2015年4月25日土曜日

日本史上の戦いに関する考察1.ナポレオンを彷彿とさせる太田道灌の戦略機動

 筆者の専門は、中東の安全保障に関する研究であるが、高校時代から最も好きだった科目は日本史である。日本史上でも数多の戦いが行われたが、国際紛争を研究する際に、同盟の締結や戦争開始の理由、戦略機動のルート等について参考になるのは、東国の戦乱については概ね鎌倉大草紙と永享記の比較的信頼できる2つの資料が参照できる、上杉禅秀の乱(応永23=1416年)以降に過ぎないと思う。

 それ以前の時期については、資料が少ないため、そもそもなぜ戦争が始まったのか、敵味方の兵力、提携関係、戦略的にどのように部隊を移動させたか等々、重要な点がほとんど判然としない。日本全体の人口が1千万人を超えていなかったので、恐らく万単位の兵力を投入した戦闘はほぼ皆無だっただろう。武士が台頭した保元の乱では洛中の市街戦だったが、源平双方とも動員した兵力は京内に手持ちの数百人程度であった。

 平維盛率いる平家軍が木曽義仲など北国の反乱軍討伐のために遠征した時は勅命による官軍だったので、各国の国衙領および荘園から駆り武者を動員できた。そのため、この時は1万人以上の兵力を動員した模様だが、当時は平家が、大黒柱である清盛死後の追い詰められた状況下で、ほぼ全力を投入して乾坤一擲の勝負に出た特殊事情を考慮しなければならない。逆に言えば、兵力が多すぎて統制が取れなかったためにかえって簡単に敗北してしまったのではないかと思われる。軍需物資の調達も、当時畿内を中心に西国は養和の大飢饉後であったため、困難を極めたのではないか。

 源義経が活躍したその後の合戦では、鎌倉側、木曽義仲軍、そして平家軍のいずれも動員兵力は2から3千人程度の印象だ。頼朝の奥州平泉遠征でも同様である。鎌倉側が藤原泰衡側の2、3倍の兵力は動員しただろう。後鳥羽上皇と鎌倉幕府が衝突した承久の乱の際の幕府側動員兵力の吾妻鏡の記録も明らかに過大で、実際にはその十分の一程度の兵力だったと思われる。
 
 このように、鎌倉時代以前については、具体的な紛争や戦闘の分析がほとんどできない。

 南北朝期になると、太平記は当てにならないが、梅松論と難太平記を参照できるので、大きな戦略までは不明であるが、個々の戦闘の際の状況については比較的良くわかるようになってくる。特に今川了俊の書いた難太平記は自分が今までに読んだ史書の中では、カエサルの書いたガリア戦記やヨセフスの書いたユダヤ戦記に匹敵するくらい面白いし、資料的価値もあるだろう。

 了俊自身が九州探題として宮方を追い詰めて大活躍した武人だった上に、失脚後は文化人として名を上げた稀有な才能の持ち主であったから、彼が時の将軍足利義満に対する憤懣から書いた難太平記が面白くないはずがない。日本において資料的価値と文章の面白さの両面で難太平記に匹敵する資料と言えるのは、私見では、太田牛一が書いた信長(公)記と、大久保彦左衛門が書いた三河物語くらいしか無いと思う。

 さて、難太平記を読んでみると、当時も鎌倉時代以前と同じく、兵力の動員は一族や譜代の家人・郎党の中核部隊を除けば、専ら強制ではなく各自の自発的参加による駆り武者方式に依存していた模様である。それゆえ、軍を率いる総大将の人気や名声が戦力に大きな影響を及ぼす。足利尊氏が、北条氏や後醍醐天皇、弟直義との激烈な権力闘争を経ながら最終的に勝利できたのは、彼の家柄と個性に裏付けられた人気と名声が、他の指導者達より優越していたためだろう。

 非常に興味深いのが、大将クラスが前線で実戦に参加し、多数の討ち死にを出している点である。例えば、了俊の父今川範国は駿河手越河原や京周辺、美濃青野原(後の関ヶ原)で自身太刀打ちに及ぶなど最前線で実戦に参加して軍功を上げているし、範国の兄頼国は、中先代の乱の時に相模川渡河作戦に参加して矢20本を身に立てられて討ち死にしている。総大将の尊氏や直義も実戦経験が豊富な様子で、何度も敗戦の際に自害しようとする場面が出てくる。

 こうした大将クラスの戦闘参加は、戦国時代以後は余り見られなくなり、大将は後方の本陣で指揮に専念する近代戦方式をとるようになる。恐らく、南北朝時代までの駆り武者動員体制においては、統一された部隊の編成も不可能であるし、大将の個人的武勇の発揮が戦力を維持するために重視されたのではないか。戦闘に参加する部隊の規模も今日の大隊か連隊程度だったため、指揮官が実戦に参加しても指揮統制上、さほど問題が無かったのかもしれない。

 南北朝時代までは、攻城戦よりは会戦で勝敗の決着が着いた印象を受ける。これが、永享の乱以後の時代になると、明らかに攻城戦が増えてくる。結城合戦あたりから城をめぐる攻防戦で勝敗を決する傾向が顕著となる。市街戦でも、まず敵の機先を制して敵の拠点である屋敷を襲撃する場合が多くなる。襲撃に失敗した後に市街戦に突入するようだ。

 戦国時代になると、大規模な会戦がほとんど無くなり、大名領国の境目の城を奪取するか防衛するかが紛争の大部分を占めている。国単位の広大な領域を一円支配する大名としては、大規模な会戦で兵力を喪失したら、直ちに自家の滅亡につながりかねない危険を認識していたのだろう。
 
 戦国大名同士の例外的な会戦の事例として、例えば桶狭間の戦いと長篠の戦いが挙げられるが、このどちらの場合も紛争の発端は領国境目の城の争奪戦であった。しかも、決戦に敗れた側は、敗戦からさほど経ない短期後に滅亡に至っている。日本国内でも屈指の勢力を誇った今川氏と武田氏だ。

 一貫した戦略機動のモデル・ケースは、長尾景春の乱(文明8~12=1476~80年)の際の太田道灌の部隊移動である。景春に、古河公方足利成氏に対抗するための策源地である五十子陣を攻撃された山内、扇谷両上杉勢が1477年、山内家の本拠地上野国に撤退すると、道灌は江戸城から出撃して、自身と扇谷家の本拠地である江戸城と河越城の連絡を遮断していた豊島氏を江古田原の戦いで破った後、豊島氏の拠点石神井城を攻略した。

 その間、道灌は江戸・河越両城を味方の軍勢に守備させた上で、相模・武蔵両国を転戦して景春与党を相次いで各個撃破していった。1477年7月に古河公方成氏が景春支援のため東上野に侵攻してくると、道灌も上野に転戦して山内上杉の本拠白井城に上杉勢を後退させた。古河公方との和睦成立後、豊島氏が豊嶋郡平塚城で再蜂起したため、道灌は1478年1月平塚城を攻撃し、通説では後退した豊島氏を橘樹郡小机城まで追撃したとされる。

 4月に道灌は小机城を落として豊島氏を滅亡させたと言われ、12月には下総に侵攻して千葉氏を攻撃した。1479年7月には千葉介孝胤の籠城する臼井城を攻略している。最終的には、道灌の活躍によって、上杉方が1480年6月、景春を秩父日野要害で降伏に追い込むことに成功している。

 鉄道や車両の無いこの時代に、太田道灌の部隊が短期間にこれだけの機動力を発揮できたことには正直驚くが、江戸、河越、鉢形などの拠点城郭(水堀だったと思われる江戸城を除いて、土塁と空堀の城)が策源地として機能している点にも、従来とは異質な近代的な軍事作戦の印象を受ける。

 恐らく道灌は、平時から軽装歩兵(足軽)を雇用して江戸城に集結させ、戦闘訓練に勤しんでいたに違いない。従来型の駆り武者動員軍では、道灌のこのような戦略は取りようがない。江戸城と河越城には、戦略機動に必要な補給物資も十分に集積していたのだろう。そうでなければ、このような迅速な軍の展開は不可能である。正にナポレオン軍を彷彿とさせる見事な内線作戦だ。

 文明18(1486)年、道灌は主君上杉定正の相模国糟谷館に招かれ風呂場で暗殺されたが、これは道灌の軍事力と名声の高さによる下剋上を恐れた定正の謀略による事件と言われている。暗殺時に道灌は「当方滅亡」と発したとされるが、「当方」が道灌自身を指すのか、主家である扇谷上杉家を指すのかは謎のままである。恐らく後世の人が作った伝承に過ぎないのではないだろうか。

 しかし、太田道灌がその後15年もし生きていれば、扇谷家は下剋上で多分乗っ取られていたであろう。そうなれば、伊勢宗瑞(俗に言う北条早雲)が相模国を席巻できたかどうか、大いに興味が湧くところである。

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