒壊したという情報があるが、報道写真から筆者の見た感じでは辛うじて残存しているようにも見える。

 竹の丸は城中枢部の南側にも帯曲輪上に広がっているが、そこと坪井川の内堀とを隔てている現存重要文化財の長塀についても、100m位が倒壊している。ただ、本丸西にある平左衛門丸の土台である高さ20m位の見事な高石垣の上に聳え立つ三重五階の天守級の大櫓である宇土櫓については、続櫓と壁の一部が崩落しただけでほぼ形状を残しているのが幸いである。この宇土櫓は、築城当時の内部にも入って見学することが出来る、城内随一の貴重な文化財であると言える。その土台の高石垣が崩れなかったことを考えると、もろくも崩れ去った帯曲輪である東竹の丸の石垣と比べて、この本丸および平左衛門丸の土台であった周辺の石垣は、加藤清正築城当時から特に堅固に構築されていたのかもしれない。

 加藤清正は、主君豊臣秀吉が晩年築城した指月伏見城の倒壊を、文禄51596)年閏713日に起きたいわゆる慶長伏見大地震の際に実際に経験している。この伏見大地震の際の地震規模についても、今回の熊本地震同様にそのエネルギーはマグニチュード7以上の直下型地震だったとされている。この地震の時には秀吉自身は無事であったが、伏見城内では、500人以上が死亡(圧死?)したと松平忠明が編纂したとされる『当代記』には記されている。

こうして考えてみると、文禄・慶長期に伏見城天守が倒壊した大惨事に比べた場合の今回熊本城が蒙った地震被害の程度については、それが軽微とは言えないまでも指月伏見城のように城自体を廃城しなければならない程の規模には至らなかったという意味において、城郭建築技術が秀吉築城時代と清正築城時代であるいは相当進歩していたのかもしれないと、筆者は感じたのであった。

2016年4月13日水曜日

2347年ぶりのイラク北部モースル近郊での決戦の可能性(ガウガメラの戦いの分析その3)

 昨日の投稿で述べたように、BC331年夏にアレクサンドロス大王の率いる東征軍はタプサコス(恐らくカルケミシュ付近)でユーフラテス川を渡河した。ユーフラテス川とティグリス川の増水期は、エジプトのナイル川の様に定期的(7月から10月の間)ではないが、源流地である山岳地帯の雪解け水が流れ込む45月頃に川が氾濫することが多かったと思われる。メソポタミア地方で河川対策と灌漑が発展し、それが古代王権と文明の発達に大きく寄与したことは高校世界史の教科書にも掲載されている。

 さて、BC331年の決戦に向かったアレクサンドロスの軍勢は、比較的容易にユーフラテス川の渡河に成功したようだ。夏季でユーフラテスが減水期に入っていたのかもしれないが、バビロニアに集結していたペルシャ軍が河川に防衛線を敷くことを怠ったことも敵軍の渡河作戦を容易ならしめた大きな原因であっただろう。

 1世紀クラウディウス帝時代のローマの歴史家であったクルティウス・ルフスが著した『アレクサンドロス大王伝』によると、ダレイオスはペルシャの名門貴族で当時メソポタミアの総督(サトラップ)であったマザイオスに、6千人の兵を率いてユーフラテス川の浅瀬の渡河地点を確保することを命じている。

ちなみにこのマザイオスは、当時のアケメネス朝ペルシャ帝国軍においては最も優れた軍司令官であったようだ。実際に彼は、101日のガウガメラの戦いにおいてペルシャ軍の右翼部隊を指揮しており、その水際立った指揮ぶりでパルメニオンの率いていたマケドニア・ギリシャ同盟軍の左翼部隊をかなり圧倒している。クルティウス等の記述によると、彼は全軍の敗走後もアルベラに後退せずに敗残兵を纏めて敵中を突破してティグリス川西岸に渡河し、そのままバビロニアでアレクサンドロスに改めて降伏した後、ペルシャ人であったにもかかわらず後日バビロニア総督に任命されている。

 これは恐らく、アレクサンドロスがメソポタミア総督としてマザイオスが現地に精通していたことと、彼の能力を相当評価していた結果なのであろう。

 その有能な将軍のマザイオスであったが、実際には敵軍の接近を知るとあっさりと河川防御を放棄している。どうやら彼はユーフラテス川の北東を流れるティグリス川の流れの速さから、アレクサンドロスの軍勢が渡河することは困難であろうと判断したらしい。そこで、アレクサンドロス軍が直接バビロンに南下するだろうと想定して、タプサコスから南方で敵の糧秣確保を妨げるための焦土作戦を実施したのであった。

 ところがアレクサンドロスは真夏で酷暑のメソポタミアを南進する作戦を取らず、ユーフラテス渡河地点からそのまま東進してニネヴェに向かった。多分、タプサコスからニネヴェ、さらにはアルベラまではBC5世紀にダレイオス1世が整備した「王の道」が当時通じていたから、アレクサンドロス大王の軍勢はそのルートを進撃してティグリス川の渡河地点に向かったのであろう。高地でバビロニアよりは涼しいニネヴェやアルベラ付近で、糧秣を十分確保しようと大王が意図していたのかもしれない。

 いずれにしても、アレクサンドロス軍は急流の危険を顧みずにティグリス川を完全武装のまま、兵士たちは胸の上まで水に浸かりながら渡渉した。恐らく舟橋をかけられない程、川の流れが速かったのだろう。まるで我が国の宇治川の合戦の様だ。実際、アレクサンドロスは兵士たちに腕を組んで身を寄せ合って一塊の隊形を作らせて、何とか全軍を渡河させることに成功したようだ。あるいは源平合戦の宇治平等院の戦いの時のように、騎兵部隊は馬筏を形成して渡河したのかもしれない。

 その無謀な渡河作戦で疲労困憊した兵士たちを休息させるため、クルティウスの記述によるとアレクサンドロスは2日間(920から21日か)、渡河地点で宿営した模様である。

 その頃、ダレイオスの率いていたペルシャ軍主力部隊はバビロニアを既に進発して、ティグリス川東岸のアルベラ付近に軍を集結させていたと言われる。そのダレイオスの意図は、狭隘な地形で大軍を十分に展開させることが出来なかったイッソスの敗戦の結果を踏まえて、アルベラとニネヴェの間の広い平原地帯で敵に決戦を挑もうと考えた結果であったらしい。そのため、連携不十分な混成部隊からなる歩兵部隊の展開訓練や、鎌付き戦車の走路まで予め構築していた模様である(だが、仮に事前に戦車の走路を作っても敵がそこに展開するとは限らないし、実際にその目論みはほとんど無駄になったわけだが)。

 なお、焦土作戦に従事していたマザイオスの別動隊の一部である1千人の騎兵部隊が敵のティグリス渡河を阻止するために派遣されたが、これは渡河後既に戦闘態勢を整えていたマケドニア軍騎兵部隊に一蹴されてしまったと記録されている。

 アレクサンドロス軍はアルベラ方向に向かって東進する途中、渡河後4日目に敵の騎兵部隊と衝突し、その捕虜の口からダレイオス軍がガウガメラ(現在のテル・ゴメル、モースルつまり古代ニネヴェから約20km東方の地点)に展開していることを知ったとされる。なぜか、アレクサンドロスは悠然とその地にさらに4日間留まった後、丘から平原に降りて敵の大軍を目視で発見し、その翌日戦闘態勢でペルシャ軍に向けて進撃し、101日を決戦日と定めて兵士の士気を鼓舞し、宿営したとされる。

 この間のアレクサンドロス大王の態度が、何とも悠長な様子に見えるのが不思議だ。実際に101日の決戦の日になっても、既に太陽が高くなってから漸く大王が目を覚ましたと言われている。これは、東に向かって進撃する自軍の目が眩まないように、日が十分昇ってから決戦を挑むというアレクサンドロスの深い配慮だったのかもしれない。

 これに対するダレイオスは自分から先制攻撃を仕掛けることもなく、敵の夜襲を恐れて全軍にピリピリとした警戒態勢を終夜とらせたおかげで、101日の決戦当日には兵士たちが初めから疲れてしまっていたとも言われている。イッソスで一度大敗しているだけに、ダレイオス3世は過剰に慎重になり過ぎていたのかもしれない。

 結果的には、両翼を斜線形に布陣するとともにギリシャ軍を第2線防御に配置して、大軍であったペルシャ軍の包囲攻撃を阻止することに成功したアレクサンドロス軍が、ダレイオスの縁戚でバクトリア総督のベッソスが率いたペルシャ軍左翼部隊をダレイオスの中央部隊と分断することに成功した。

そして、アレクサンドロス自身が直接指揮した右翼のヘタイロイ騎兵部隊と近衛歩兵部隊の楔をダレイオス本陣に突入させてダレイオス直属部隊の戦列を崩壊させたため、パルメニオンの率いていた左翼ではマザイオスの騎兵部隊に苦戦を強いられたマケドニアとギリシャ同盟軍が、結果的にペルシャ軍に大勝したのであった。クルティウスの『大王伝』によると、ガウガメラの戦いにおけるアレクサンドロス軍の戦死者は3百人、ペルシャ軍の死者は眉唾な数字だが凡そ4万人であったという事らしい。

 敗戦後アルベラまで逃走したダレイオスはアレクサンドロスの激しい追及を何とか逃れ、その後アルメニアを経由して、11月頃には古代メディア王国の首都でアケメネス朝の夏季王宮が存在したエクバタナ(現在のハマダーン)に逃走したとされる。アッリアノスの『東征記』によると、彼に随ったのはバクトリア人騎兵とペルシャ人精鋭部隊「不死隊」の一部、それにギリシャ人傭兵わずか2千人程が合流しただけらしいから、ダレイオス3世には、もはやアレクサンドロスに対して再度の決戦を挑むだけの十分な兵力を動員することは困難な状況に陥ったようである。

 実際、アレクサンドロス軍がBC3305月下旬に既に占領していたペルシャの首都ペルセポリスから、エクバタナに進撃を開始すると、ダレイオスは騎兵3千人と歩兵6千人、そして7千タラントンの軍資金を抱えて縁戚ベッソスが総督を務めていたバクトリアの首都バクトラに向けて逃避するしか方法が無かったのである。

結局、その後彼はそのベッソスに裏切られて捕縛され、 BC3307月か8月頃に殺害されてしまったのであった。この辺りの悲劇は、何だか信頼していた小山田信茂の裏切りにあって天正101582)年311日、天目山麓田野で自害に追い込まれた武田勝頼の悲劇を髣髴とさせるものがあるだろう。

2016年4月12日火曜日

2347年ぶりのイラク北部モースル近郊での決戦の可能性(ガウガメラの戦いの分析その2)

 2世紀ローマ帝国のトラヤヌス帝とハドリアヌス帝時代のギリシャ人政治家かつ歴史家であったアッリアノスが著した『アレクサンドロス大王東征記』には、エジプトから帰還後、大王がガウガメラの決戦に至るまでの進路について、以下のような記述がある。

すなわち、BC331年春に(アレクサンドロスはエジプトの)メンフィスを発ってティルスに至り、そこから内陸に転じて、ヘカトンバイオンの月(78月)にユーフラテス川の渡河点であるタプサコスに到着した、ということである。問題は、渡河地点であるタプサコスの位置と「内陸に転じて」の意味をどう考えるかという点にある。

 まず、フェニキア(レバノン)最大の港湾都市であったティルスからアレクサンドロスの軍勢が内陸に転進したとすると、常識的に考えればレバノン山脈とアンチレバノン山脈を越えてダマスカス方面に向かったことになるだろう。あるいは、ダマスカスには向かわず、両山脈の間に広がるベッカー高原を抜けて直接ホムスに到達したのかもしれない。

 問題はダマスカスかホムスから、その後大王の軍が北方のアレッポに向かったのか、あるいは東方のパルミラ方面に向かったのかが判明しないことである。仮に前者のルートであったならば、アレッポから軍勢は東進してカルケミシュでユーフラテス川を渡河したことになる。もしも後者のルートであったならば、現在ISが首都としているラッカの辺りで軍が渡河したのかもしれない。したがって、タプサコスの位置が特定できないのである。

 記録によれば、アレクサンドロスは2本の舟橋をかけて軍勢を渡したとされるが、渡船も利用した可能性がある。そうであるならば、やはりカルケミシュ付近でユーフラテス川を渡河したと考えるべきかもしれない。先の投稿で述べたとおり、古来カルケミシュはユーフラテス渡河の交通の要衝であり、東進してメソポタミア北部の首邑ニネヴェに直結していたから、やはりこちらのルートを大王が選択したと見るべきだろう。

 また、パルミラ方面を経由するルートは大軍勢がシリアの砂漠地帯を横断することになるから、兵士のみならず騎兵部隊や輜重部隊の軍馬や騾馬に与える糧秣の調達が恐らく困難だったことも、アレクサンドロスがアレッポとカルケミシュ経由の無難なルートを進撃したことの傍証となるのではないかと思われる。

 さて、アレクサンドロスの軍勢がユーフラテス川を渡った頃、敵のダレイオスはバビロンに決戦兵力を集結させていた様だ。その兵力はアッリアノスによると歩兵100万人、騎兵4万人、鎌付き戦車200両というのだが、いくらペルシャ軍が総力を挙げて肥沃な三日月地帯の中心であったバビロニアに集結したとしても、これはいささか多すぎる明らかな誇張であろう。当時の軍隊に、100万人以上の兵力を給養させるだけの補給能力があったとは到底思えない。ペルシャ軍はせいぜい総兵力10万人位で、アレクサンドロス軍の2倍といったところが真相ではないだろうか。

 BC33310月のイッソスの戦いの敗戦で奇しくも露呈したように、マケドニア・ギリシャ同盟軍のファランクス(重装歩兵の密集方陣)と比べてペルシャ軍の弱点は、歩兵の装備が脆弱であったことと、各地の総督に率いられた帝国支配下諸民族の混成部隊で兵力は多いが必ずしも統制と連携が取れていない点であった。

 そのため、ダレイオスは多くのギリシャ人傭兵部隊を抱えて弱点を補っていたわけだが、歩兵で6m位のサリッサ(長槍)で武装したファランクスに対抗するため、ダレイオスは剣と槍の長さをギリシャ風に改造したらしい。だが、結局は諸民族混成部隊の弱点からか、傭兵部隊を除いてファランクスの実戦での運用までは到達できなかったようだ。つまり、最後までペルシャ歩兵部隊はアレクサンドロスの歩兵部隊に劣勢を強いられたと思われる。

 また、騎兵について見れば、両軍とも当時は鐙が発明されていなかったから馬上での安定性が無く、スキタイ人の様な一部の遊牧騎馬民族を除いて弓射騎兵としての運用は恐らく困難だっただろう。したがって、サリッサと剣や重装備で武装したマケドニア軍のヘイタイロイやテッサリア騎兵の方が機動打撃力の点でも、ペルシャ軍より遥かに優越していたのだろう。

実際、三大決戦のいずれも、アレクサンドロス大王が直接率いた騎兵部隊の打撃力によってペルシャ軍の戦列が破られて敗戦している。このような、中央ないし左翼に配置した重装歩兵のファランクスが敵の攻撃を引き受けて防戦している間に、右翼の重装騎兵部隊を敵の戦列にぶつけて包囲あるいは突破する戦術は、アレクサンドロスが得意としたいわゆる「鉄床戦術」だったわけである。

 もう1つの勝敗を決した要素として、アレクサンドロスがBC331年当時まだ25歳で、50歳位の年齢であったダレイオスと比べると非常に若くて気力に溢れており、しかも自らを、トロイア戦争を舞台にしたホメーロスの叙事詩『イーリアス』の主人公である英雄アキレウスになぞらえていた気配があった事だろう。

そのため、戦場でのアレクサンドロスは自ら先頭に立って、何度も敵陣に斬り込むようなギリシャ神話上の英雄並みの蛮勇を常に奮っていた。彼が実戦で負傷し、戦死しかけたことも少なくない。これほど勇敢な騎兵指揮官は、恐らく歴史上アレクサンドロス大王の他には、ナポレオンの妹婿であったジョアシャン・ミュラ元帥がいるくらいではないだろうか。

 結局、イッソスの戦いでもガウガメラの戦いでも、騎兵部隊の先頭に立って本陣に肉薄してきたアレクサンドロスの鬼気迫る攻撃にダレイオスが怖気付いてしまったことが、ペルシャ軍の戦列崩壊と敗戦に繋がってしまったのであろう。唯一マケドニア・ギリシャ同盟軍が保有していなかった鎌付き戦車部隊についても、戦場では有効活用できなかった点がペルシャ軍の大いなる誤算であっただろう。

 さらに、戦場に集結し決戦し敗走あるいは追撃に至った実際の両軍の動きについても、考察しておくべき中々興味深い諸問題があるので、次回の投稿でその点に関する筆者の分析を改めて述べてみたいと思う。

2016年4月11日月曜日

2347年ぶりのイラク北部モースル近郊での決戦の可能性(ガウガメラの戦いの分析その1)

 アメリカが主導する有志連合軍の空爆によって、ティグリス川とユーフラテス川の両岸地帯(メソポタミア)の一部を実効支配するIS(イスラーム国)の支配領域が現在までに40%程度縮小したとする見方がある。そうした見地に立つと、恐らくIS支配下の油田地帯から産出される原油量も日量1万から4万バレル(2014年夏季IS勢力最盛期の約半分)程度にまで減少し、その活動資金の調達はさらに困難になりつつあると思われる。

 現在、イラク国内におけるISの最大かつ最後の拠点は北部油田地帯に位置する大都市モースルであるが、このモースルはイラクの首都バグダードの北西約400km弱のティグリス川両岸を跨ぐ地点に市街地が広がっている。2016年のイラク政府軍の最大目標は、有志連合軍による空爆支援の下でモースルをIS勢力から奪還して、イラク国内からISを追い出すことであろう。これは事実上、イラク政府軍とIS武装勢力との最終決戦となる公算が強い。イラク政府側は遅々としながらも、そのための戦力整備を着々と進めていることだろう。

 このモースルのティグリス川東岸には、古代都市ニネヴェの遺跡が存在する。ニネヴェは古代アッシリア帝国のセンナケリブ王が紀元前8世紀末に都とした場所である。ニネヴェからクルド自治区の首都アルビールまでは85km程度の距離しかない。アルビールは現在もモースルと重要な幹線道路でつながっているが、この幹線道路をモースルからさらに西に向かうと、シリア、トルコ領内を進んでユーフラテス川で最も浅い重要な渡河地点があるカルケミシュ(シリア領内ジャラーブルス付近)に到達する。

 聖書のエレミヤ書によると、紀元前7世紀末(BC605年頃)に新バビロニア王国のネブカドネザル2世とエジプト第26王朝のファラオであったネコ2世がシリア支配をめぐってカルケミシュで戦い、その結果エジプト軍が敗北したとの記述がある。つまり、古来カルケミシュは、メソポタミアとエジプトの両勢力がシリア支配をめぐって支配権を争った、戦略的要衝の地であったわけなのである。

 筆者が本投稿で述べる2347年ぶりのモースル近郊での決戦というのは、今年展開されるかもしれないイラク政府軍とISとの決戦のことであるが、2347年前、つまりBC331年に起きた決戦とは、古代マケドニアのアレクサンドロス3世(大王)がアケメネス朝ペルシャ帝国を滅亡させた東方遠征の最中に起きた三大決戦の最後、つまりガウガメラの戦いを意味している。

 アレクサンドロスは暗殺された父フィリッポス2世のあとマケドニアの王位を継承した後、ギリシャ国内の反乱を鎮圧して父が生前に企図していたペルシャ戦争への復讐を大義名分とした東征にBC334年に着手し、ヘレスポントス(ダーダネルス海峡)を渡って5月にグラニコス河畔の戦いでペルシャのサトラップ(太守あるいは総督)達とギリシャ人傭兵の軍勢を撃破して小アジアを征服し、翌年10月には以前の投稿で述べたイッソスの戦いで、ペルシャから家族連れの大軍で親征してきたアケメネス朝の「諸王の王」ダレイオス3世の軍勢も打ち破って王の母親と妻子を捕虜にした上でレバント地方(シリア及びフェニキア)を制圧した。この際には、BC332年に唯一抵抗した港湾都市ティルスを7か月かかった激しい攻城戦で攻略し、約1万人を殺し、約3万人の市民を奴隷に売却したと言われている。

 その後、アレクサンドロス大王はアケメネス朝の支配が脆弱だったエジプトに侵攻して解放者としてファラオに祭り上げられるとともに、最初の都市アレキサンドリアを建設したのは有名である。さて、小アジア、レバント、そしてエジプトといったペルシャ帝国の西方領土を掌握した後は、当然メソポタミアを攻略することが大王の次の戦略目標となった。

 ところが、マケドニアの戦力に圧倒されたダレイオスの方は、多分アレクサンドロスのエジプトからフェニキアへの帰還後のBC331年春に、2回領土の割譲と和睦の提案を行っている。まず、最初の提案では、小アジアのハリュス(クズルルマク)川から西側の領土、すなわちリュディアとフリュギア(あるいはキリキアも含む)地方と2万タラントン(1タラントン=約26kgか)の銀をアレクサンドロスに贈呈するというものだった。だが、既にエジプトまで征服していたアレクサンドロスの立場からすれば、この提案では征服地から撤退することを意味しているから受け入れるはずが無いだろう。

 そこでダレイオスはさらにユーフラテス川から西側の領土の割譲と3万タラントンの銀、そしてアレクサンドロスを娘婿として帝国の共同統治者とする再提案を行ったとされる。この提案に対し、マケドニア軍の副将で大王の補佐役であった老将パルメニオンはペルシャとの和睦を進言したとされるが、アレクサンドロスは「太陽が2つあれば宇宙の秩序が維持できないように、人間世界でも2人の王は存続できない」趣旨を使者に伝えて、名誉のために自分と決戦を挑むか、自分の命令に服従して王として生きるか、ダレイオスに選択するように強要したと言われている。アレクサンドロスは、余程自分の武力に自信があったのだろう。

 会議後、ギリシャ同盟軍を含む大王の軍勢(約5万人と言われる)はメソポタミアに向かったが、その頃捕虜として連行していたダレイオスの妻で実妹であったスタテイラが死亡したため、アレクサンドロスは彼女を盛大に弔ったとされる。

当時の大王の軍勢の進路は不明な点もあるが、まずカルケミシュでユーフラテス川を舟橋をかけて渡河し、その後現在の幹線道路と同じルートをそのまま東進してティグリス川を渡河してニネヴェに至ったのではないだろうか。その後、BC331101日にニネヴェからアルベラ(現在のアルビール)に向かう途中のガウガメラで、マケドニアとペルシャ両軍の3回目で最後の決戦が行われたのだが、その決戦に関する筆者の分析については次回の投稿で述べてみたいと思う。

2016年4月1日金曜日

乙武洋匡氏の人格傾向と、メディアによる虚像増幅に伴う社会心理についての感想

 先天性四肢切断という重度の障害を持って生まれてきた乙武洋匡氏は、早稲田大学政治経済学部卒であり、筆者の学部後輩に当たる。周知のとおり、彼は大学在学中の1998年に著した『五体不満足』で「障害は不便だが、不幸ではない」という屈託のない新鮮なメッセージを発することにより、ベストセラー作家となり、一躍時の人となった。

乙武氏は大学卒業後スポーツライターを経た後に杉並区小学校の教諭や都の教育委員を歴任し、一種の教育専門家としてメディアで取り上げられ、2016年夏の参院選に自民党公認で出馬する予定であると言われていた。

 その爽やかで誠実なイメージの乙武氏が、妻以外の複数の女性と不倫(買春?)をしていたという事で、324日夫婦同時に公式サイト上で世間に謝罪し、30日には参院選出馬を取りやめることが報じられた。今日はそのことに関して少しばかり、社会心理学的に筆者の勝手な感想を述べてみたい。

 まず、注目されるのは、彼が教育委員在任中に不倫を隠すダミー役の男性を伴って、何度も愛人女性同伴で海外「視察」に出かけていたことだ。そのダミー役の男性の1人は、45日リーガロイヤル東京ホテルで参院選出馬の決起集会とするはずだった乙武氏40歳誕生パーティーの発起人の1人で乙武氏の友人でもある、社会学者(大学院生)の古市憲寿氏とのことだった。

 実はこの古市氏は、325日のツイッターで「庇う気はないが、(乙武氏のケースは)普通『不倫』と聞いて想像する光景とは、かなり違っていた気もする」と友人を擁護する見解を述べていた。だが、もし彼自身が乙武氏の海外不倫「視察」旅行に同行していたとすれば、多分自己弁護の意味で述べたものだろう。

 問題は、乙武氏の「視察」に都教育委員会から公費が支出されたかどうかという点であり、もしそうであるなら公金の重大な流用問題になりかねない。古市氏ら同行したダミー男性達も、同伴女性と共に厳しく責任を追及される必要があるだろう。したがって、彼の乙武擁護論は全く取るに足らない無責任な発言に過ぎない。

 今回の問題に関して、的確な分析だと筆者が思ったのは、在米ジャーナリストの岩田太郎氏がJapan In-depthに投稿した「乙武氏「自己肯定感物語」破綻と障碍者の性」という記事の内容である。この記事の中で、岩田氏は今回の乙武「五股不倫」問題を、「全聾の天才作曲家」佐村河内守氏や「高学歴ハーフタレント」ショーンK氏のケースに類似した、マスメディアが増幅した虚偽の個人イメージ(虚像)崩壊のより深刻なケースであると位置づけている。

 なぜなら、乙武氏が常日頃述べてきた「明確な自己肯定感を持てた」「人生、だいじょうぶ」という世間に感動を与える「壮大な救済物語」が恐らくほとんど虚偽の作り話であり、乙武氏自身が多分自己肯定感を欠如させたまま(成熟した大人に成り切れず)、メディアの増幅した虚偽のイメージに自己をうまく適応させて生きてきた欠落感から、今回の様な不倫騒動を起こしてしまったのだろう、と岩田氏は概略分析している。

 その意味では、本当は高卒の学歴しか持たないショーンK氏がハーバードMBAの経歴を詐称したケースや、作曲の出来ない佐村河内氏がゴーストライターを使って天才作曲家を騙っていたケースと、彼らの行動の動機が自己肯定感の欠落にあると考えられる点で確かに共通していると筆者も考える。

 だが、偽善者は彼らだけではない。より本質的には、その虚像を商売や選挙に利用しようとしたメディアや政党も偽善的だし、我々一般市民の多くも障害者に対する「差別主義者」で無いという偽りのアリバイ作りに利用してきたという点では、同様に偽善的なのである。ネット上やメディアでの乙武氏やその妻に対する激しいバッシングの嵐は、そうした日本社会全体の偽善的態度を裏返しにした反動現象であると考える。

 心理学的に見れば、乙武氏やショーンK氏は、青年期に多く見られる自己愛的人格傾向を維持したまま、大人になってしまったのではないかと筆者は感じる。自己愛的人格傾向とは、自信に満ちてエネルギッシュかつ自己本位的で他者への共感が欠如した態度が目立つ一方で、他者の評価によって自己評価や肯定感が容易に揺れ動く矛盾した人格特性なのである。いわば、自信と不安が入り混じった不安定なアイデンティティを持った、成熟していない人格を意味している。乙武君もショーンKも、どちらからもそういう人格特性の臭いがするのである。

 ただし、自己愛傾向は、必ずしも病的に他者を傷つける程の「自己愛性パーソナリティ障害」(Narcissistic Personality Disorder: NPD)にまで常に至るとは限らない。その意味において、普通の健常者にも多かれ少なかれ見られる、傲慢で自己顕示的な人格特性の程度問題なのである。

ただ、今回の「五股不倫」問題を通じて見える乙武君の家族に対する配慮の無さから感じるのは、彼の持って生まれてきた障害に恐らく起因する低い自己評価と、一見それとは矛盾するような尊大な自己認識と自己顕示欲が、彼の心の中でアンビバレントに共存しているのではないかという疑いが、完全に否定しきれない点であろう。

 筆者は以前から、先天性四肢切断という大きなハンディを抱える乙武君が、どうやって都立高校上位校である戸山高校や一浪したとは言え早稲田大学政治経済学部卒業の学歴を得ることが出来たのか、とても不思議に感じていた。あからさまに言えば、彼のハンディから考えて、通常の手段では高校と大学の厳しい入試を突破することは極めて困難であっただろうと感じていたからである。

 これはあくまでも筆者の憶測であるが、彼が無事高校と大学の学歴を獲得できた背景には、何らかの大人側の配慮が介在していたのではないか。乙武君は、ある種の推薦合格を貰ったと言い換えてもいいだろう。もしそういうプロセスが、彼の人生で実際に起きていたとするならば、乙武君が今に至るまで自己肯定感を獲得できず、アンビバレントな自己認識や顕示欲を肥大化させていったことも十分想定できるだろう。

 そして、大学在学中にベストセラー作家として社会的に成功を収めた結果、彼の虚像がメディアを通じて増幅され、社会がそれを好んで消費してきたのが問題の実態であろう。そういう意味では、乙武君も最近の日本社会で顕著になった浅薄な虚像の商品化傾向に踊らされた、ショーンKと同様の哀れなドン・キホーテの1人であったのかもしれない。

この点において、今回の乙武君「五股不倫」と彼の虚像崩壊の背後には、単に彼の人格傾向に問題を矮小化して非難を集中すべきではないような、社会心理学的な本質を含んでいるのではないかと筆者は感じたのである。

2016年3月30日水曜日

ドナルド・トランプ氏の日米同盟論(「暴論」)に関する感想

 アメリカ大統領選での共和党候補者選出のための予備選を現在有利に戦っているドナルド・トランプ候補が、日本の核武装を容認し、対北朝鮮外交でより攻撃的になってほしいと、329日に中西部ウィスコンシン州でのCNN主催の対話集会で述べたと報じられている。

 同時に、トランプ氏は、在日米軍の駐留経費負担(俗に言う「思いやり予算」を含む)を日本が大幅に増額しなければ、日米安全保障条約を見直して米軍を撤退させるべきという持論を改めて強調したとされる。

 トランプ氏の「暴言」とされるものは数多いが、そのうち、内政ではなく外交政策に関するものを列挙して見ると、同盟国に対する駐留米軍に関する経費増額要求の他にも、例えば、TPPをぶち壊す、シリアをロシアのプーチン大統領に任せる、メキシコ国境にメキシコ政府の負担で壁を構築して不法移民の入国を妨げる、不法移民たちの強制送還、イスラーム教徒(ムスリム)の入国禁止、IS支配地域に対する戦術核兵器使用の可能性を示唆、そしてテロ容疑者に対する水責めなどの尋問(拷問)手段を採用することの提唱といったところだろうか。

 筆者も米国内の(民主党、共和党を問わず)現実主義者たちが評価しているように、トランプ氏のこうした「暴言」は、外交政策としても安全保障政策としても極めて稚拙でナイーブ、かつ、実現性に乏しい支離滅裂なものであると非常に感じる。特にトランプ氏が核戦略と抑止論に全く精通していないことは、日本が北朝鮮に対抗するために核武装することを容認している一方で、対IS作戦における戦術核兵器の使用をほのめかしていることからも明らかだろう。

こうした彼の一連の発言から考えると、果たして非対称勢力であるISに対する核兵器の使用が軍事的に効果を持つかどうか、IS支配下に置かれたシリアとイラクの一般住民に与える付随的損害の大きさについても、トランプ氏がまともに考えた上で発言しているとは誰でも到底思えないだろう。

彼は恐らく、我が国の非核三原則やNPT加盟の事実すら正確に認識していない可能性が大きい。それをわかっていた上で暴言を述べているとすれば、彼は本当のデマゴーグ(大衆扇動家)だろう。アメリカ社会の深刻な分断状況と政治不信、中間層以下の国民の既得権益(エスタブリッシュメント)への不平・不満の増大が、ある意味アドルフ・ヒトラー級の大衆扇動家への米国内での支持率を高めているとすれば、太平洋を挟んだ東アジアの親米同盟国である我が国も、事態の危うさを今から真剣に考察しておく必要があるだろう。

筆者の見立てでは、トランプ氏が予備選をこのまま勝ち抜いて共和党の大統領候補者に選出され、民主党大統領候補に選出されると思われるヒラリー・クリントンを打ち負かして実際に来年1月にアメリカ大統領に就任する可能性が、約30から40%くらいはあるように思えるからだ。ヒラリーさんは既得権益の代表選手のように国民の目から見える上に、国務長官時代の私用メール・アドレス使用問題など、数々のスキャンダルを抱えているからである。

一言で言えば、トランプが「傲慢な馬鹿」といったイメージを米国民から持たれているとすれば、対するヒラリーは「信頼できない嘘つき」といった、これまた負のイメージを持たれているのではないだろうか。選挙資金調達の面では、既得権益との癒着が無く、クリーンなイメージのトランプの方が大統領選に勝ってしまう可能性も、我々日本人は十分に想定しておかなければならないだろう。

これに対して、ヒラリーが自分の国務長官時代に推進したTPPに反対する姿勢を唐突に表明したのは、関税の撤廃や低減に反対する労働組合AFL-CIO(アメリカ労働総同盟・産業別組合会議)からの支持を獲得するために選挙戦略的に擦り寄ったからだろう。AFL-CIOは、TPPに賛成する候補者への政治資金の供給を停止する恐れがあるためだ。

 トランプ氏の外交政策を評価すれば、伝統的な孤立主義の思想に連なるものと言えるだろう。だが、アメリカが建国後間もなくの大国になる以前の19世紀ならばいざ知らず、冷戦終結後唯一の超大国として存続している21世紀の現代に、南北両アメリカ大陸とカリブ海の覇権の維持だけにアメリカが閉じこもってしまった場合の国際安全保障上の悪影響は極めて大きい。

特に激烈な紛争の持続している中東ではアメリカ新孤立主義化の悪影響が顕著で、ロシアやイラン、ISの様な国家と非国家主体が混在した多様な現状変更勢力がアメリカの現状維持への不介入姿勢に付け込んで、さらに勢力を拡大しようと試みるだろう。その結果、イランやサウジアラビア、トルコ、エジプトなど域内大国での核拡散が促進される危険性が強まりかねない。OPECのカルテルはイランとサウジアラビアの対立から生産調整が不可能になり、大輸出国であるロシアも巻き込んで原油価格の低迷が続き、各国の財政状況をさらに悪化させることにもなる。

 欧州では中東での紛争継続の結果、難民と移民の流入が今年も加速するだろう。シェンゲン協定が2016年中にも事実上機能しなくなって、欧州の経済再建に大きな妨げとなる可能性がある。キャメロン首相が是非を問う国民投票を年内に行うとした、英国のEU離脱「ブレグジット(Brexit)」は否決される公算が強いものの、EUの難民・移民政策を主導するドイツのメルケル首相は受け入れ反対派の政治勢力の台頭によって、その地位を失うかもしれない。そうなれば、自由な移動と人権尊重のEUの根本理念が崩壊しかねない。

 また日本は、アメリカの新孤立主義化によって、約70年ぶりにアメリカの軍事力に依存しない単独の安全保障政策を立案しなければならない羽目に陥るだろう。そうなれば、まさしく戦後最大のパラダイム・チェンジを我が国は2017年に迎えることになるはずだ。

2016年3月17日木曜日

ショーンK氏の経歴詐称問題と報道番組でのコメンテーターの役割についての感想

 316日発売の『週刊文春』今週号に掲載された、最近の報道番組等でコメンテーターとしてよく見かけていたショーンK(「芸名」でショーン・マクアードル川上)氏の経歴詐称問題が、昨日来世間を騒がせている。その概要は、彼自身が個人ホームページで公表していた学歴、職歴その他の経歴のほぼ全てについて、俗に言う大きく「盛って」書かれていたというものである。

 筆者も実は、かなり以前に公共放送や民放のいくつかの報道番組で専門分野に関してコメントを求められた経験があるが、今回のケースに関連して一部で言われているようにコメントについて構成作家と相談して決めたといった事実は1回も無かった。担当のディレクターと事前に打ち合わせて、放送用の資料を用意してもらったという事くらいである。したがって、もし仮にショーンK氏が初めから用意されていた原稿通りに番組でコメントしていたとしたら、彼は専門家としての扱いではなく、単なるタレントに過ぎないと言えるだろう。

 そして、『文春』などに報じられている彼や所属事務所の釈明を聞く限り、彼自身は自分が1人のタレントであるに過ぎないことを自覚していた模様である。そうならそうと、初めからそういう立場でテレビに出演していればいいものを、経歴を恐らく故意に詐称して「国際派経営コンサルタント」としての肩書を宣伝していたことが問題なのであろう。

 ただし、コンサルタント業は医師や弁護士のように公的資格を必要としていないから、彼が経歴を詐称し、その偽りの肩書きを背景として仕事の範囲を広げ、実際に何らかの利益を得たとしても、例えば詐欺罪の様な犯罪の構成要件に該当することは無い。つまり、彼は社会を騙した倫理的な責任を負うに過ぎないわけである。

 そうした観点から、彼への社会的バッシングの過度の集中に対して異論を唱え、彼の行為を擁護する一部の「識者」の方々による反論がまたぞろ続出するわけだろう。理化学研究所研究員だったSTAP細胞研究不正問題の小保方晴子さんや、五輪エンブレムのデザイン・パクリ問題の佐野研二郎氏のケースとよく似た現象がまたぞろ起きたように筆者には感じられる。

 擁護論の代表的見解は、主として番組などで彼と共演した経験を持つ「識者」たちから出されている。例えば、脳科学者の茂木健一郎氏や、新潮社出版部長の中瀬ゆかりさん等だろう。彼ら彼女らが発する擁護論の言い分は、一言で要約すれば、ショーンK氏自身は人柄が良くて発言が的確であり、魅力と能力があるから学歴や肩書は関係ないといったところだろう。特に、ショーンK氏の物腰が柔らかく、低音ボイスで一見ハーフの好男子であることが評価されているという点では、彼を擁護する識者たちも番組で彼を起用したTV局担当者達も、大同小異の集団無責任の認識に陥っていると言えるのではないか。

 問題の本質は、局を代表するような報道番組でコメントすることが、本当の専門家でなくても務まるかどうか、またそうした専門家以外のタレントを起用しても良いかどうかという点にあると思う。報道番組では、最新のニュースと的確な解説を国民に提供することが本来の目的なのであり、それが国民の「知る権利」を充実させることに繋がり、ひいてはそれが政治権力の暴走を民主的に監視する最大の武器とならなければならないからである。

 こうした点において、新聞もそうだが、特に我が国の放送局では、欧米の主要メディアに比べて真実に迫ろうとする気迫と取材能力が不足していると思われてならない。日本のニュース番組は、筆者の視聴する限り、CNN BBCのニュース番組と比較してもどれも似たり寄ったりの番組構成であるか、「エッジ」の効いていない退屈な解説を垂れ流しているに過ぎないものが大多数であると言える。多分、こうしたニュース番組を作っている人たちも、多忙で十分な取材が出来ないか、ひどい場合には下請けの番組制作会社に低価格で委託してしまっているのだろう。

 ショーンK氏のような単なる「タレント」を何の疑いもなく「専門家」として起用してしまった点でも判るとおり、日本のニュース番組の取材能力の欠落と信頼性の欠如が図らずも露呈してしまったことこそが、今回の問題の背後に潜んだ最も重大な反省点であるはずだ。ショーンK氏の過去の「実績」が次々とネット上から抹消されているようだが、そんな彼の個人的かつ微視的な問題が本質なのではない。報道番組の信頼性が喪失するという事は、日本の民主主義の根幹である国民の「知る権利」を揺るがせることに繋がりかねない深刻な危機なのである。

 茂木健一郎氏ら「識者」の方々には、彼らの「知人」(あるいは「同僚」か「同類」)であるショーンK氏の個人的かつ微視的な問題に優れた思考力を囚われることなく、物事の本質をもっと良く認識した上で慎重な発言をすべきではないだろうか。報道番組でコメントする「専門家」は、朝のバラエティー番組でコメントする「タレント」とは、国民の「知る権利」に対する向き合い方において、その責任の大きさの度合いが遥かに異なっているのだから。筆者は、専門家としてかつて報道番組でコメントした経験を持つ者の1人として、ショーンK氏の今回の経歴詐称問題を受けて身につまされてそう感じたのである。

 だがその一方で、ショーンK氏を今回の失敗だけで社会から完全に抹殺してしまうのには筆者は反対である。彼は、本質的にニュース解説をすべき「専門家」などではなく、テレビ「タレント」なのである。つまり、今後ショーンK氏は、1人の「タレント」としてご自身の天分のある芸能活動に専念すればよいのではないだろうか。

2016年3月11日金曜日

イラク、ハイダル・アバーディ(Haider Al-Abadi)首相への政権交代と政策変更

2014724日、イラク国民議会は、憲法草案起草を手伝ったPUK古参政治家であったフアード・マアスーム博士(Dr. Fuad Ma'soum)を新大統領に選出した。そのマアスーム大統領が、811日、議会のシーア派会派である国民連合内部127人の同意を得て、いわばダアワ党によるマーリキー排除のクーデター成功という形を取って既に国民議会副議長の1人に就任していたシーア派ダアワ党副書記長のハイダル・アバーディ(Haider Al-Abadi)を新首相候補に指名して組閣を命じた。

98日、国民議会は閣僚名簿を承認し、アバーディ政権が正式に発足した。これで20065月の首相就任以来28年間政権を掌握したマーリキー首相は退陣に追い込まれ、新たにアバーディ現政権がイラクに誕生したのである。

アバーディ政権の当初の政治目標は、第1にマーリキー政権時代に拡大したスンナ派とシーア派との宗派間の政治的亀裂を埋めること、第2に官僚組織の腐敗と汚職を無くすこと、そして第3ISとの戦闘で弱さを露呈したイラク軍と治安部隊を再建することであった。

だが、より本質的には、スンナ派の反乱(insurgency)を引き起こし、国内を「万人の万人に対する闘争」に近い安全保障のジレンマ状態に陥らせた失敗国家の弱い中央政府が国民の信認を回復するために必要な、公共サービス、例えば、しばしば断絶する電力や水道、運輸等の基礎的インフラを整備し国民に対して確実に供給することが新政権の最も重要な課題であった。

1の課題については、アバーディ政権は20152月、イラク戦争後の占領時代に制定された脱バアス党法(de-Baathification laws)、正確には20082月に旧法に代って制定された問責・公正法を緩めて、旧バース党員の公職復帰を一層促進しようと試みた。

だが、イラクの現在の政治状況下では、脱バアス党政策と宗派対立を超克するための国民和解政策に関して、各政治勢力間でどの程度旧バアス党員を排除すべきか、あるいは取り込むべきか、その線引きについて激しい対立があるため、逆に中央政府が国民和解政策を推進することが各政治集団の勢力拡大に恣意的に利用されてしまう結果を招き、この政策がかえって政治的亀裂の拡大を促進してしまう効果を持っていると言える。

次に第2の課題については、まず、201411月、アバーディは登録された約5万人の軍・治安部隊要員が実際には任務を遂行していないことを公表した。しかし、アバーディ政権誕生後の注目すべき政治改革案は、2015年夏の最高気温50度を超える酷暑と停電頻発によって各地で起きた、行政に対する国民の抗議デモに対する一種の懐柔策として同年811日に発せられた。実はこの時も、シスターニ師が87日に汚職対策を含む改革案を政府に求めたことが改革案提示の直接のきっかけとなっていた。

この時の改革案は、アバーディ政権発足時に挙国一致体制を作るために宗派・民族間で有力政治家たちに配分された各3人の副大統領職および副首相職を同時に廃止すること、さらには汚職捜査の強化と省庁顧問や大臣職、政府高官警備要員の大幅削減による財政支出の削減、以後の宗派・民族に基づく政府ポスト割り当ての廃止といった、腐敗汚職の元凶とされた既得権益の打破と政治家のいわゆる「身を切る改革」を主たる内容に含んでいた。

これは2014年来の原油価格低迷による歳入の落ち込みとIS掃討のための戦費膨張による財政赤字が、国際通貨基金(IMF)の試算では国内総生産比17%にも上るといったイラク政府の財政危機を乗り越える妥当な目的も伴っていた。

しかし、分極化したイラク国内政治の状況においては、先述したように、民族・宗派集団間の合意に基づいてポストを配分するクオータ・システムこそが、多極共存型民主主義を指向することによって国民和解を達成するための安定装置であったと言える。

したがって、この従来の政治慣行を壊してしまうことは、直ちに各勢力間の均衡を崩してさらなる分裂をもたらす危険があるし、また、アバーディ首相が述べたとおりの能力主義人事がすぐに達成できるはずも無い。

政府の思惑とは別に、かえってシーア派主導の不透明な人事と権益の配分が横行して、マーリキー前首相時代と同様なアバーディ首相とその仲間への権力集中が起きてしまう恐れもあるだろう。

実際、宗派横断型の民族主義政党ワタニーヤ連合を率いるアッラーウィー元暫定政権首相はアバーディ首相と同じシーア派に属しているものの、自らが副大統領職を解任されることもあって、首相の改革案を憲法違反であるとして批判したのである。他の野党勢力の多くも、実際にはこの改革案の実行を妨害しようとしていると考えることが可能だろう。

さて、ISの脅威に対抗し、イラクの領土保全と治安維持を強化する上でアバーディ首相にとって重要であるのが、第3の軍と治安部隊の再建問題である。この点に関して、アバーディ政権の対応は非常に危険なものであった。

その理由は、アバーディ政権がISとの戦闘を継続する中で軍・治安部隊の再建に効果を上げることが遅々として進まず、結局2014610日のモースル陥落直後に再動員されたシーア派民兵に対IS掃討地上作戦の主力部隊の機能を委ねてしまったからである。

当初南下するISに対抗して首都北方のシーア派聖地サーマッラーを防衛するためにシーア派コミュニティから再動員された民兵組織は、サドル派のマフディー軍やバグダードの東部に位置するディヤーラー県を拠点とするバドル軍団など、既存組織が中心であった。

しかし、シーア派の一般市民からも多くの義勇兵が参加するようになると、20147月頃にはシーア派民兵組織が次第に緩やかな人民動員隊として統合されるようになった。問題は、指揮統制がばらばらで寄せ集めの戦力に過ぎない人民動員隊が、イランのイスラーム革命防衛隊から大きな支援を得ていることで、脆弱な中央政府や瓦解したイラク政府軍の力ではコントロールできない程強大な勢力となってしまった点であろう。

イラン・イスラーム革命防衛隊のイラクへの軍事介入は、ナジャフとカルバラーにあるシーア派聖廟を直接防衛するために20147月、革命防衛隊の特殊作戦軍であるコッズ部隊(Nīrū-ye Qods)が司令官ガーセム・ソレイマーニー(Qasem Soleimani)少将と共に派遣されて実際にサーマッラー防衛作戦を指揮したことに始まる。

それ以来、ソレイマーニー司令官は人民防衛隊やペシュメルガと協力し、武器や兵力、諜報面で対IS作戦の遂行を事実上主導している。その最も重要な成果が、20153月のティクリートのIS武装勢力からの解放作戦であった。

同作戦では、主力となった人民防衛隊の兵士たちによって、ISに協力したスンナ派住民に対する報復や略奪・放火が行われたとされる。また、バドル軍団が主力となってIS掃討作戦を成功させつつあったディヤーラー県でも解放区におけるシーア派民兵のスンナ派モスク襲撃事件が2014年夏に起きた。

こうした宗派間抗争を助長するシーア派民兵の活動の背景に、イラク国内での影響力を高めようとするイスラーム革命防衛隊コッズ部隊の支援があったことは十分に考えられるだろう。

人民防衛隊の関与した略奪と暴行に反発したスンナ派部族長と政治家が中心となって、対抗措置としてISと戦うスンナ派部族自警団である国民防衛隊が、20152月に公的に結成された。この構想自体は、2006年から2007年に激化した内戦を克服するために米軍によって結成された覚醒評議会がモデルとなっている。

20152月、アバーディ政権も国民統合を再強化する方策として同構想に賛同しており、各県から集めた義勇兵に加えて15万人規模の国民防衛隊を結成するのが当初の素案であった。部族軍結成に当たっては武器に加えて2万人分の給与の支給も準備されることが公表された。

だが、シーア派が多数を占める国民議会においてはスンナ派兵士に広範な武器供与を実施することに反対であり、依然として国民防衛隊の構想はなかなか進展していない。シーア派が主導するイラク中央政府としては、仇敵である旧バアス党勢力の復権やスンナ派地域政府の実力部隊に国民防衛隊が変じる危険性があることが、逆に国家の分断を促進することに繋がりかねないことを強く懸念しているのであろう。

このようなバグダード中央政府の意向を無視して、イラク軍の訓練に当たるためにアンバール県に駐屯している米軍特殊部隊は、イラク軍に加えて国民防衛隊の主力部隊となる部族兵士の訓練を強化している。また、約35百人のイラク駐留米軍の主たる任務はイラク治安部隊とペシュメルガの訓練と助言であるが、2016会計年度米国防授権法(FY2016 National Defense Authorization Act)の第1223条では、もしイラク政府が民族・宗派の少数派を統治および治安組織に十分統合することに失敗していると大統領が(議会に)報告した場合には、(バグダードの中央政府を介さず)直接ペシュメルガとスンナ派部族治安部隊に対して武器供与ができる権限を大統領に与えているのである。


2016年3月7日月曜日

2016年3月現在の中東の安全保障環境(2)

サウジアラビアにとって最大の脅威は、アラビア半島西南部を占めるイエメンである。イエメンの現在の人口は約25百万人で、サウジアラビアの人口にほぼ匹敵している。イエメンは山岳地帯が多く、国内が分裂しやすいため、内戦に陥りやすい。そして、対IS掃討作戦を通じて北のイラクで影響力を伸ばしているシーア派大国イランが、南方のイエメンでシーア派の反体制武装勢力フーシー派を支援していることは、ヒジャーズにあるスンナ派の二聖都守護者を以て任じるサウジアラビアにとって、シーア派から南北を挟撃されかねない重大な脅威であったと言える。

だが、サウジアラビア軍にイエメンを制圧しきるほどの力は恐らく無い。サウジアラビアは、軍による王政打倒のクーデターを伝統的に恐れ、王家は軍を余り信用していない。サウジアラビア正規軍の兵力は最小限の規模に留められ、兵士は士気が低く、練度も不十分な状態にある。その結果、イエメンに対するサウジアラビアの軍事介入はその出口戦略が見えないまま、曖昧な政治目的の下で空爆を中心に断続的に続けられているのである。

最後にトルコの地政学的立場であるが、データを見ると、トルコは軍事費支出において域内でサウジアラビアに次いでおり、イスラーム圏では突出した軍事大国であることは間違いない。トルコはイランと同様に、中東の最も豊かな農業地帯と技術的に最先端の工業地帯を共に抱えている高原地帯の組織化された強力な国家である。

だが、トルコについては、旧ソ連圏のステップ地帯と、リムランドにあるペルシャ湾岸という、世界の二大エネルギー産出地を架橋する極めて有利な地政学的位置にイランが存在することに比べると、南の地中海と北の黒海に挟まれた押し詰められた広がりの無い陸橋に位置しているため、その周辺地帯への影響力は限定されたものにならざるを得ないのである。

トルコでは、21世紀に入ってレジェップ・タイイップ・エルドアン(Recep Tayyip Erdoğan)が率いるイスラームに基づく中道保守と経済自由主義の推進による欧州連合(EU)加盟を目指す公正発展党(Adalet ve Kalkınma Partisi, AKP)が政権を握ると、中東よりも欧州に目を向けたケマリズムは次第に力を喪失して、代ってトルコ民族主義が台頭し始めたのである。

現在のトルコはむしろ周辺国との対立を再燃させてでも、シリアのバッシャール・アサド(Baššār al-ʾAsad)大統領の退陣とアメリカが主導する対IS掃討作戦に消極的ながらも協力する方向に方針を転換した。また、最近のエルドアン政権は強大なロシアとの対立も敢えて辞さない独自の気構えを示している。こうしたトルコの強硬姿勢への転換は、2014年以来ISへの対応をめぐって極めて不安定な状態に陥った中東の安全保障環境にとって、イランとサウジアラビアの国交断絶と同じ位に悪影響を及ぼしかねない大きなリスクを孕んでいると言えるだろう。

現在のイラクを取り巻く地政学上の諸問題には、以下のような複雑な論点と多数の行為者が絡み合っていると思われる。それを一言で結論付ければ、重要な空間が対立する諸勢力によって混雑してしまい、中央政府の調整とコントロールによって適切に利益を分配する余裕が失われているという事である。

例えば、イラクではシーア派とスンナ派、そしてクルド人が相互に宗派間、民族間で対立する状況にあるが、シーア派に対してはイランが、スンナ派に対してはサウジアラビアが、クルド人に対してはアメリカとトルコがそれぞれ自分の国益を伸ばすための勝手な思惑から外部より支援を継続している。これだけを見ても、脆弱なバグダードの中央政府が国内外の情勢をコントロールすることは不可能だろう。

さらに言うと、アメリカのイラク戦争遂行とその後の占領統治によって、第1次世界大戦後のオスマン・トルコ帝国アラブ領土の分割に関する基本枠組み、すなわちサイクス・ピコ協定に基づくアラブ近代主権国家体制が崩壊し始めた事実を考慮しなければならないだろう。

もともと、中東アラブ世界の心臓部とも言える肥沃な三日月地帯は歴史的・文化的に一体化された地域であり、それをイラクとシリアに分割すること自体がそもそも無理だったとも言える。サッダーム・フセイン大統領やハーフェズ・アサド大統領の様な強権体制が崩壊した肥沃な三日月地帯では、その力の空白を埋めるようにISの勢力が台頭している。

換言すれば、現在のイラクは広大で貧しい過密都市に流入するユースバルジを統治する困難に見舞われており、それがイラク戦争後に曲りなりにも構築された脆弱な民主主義を崩壊させる原因となりかねない状況をもたらしている。

そして、ISの様な非対称で無国籍な権力が国家の重荷となった空白地帯に浸透し、マスメディアや情報通信技術を利用して自分達のイデオロギーや要求を世界に宣伝し、拡散させることによって若者の間で喪失されたアイデンティティを強化し、海外からの支援と同志を結集させることに成功しつつある。

こうした準国家的な武装勢力はシーア派でも見られるが、こうした勢力は小型武器で大国の軍事力に非対称に対抗できる程の軍事技術を保有している。ISやヒズブッラーのように、一定の領域を支配できる位の暴力手段を集中させているケースも見られるため、それを脅威と見なす大国が外部から介入している。その結果、地域の混乱とパワーシフトが助長されているのが中東の安全保障環境の実情であろう。

2016年3月現在の中東の安全保障環境(1)

昨年74日に締結された核問題最終合意「包括的共同行動計画」(JCPOA)発効以後のアメリカとイランの接近、シリア内戦とISへの対処をめぐって強化されつつある両国の提携関係構築の動きによるペルシャ湾岸地域での力の均衡の変化が、サウジアラビアの安全保障上の反発と対イエメン軍事活動の強化、そして最近のロシアへの接近行動を引き起こした。

JCPOAの取り決めによって国際社会のイランに対する経済制裁が解除されれば、最終的にはイランの核開発が制限されつつも継続されることになるため、サウジアラビアも早晩核開発あるいは外国からの核導入への道を歩んでいくことになるだろう。

 トルコの対イラク戦略も対ISを主たる標的とするものであると言うよりは、やはりシリアとトルコのクルド人勢力を牽制する目的で構築されている。つまり、イラク北東部のアルビル、ドホーク、スレイマニーア、ハラブジャの4県を中央政府から事実上独立して支配するクルディスタン地域政府(KRG)の最有力政党であるクルディスタン民主党(KDP: Partî Dîmokratî Kurdistan)をトルコ政府は支援している。

その理由は、イラクのKDPが左翼主義に立つトルコのPKKと仲が悪いことをトルコが利用するとともに、トルコとイラクの国境地帯が険しい山岳地帯によって分断されているため、必ずしも両国のクルド人勢力同士が簡単に連携できない地政学的状況が働いているからなのである。

 イラク戦争後のイラクにおいて採用された政治制度は、多極共存型デモクラシーが指向されているとされる。しかし、この多極共存型民主主義の指向が、今日まで続くイラク国内の民族・宗派間の抗争を助長している。なぜなら、それは社会の亀裂を所与の前提に置いていたため閣内の意思決定を統一することに失敗し、かつてのバアス主義の様なナショナル・アイデンティティを政権が国民に提示することができなかったからである。

201498日、20065月の首相就任以来28年間政権を掌握したマーリキー首相は退陣に追い込まれ、アバーディ政権が正式に発足した。アバーディ政権の当初の政治目標は、第1にマーリキー政権時代に拡大したスンナ派とシーア派との宗派間の政治的亀裂を埋めること、第2に官僚組織の腐敗と汚職を無くすこと、そして第3ISとの戦闘で弱さを露呈したイラク軍と治安部隊を再建することであった。

だが、より本質的には、スンナ派の反乱(insurgency)を引き起こし、国内を「万人の万人に対する闘争」に近い安全保障のジレンマ状態に陥らせた失敗国家の弱い中央政府が国民の信認を回復するために必要な、公共サービス、例えば、しばしば断絶する電力や水道、運輸等の基礎的インフラを整備し国民に対して確実に供給することが新政権の最も重要な課題であった。

ISの脅威に対抗し、イラクの領土保全と治安維持を強化する上でアバーディ首相にとって重要であるのが、第3の軍と治安部隊の再建問題である。この点に関して、アバーディ政権の対応は非常に危険なものであった。その理由は、アバーディ政権がISとの戦闘を継続する中で軍・治安部隊の再建に効果を上げることが遅々として進まず、結局2014610日のモースル陥落直後に再動員されたシーア派民兵に対IS掃討地上作戦の主力部隊の機能を委ねてしまったからである。

問題は、指揮統制がばらばらで寄せ集めの戦力に過ぎない人民動員隊が、イランのイスラーム革命防衛隊から大きな支援を得ていることで、脆弱な中央政府や瓦解したイラク政府軍の力ではコントロールできない程強大な勢力となってしまった点であろう。

イラクはよく言われるような第1次世界大戦後に英国が作った完全な人工国家などではなく、古代にその基盤を有する文明の1つの砦であるが、そこでアメリカの占領後に構築された多極共存型民主主義は、前章で指摘したとおり、腐敗と汚職にまみれた非効率的な統治によって国民に十分な治安維持による安心供与と行政サービスを提供することに現時点で成功していない。つまり、少なくとも当面の間、イラクは脆弱な失敗国家の地位を抜け出すことはできないものと思われる。

イランの地政学的強みは、その伝統文化とシーア派イデオロギー、そしてイスラーム革命防衛隊の暗躍による旧ソ連圏や肥沃な三日月地帯へのソフトパワーとハードパワーの行使だけにとどまらず、内陸部にあるカスピ海沿岸諸国とペルシャ湾岸の二大原油・天然ガス生産埋蔵地帯の間にパイプライン網を張り巡らせることで仲介できる点にも注目すべきであろう。

イランの中東における地政学的優位は周辺国から隔絶したものがあるが、弱点は対外関係ではなくむしろ国内の方にある。つまり、イラン国内では、欧米諸国との距離の置き方、経済自由化を進める程度、イラクやパレスチナ問題への介入やヒズブッラー支援の在り方、そして民主主義的な政治改革をめぐって国内で対立が残存している。恐らくこうした国内での対立が、イランの抱える矛盾を示している。

2016年3月6日日曜日

地政学的に見た中東安全保障環境の現状

前投稿までの考察から、今日のイラク情勢の混乱の原因を、よく言われるようにアメリカのイラク占領統治の失敗や、マーリキーとアバーディと続いたシーア派主導の中央政府の政治運営失敗に単純に帰してしまうとすれば、それは恐ろしく皮相な見方と言わざるを得ないだろう。

なぜなら、ジョージ・W・ブッシュ米前大統領やマーリキー首相、アバーディ首相やその側近政治家たちの能力だけで、イラクを取り巻く地政学的な諸問題をうまく解決することは多分困難だったからである。

現在のイラクを取り巻く地政学上の諸問題には、以下のような複雑な論点と多数の行為者が絡み合っていると思われる。それを一言で結論付ければ、重要な空間が対立する諸勢力によって混雑してしまい、中央政府の調整とコントロールによって適切に利益を分配する余裕が失われているという事である。

例えば、イラクではシーア派とスンナ派、そしてクルド人が相互に宗派間、民族間で対立する状況にあるが、シーア派に対してはイランが、スンナ派に対してはサウジアラビアが、クルド人に対してはアメリカとトルコがそれぞれ自分の国益を伸ばすための勝手な思惑から外部より支援を継続している。

これだけを見ても、脆弱なバグダードの中央政府が国内外の情勢をコントロールすることは不可能だろう。問題処理の困難さは、マーリキーやアバーディといった政治指導者たちの個人的資質や能力によって克服できる水準を遥かに上回っている。

さらに言うと、アメリカのイラク戦争遂行とその後の占領統治によって、第1次世界大戦後のオスマン・トルコ帝国アラブ領土の分割に関する基本枠組み、すなわちサイクス・ピコ協定に基づくアラブ近代国家体制が崩壊し始めた事実を考慮しなければならないだろう。

もともと、中東アラブ世界の心臓部とも言える肥沃間三日月地帯は歴史的・文化的に一体化された地域であり、それをイラクとシリアに分割すること自体がそもそも無理だったとも言える。

同じように、サイクス・ピコ協定など英仏両国の勢力圏分割の取決めによって近代主権国家として建国されたトルコとイスラエルでは、その後の歴代世俗政権が民族主義化政策を強力に押し進めた結果、100年後の現在ではいちおうトルコ人、イスラエル人という国民意識が芽生えてきた。

ところが、イラクやシリアなど肥沃な三日月地帯のアラブ国家では、バース党世俗政権が近代主権国家統治に必要不可欠な統合された国民意識を醸成できず、結局は宗派や部族意識が残存したまま、サッダーム・フセイン大統領やハーフェズ・アサド大統領の様な、秘密警察と治安部隊を利用した強権統治体制を築き上げて自国民を大量虐殺することで国家の統一を維持せざるを得なかったのである。

そうした強権体制が崩壊した肥沃な三日月地帯では、その力の空白を埋めるようにISの勢力が台頭している。IS2014年以来同地域に浸透した背景には、やはり重要な空間が対立する諸勢力によって混雑してしまっていることがあるだろう。

例えば、大中東圏、すなわち東南アジアを除くイスラーム世界の人口は今後20年間で12億人超に増大し、その中心部に位置するアラブ世界では人口がほぼ倍増すると見込まれている[]

ロバート・カプランは、以下の様に述べている。すなわち、この地域は世界の確認石油埋蔵量の70%、天然ガス埋蔵量の40%が集中している。また、過激主義イデオロギー、群衆心理、重なり合うミサイル射程圏、儲け主義のマスディアによる偏向報道など、さまざまな不安定要因が働く地域でもある。中東は人口構成に占める若者の割合が突出して多い「ユースバルジ(若者の膨らみ)」のさなかにあり、人口の65%35歳未満である。1995年から2025年までの間に、イラク、ヨルダン、クウェート、オマーン、シリア、ヨルダン川西岸地区、ガザ地区、イエメンの人口は2倍になるだろう。若年人口は、アラブの春でも見られたように、混乱と激変を後押しする原動力となることが多い[]

つまり、カプランの地政学的考察を援用すれば、現状のイラクは広大で貧しい過密都市に流入するユースバルジを統治する困難に見舞われており、それがイラク戦争後に曲りなりにも構築された脆弱な民主主義を崩壊させる原因となりかねない状況をもたらしているのである。

そして、ISの様な非対称で無国籍な権力が国家の重荷となった空白地帯に浸透し、マスメディアや情報通信技術を利用して自分達のイデオロギーや要求を世界に宣伝し、拡散させることによって若者の間で喪失されたアイデンティティを強化し、海外からの支援と同志を結集させることに成功しつつある。

ISの様な準国家的な武装勢力はレバノン南部を実効支配するヒズブッラーなど、スンナ派のみならずシーア派でも見られるが、こうした準国家武装勢力は小型武器で大国の軍事力に非対称に対抗できる程の軍事技術を保有している。

ISやヒズブッラーのように、一定の領域を支配できる位の暴力手段を集中させているケースも見られるため、それを脅威と見なす大国が外部から介入している。その結果、地域の混乱とパワーシフトが助長されているのが中東の安全保障環境の実情であろう。


[] カプラン『地政学の逆襲』148頁。
[] 同上、298頁。