2015年4月23日木曜日

イラン核開発の目的に関する考察

1.イスラエルの見方

 イスラエルでは、イランの核開発は核兵器製造能力を持つに到達することを目的としていると見なされている。例えばイラン核開発の目的について、テルアビブ大学国家安全保障研究所(Institute for National Security Studies: INSS)シニア研究員のシュミュエル・イーブンは、以下の5つの理由を掲げているShmuel Even, "The Israeli Strategy against the Iranian Nuclear Project," Strategic Assessment (INSS), Vol. 16, No. 4, January 2014, p. 8.

a.    アメリカに率いられた主要国に対する核抑止力を獲得すること。
b.    イスラエルとの核の戦略的均衡を創出すること。
c.     中東におけるイランの地域覇権を達成すること。
d.    イスラーム世界におけるイランの立場と影響力を強化すること。
e.     内政上の目的として、一般のイラン国民および特に体制支持者の間でのイスラーム体制の威信を強めること。

  以上を整理すると、イラン核開発の目的は、まず第1に、核抑止力の獲得(理由A)、第2に、地域における影響力の強化、かつ最終的に地域覇権の達成(理由B)、そして第3に、国内的なイスラーム体制の威信強化(理由C)であると、イーブンは考えていることになる。わかりやすいイメージとしては、ABCAかつBかつC)の目的を達成するための必要条件として核武装があり、その能力に到達するための核開発(換言すればウラン濃縮P)であるということになる。
  しかし、「A(核抑止力の獲得)⇒P(核開発/ウラン濃縮)」の論理式は、その対偶命題「¬P(核開発しない)⇒¬A(抑止力を獲得できない)」が真であるから成立することは容易に理解できるが、「¬P⇒¬B」と「¬P⇒¬C」の論理式が成り立つかどうかについては疑問がある。すなわち、イランが核開発しないからといって地域覇権が達成できないわけではないし、同様にイランが核開発しないからといって体制の威信が強化されないわけでもないからである。つまり、地域覇権目的(B)や体制の威信強化(C)のための必要条件としてイランが核開発をしているという論理式は、必ずしも成立しないのである。この点に関連して、イランの核開発が核抑止力の獲得(A)を目的としたものであることについて、実証的なデータから裏付けることができる。


2.COWデータから読み取れるもの

  COWCorrelates of War)は、ミシガン大学のデービッド・シンガーらが1963年に始めた戦争研究のためのデータ収集プロジェクトである[1]。同プロジェクトによって構築された膨大なデータセットのうち、National Material Capabilitiesversion 4.0[2]の中から、中東主要7か国(イラン、トルコ、イラク、エジプト、シリア、イスラエル、そしてサウジアラビア)の1948年(イスラエル建国年)から2007年までの60年間の軍事費およびCINCComposite Index of National Capability)スコアを集めた。
  CINCスコアとは、各国の鉄鋼消費量、エネルギー消費量、兵員数、軍事費、都市人口、全人口の6つの国家の物質的基盤、換言すればパワーの基礎となる資源について、国ごとの毎年の占有率を合成して算出した指標である[3]。このデータを見ることにより、軍事力とは別次元での各国のパワーの潜在力を知ることができる。
  このデータから読み取れるものは次のとおりである。まず、軍事費の時系列データから見ると、イスラエルは1968年以降軍事費を順調に増大させていることがわかる。これは、196765日から10日の間に起きた第3次中東戦争(六日戦争)の結果、東エルサレムとヨルダン川西岸(ヨルダン領)、ガザ地区(エジプト領)、ゴラン高原(シリア領)、そしてシナイ半島(1982425日エジプトに返還)とイスラエル占領地が戦前の4倍以上に拡大したことが大きく影響していると思われる。2007年時点では、イスラエルの軍事費はサウジアラビア、トルコのアメリカの両同盟国に次ぐ地域第3位の約116億ドルであり、同年のイランの軍事費約745千万ドルの1.5倍以上の額に上っている。 
  他方、イランの軍事費はシャー(パーレビ国王)時代の1978年からイラン・イラク戦争(1980922日から1988820日)の間は急激に増大したが、戦後の1990年代初頭に大幅に落ち込んだ後、90年代後半に再び上昇した後は緩やかに下降し、2003年以後再び上昇しつつある傾向が見て取れる。イスラエルが六日戦争の勝利以降、着実にその軍事的パワーを向上させていることと比較すると、対するイランの方は、19792月に起きたイスラーム革命とその後のイラクとの戦争の激動期を経てきた事情があるとはいえ、自国の軍事的パワーの向上に関して極めて不安定な経緯をたどってきたと解釈することができるだろう。それが、イランを核開発に邁進させる理由であると考えることも可能である。例えば、イランの軍事費は1990年代後半に急増するとともに、2003年以降も明らかな上昇傾向を示しているが、その含意を核開発と関連付けてみると、以下のとおりである。
まず、90年代後半にイランはパキスタンのアブドゥル・カディール・カーン博士のネットワークからウラン濃縮に必要な遠心分離機の技術等を導入するとともに、北朝鮮やロシア、中国の協力で弾道ミサイルの開発を推進した[4]。イスラエルを攻撃圏内に収める射程約1300キロメートルの弾道ミサイルであるシャハブ3の発射実験に初めて成功したのは、19987月である。ほぼ同時期の1999年以降、イランは核開発を加速させたと見られている[5]。弾道ミサイルに通常弾頭を搭載するだけでは、1991年の湾岸戦争におけるイラクのイスラエルに対するスカッド・ミサイル攻撃の事例を鑑みても、その戦略的価値はほとんどないに等しい[6]。核兵器を弾頭に搭載することができて、初めて弾道ミサイルの運搬手段としての戦略的価値が生まれる。したがって、イランが1990年代後半に軍事費を急増させたのは、恐らく核兵器運搬手段としての弾道ミサイルと、それに搭載する核弾頭の開発を意図したためであると見ることが素直な解釈であろう。
他方、2003年以降のイランの軍事費上昇は、核開発が暴露されたことによるイスラエルや欧米諸国との緊張激化の情勢を反映したものであるだろう。核開発をさらに推進した強硬派のアフマディネジャド政権が200586日に誕生したことも、この時期のイランの軍事費の上昇を招いた要因の1つであるかもしれない。いずれにしても、イランの軍事費データを時系列的にみると、核開発を加速した時期とほぼ連動して上昇している傾向が見られる。その含意は、イランは端的にイスラエルに対する戦略的な均衡目的で核開発を進めた、すなわち、前述したように核抑止力の獲得目的でイランが核開発を進めているという論理を裏付けるものである。
次に、イスラエルとイランの物質的能力の基盤を示すCINCスコアに目を向けてみた。スコアの時系列データを見ると一目瞭然であるが、イスラエルは建国以来60年の間に、約0.0011から0.0041程度までしか自国の物質的能力の基盤を向上できていない。これは、ほぼシリアのCINCスコアの時系列的な進展具合と並行して推移しており、そこからイスラエルとシリアの両国は物質的能力の基盤においては同等程度で、他の域内5カ国と比べても小規模に過ぎないという事実である[7]
これに対して、ペルシャ湾岸の一大産油国でもあるイランの方は、1948年時点のスコア約0.004から、2007年時点では約0.013にまでスコアを伸ばしている。イランの物質的能力は、その基盤において域内で経済発展が著しいトルコのスコアに次ぐ規模であり、イスラエルのスコアの約3.37倍なのである。つまり、イランのパワーの物質的基盤はイスラエルのそれの3倍以上であり、能力の分布状況で考えれば、イランは域内大国であるがイスラエルは小国に過ぎない事実を示している。 
もちろん、国家のパワーは必ずしも物質的能力基盤の分布のみによって測定できるわけではない。先に見たとおり、軍事費データだけを見ればイスラエルは2007年時点でイランの軍事費の1.5倍以上を計上しており、1960年代末にはすでに核武装に成功して域内単独の核抑止力を保有している事実を鑑みれば、イランとの軍事的パワーの格差は、むしろ優勢を維持していると言えるだろう。しかし、イスラエルとイラン両国のCOWデータの検証から、両国とも同様に自国の軍事的パワーと物質的能力基盤の双方の指標の間に、戦略的に無視しがたいギャップが存在していることは明らかであろう。

3.まとめ

  前節における実証的なCOWデータの検証から、中東地域においてイスラエルは物質的能力の基盤が小さいにもかかわらず軍事的パワーの規模は大きく、それとは逆にイランの方は物質的能力の基盤が大きいにもかかわらず軍事的パワーの規模は小さいという、両国とも戦略的に無視しがたいギャップを抱えている事実が明らかとなった。
  前述したとおり、イスラエルは1960年代末に恐らく核武装を達成し、域内で単独の核抑止力を確保することによって、自国の物質的基盤の脆弱さを戦略的に克服した[8]。それに対するイランは、792月のイスラーム革命以来アメリカとの対立を続けてきた結果、シャー時代の莫大なアメリカからの軍事援助が途絶えることで8年間にわたるイラクとの戦争に苦戦するとともに、イスラエルとサウジアラビアというアメリカの域内同盟国に対する軍事的パワーの劣勢を強いられてきた。そうした軍事的パワーの脆弱さを、1990年代後半以降の核開発を通じて補填しようとした。同時にイランは、シリアのアサド政権とレバノンのヒズボラ、そしてパレスチナのハマスという、イスラエル領土に隣接するイスラエルの敵対勢力を支援し影響力を行使することで、イスラエルに対する戦略的な梃子を維持してきた。
  イランとしては、19676月の六日戦争以来イスラエル有利に配分された占領地等の資源を、戦略的な梃子として利用できる自らの代理勢力に再配分させるとともに、自国の保有する物質的能力分布に見合った軍事的パワーを獲得することが合理的な戦略的判断となる。核開発を通じてイスラエルに対する核抑止力を獲得することと同時に、代理勢力への資源再配分をイスラエルの犠牲において強いることが、恐らくイランの究極の目的であろう。
 したがって、この最終目的を達成するためには、国際社会から厳しい制裁措置を受けてもイランはウラン濃縮等の核開発を停止しないのが合理的な選択だろうし、事態が悪化していく危機的状況の下では、恐らくイスラエルとの核軍拡競争も辞さないと思われる。


[1] COW Project History, <http://www.correlatesofwar.org/>, accessed on March 17, 2014.
[2] Ibid.
[3] Correlates of War Project National Material Capabilities Data Documentation Version 4.0 (Last update completed: June 2010), <http://www.correlatesofwar.org/>, accessed on March 17, 2014;  浜中新吾「中東地域政治システムとイスラエル―国際システム理論によるイラン問題へのアプローチ―」『山形大学紀要(社会科学)』第42巻第1号(2011年)、8頁。
[4] 浜中、同上13頁。
[5] 浜中、同上13頁。
[6] イラクは湾岸戦争中の1991118日から42日間に、合計18回スカッド・ミサイルをイスラエルに向けて発射した。この攻撃でイスラエルでは226人が負傷し、14人が死亡したが、ミサイルの直撃による死者はわずか2人に過ぎなかった。Steve Fetter, George N. Lewis, and Lisbeth Gronlund, “Why were Casualties so low?” Nature, Vol. 361 (28 January 1993), pp. 293–296, <http://drum.lib.umd.edu/bitstream/1903/4282/1/1993-Nature-Scud.pdf>, accessed on March 17, 2014.
[7]浜中「中東地域政治システムとイスラエル―国際システム理論によるイラン問題へのアプローチ―」8-9頁。
[8] 浜中、同上911頁。

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